
今回の記事タイトルにある「Aja」に見られる《巫山の雲雨》という事ですが、これは四字熟語である「巫山雲雨」から来ている世界観を歌にしたのでありましょう。
そこでの男女の情交(☜性的な肉体の交わり)の隠喩でもあり、嘗ては『日本青年の歌(昭和維新の歌)』でも冒頭から《巫山の雲は亂れ飛ぶ》などと従軍慰安婦との情交を正当化且つ「乱れ飛ぶ」と歌っているという非常に怪しからん内容であり、当時の昭和天皇ですら品位の缺如に怒ったという位ですから、まあその酷さが窺い知れるものです。

とはいえ、「日本青年の歌」が取り上げた情交が品位を欠いた情交であるに過ぎず、「巫山雲雨」を常にネガティヴに捉える必要はなく、「Aja」の歌詞から仄めかされる世界観のひとつには、矢張りそこには中国や朝鮮或いは日本という極東での男女の情交を神秘的に描いている様な世界観を思わせる物であります。
例えば「Aja」の歌詞にある 'Up on the hill' という歌詞は、女性の乳房・恥丘を示している物とも捉える事が可能であり、そこには性的な関係、つまり情交を仄めかしている事も窺い知る事が出来る訳です。決して、直喩的に「丘の上」だけを額面通りに受け取ってしまっては解釈を狭めてしまう物なのです。
唯、そこは矢張りSD。単なる神秘的な情交というだけには留めない多義性を含んだ言葉で形成されております。例えば、先の歌詞に続く 'People never stare' というのは、
「誰も見てはいないのだから」
「誰も気にしてはいない」
「大声で叫んでも誰も来ないぞ」
という状況すら浮かんで来る物でもあり、単に「誰も見てはいない」という歌詞の中に、「逃れる事はできない」という性犯罪の側面すら見えて来るのです。
そこから飛躍的に深読みすると、キリスト教の戒律が及ばぬ東洋の地で東洋女性をレイプする様な描写、或いは東洋人女性を巧み騙くらかし人目を避けて言いくるめる、という状況すら浮かんで来る訳です。なぜ「言いくるめる」必要があるのか!? 恐らく当人は、
'I run to you'
つまり、東洋人女性の元へ逃亡しているのだと。または資金的な援助として東洋人女性をパトロンとして見付けて性的関係に陥っているのだという風にも捉える事が出来るのです。
加えて、男女の関係に見せかけておいて、実は世界を巨視的に俯瞰した時の各国の軍事力を表しているのかもしれません。極東の国は米国からの要望で出資させる。
奇しくも沖縄返還前に沖縄からベトナム戦争の為に物資が運ばれていた訳であり、そういう意味では日本は間接的支援があった訳ですが、これを烟に巻く為に佐藤栄作のノーベル賞受賞というのは作られた受賞であった事は夙に有名です。
孰れにしても、第一には男女の情交を仄めかし乍ら、それは単なる恋愛ではなくかなりレイプの様な凌辱行為が見える内容になっているのです。
ではなぜ、SDはそこまで残虐な側面を歌詞にしようと企図したのか!? という所が核心部分であるのですが、SDというのは初期の頃から性的な状況をわざと歌詞にして歌にします。それもコミカル、かつ風刺的に。唯そこで誤解してはならないのは、決して性犯罪を是認するという立場ではなく、風刺的に歌にしているという所であります。
例えば「Everyone's Gone To the Movie」は、タイトルそのものが《皆が映画を観に行っている隙に》という中での情交を歌っていますし、「Rose Darling」ではペドフィリアの歪曲した世界観を歌っている様に解釈可能です。また、「Cousin Dupree」も近親相姦とオレオ(☜所謂3Pだが黒人2人と白人1人という意)という状況を感じ取る事ができます。特に、
Honey, how you've grown
Like a rose
Well, we used to play
When we were three
How about a kiss for your cousin Dupree?
'rose' がその辺に生い茂っている薔薇なのではなく、単数で示している事から特定された「薔薇」であり、恐らくそれは性行為時の女性器を表しているであろうという事が仄めかされますし、何しろ過去には「Rose Darling」という曲もありますから、SDファンならば《成る程な》という感じを抱く事でありましょう。
しかも《従兄弟のデュプリーとの接吻はどうだったよ!?》という風に、キリスト教の戒律では到底許容できない情事を歌にしているという訳ですね。
SDというのは、こうした社会的に決して許容する事のできない──声を大にして言うのは憚られる──状況を歌にするのが巧みであり、殊に性犯罪に関してはわざと面白おかしくキャッチーな曲調の中に詰め込んで、「真の性犯罪者」に対して《監視の目》を効かせているというのが特徴なのです。
性犯罪者からしてみれば、彼等に歌にされてしまう事で「ドキッ」としてしまう。つまり、SDは《俺達はお前らを見逃さないぞ》という風にして取り上げて嘲弄しているのです。
これは「Pretzel Logic」でも顕著ですが、出店が許可されていない違法なプレッツェル屋台が金儲けをしている事を取り上げる訳です。それをアルバム写真にしようと試みる時に、《著作権の許可を取らないと》という声が上がるものの、《違法な輩に著作権があるのか!?》という事で違法出店者を撮影しそのままアルバム・ジャケットに使用という笑うに笑えない逸話がある訳でして、SDの性犯罪に対する執拗な執念は「Aja」にも表れているのであろうと、私はそう解釈するのです。

無論、言葉という物は共有認識があってナンボの物ですので、自分だけにしか判らない言葉とほど虚しい物はない訳です。唯、そこに子供が喃語とまではいかないものの意味の無いオノマトペの様な口遊みがあったとしたらどうでしょう!? これには意味が無くとも、その状況が当人にとって耽溺に浸る重要な時間であるという事を読み取る事が出来ますし、シド・バレットや井上陽水の歌詞にもこうした口遊みが現れるのは以前にも指摘した通りです。
SDの場合は口遊みが無くとも、歌詞を一義的に間に受けてはいけない様な多義性が潜んでおります。それは、あまりにも無邪気で直喩的な場合ほど気を付けるべき状況であると言えるでしょう。
また、「Jack of Speed」というのは、性器弄りの 'Jack-off' に引っ掛け乍ら「スピード(薬物)」に溺れる切り裂きジャックの凶行をも意味しているのでしょう。
斯様にして、彼等は執拗に性犯罪なども視野に入れ、楽曲に落とし込んで歌っている訳でありますが、その犯罪の取り上げ方も単に犯罪を非難するのではなく、犯罪者視点の倒錯する世界観が垣間見える様に仄めかされているのも彼等の特徴的な側面であると言えるでしょう。
犯罪者と被害者という二律背反となる事象も何れの立場からも観測する様な世界観であるが故に、「真の犯罪者」からしてみれば、単に批判されぬ歌であるかと思い耳を傾けざるを得なくなる側面があるという訳です。決して無視せざるを得ないのは、わざと誘き寄せているのでありましょう。