扨て。弦楽器、特にジャズ/ポピュラー音楽での演奏実践に於て「テンション」と呼ばれる感覚的・物理的指標は、屡々多くの誤解と混乱の元となり広く誤謬を生んでしまって来た物であります。
特に、エレキ・ギターではジェフ・ベックやザック・ワイルドでも有名な、通俗的に言われる「逆通し=トップ・ラップ(top rapping)」とは、レスポールのストップ・テールピースをヘッド側から弦を通してテールピースに弦を乗せる様に180°向きを変えて弦の支点の外側で生ずる角度=《ブレイク・アングル/ブレイク角》を浅く採る事で「テンション」の低下を試みるという実践例は有名であります。
他方、エレキ・ベースでもこちらの場合は「テンション」の増加を試みるものですが、ミュージックマン・スティングレイの初期製造モデルや現行の再現モデルでは、ブリッジ・サドルへのブレイク角を付ける為にボディ裏に弦のポールピース固定用の穴が用意されていた物(string-thru-body)です。


然し乍ら、いつしか誤謬として
〈ブレイク・アングルの変化はテンションに影響しない〉
という言説が広く流布される様になってしまい、これが誤謬を生んでしまった訳です。
とはいえ、その誤謬とやらも《限定的な状況であれば》物理的にも正しい動作なのであります。その限定的な対象を凡ゆる状況の対象として判断してしまっている事で誤謬が生じている訳でありますが、その限定的状況というのは《開放弦の静的張力》のみ妥当な物でしかないのです。
そうした開放弦の静的張力という限定的な状況でしか正当性が担保できないにも拘らず、いつしか「押弦を必要とする演奏時の力学的状況」にまで誤った理解として広く一般化されてしまっているというのが誤謬の真相なのであります。
そこで私は、そうした誤謬を払拭する為にも《押弦応力》という語句を用いて演奏時に於ける張力変動の力学的構造を再検討する事とした訳です。
テンションに関する従来モデルの限界
弦の静的張力(string tension / axial tension)は、《弦長・質量密度・振動数》の三つの要素により決定され、支点の角度(ブレイク・アングル)のみを変化させても理論上その値は変化しません。
この点については、古典的振動モデル(Rayleigh, The Theory of Sound)が支持しているものですが、これは《弦を押弦しない場合》──即ち、完全な開放状態に於ける張力──に限定される物です。
演奏時には、支点摩擦・弦高・実効弦長の微小な伸長といった動的要因が介在するので、従来の古典的モデルでは説明不可能な応力変動が生じる訳です。
《押弦応力》の定義
本稿に於ける《押弦応力(perceived tension / playing tension)》とは、
演奏者が弦を押さえることによって、局所的・非対称的に生じる弦張力の増大および応力分布の偏り
を指します。
押弦行為は、弦を指板方向へ変位させる事で僅かな伸張を生じ、それに伴い張力が増加する。この「伸張量」と「張力増加」は以下の要因に依存する事となります。
• 弦高 (action):弦が押し下げられる垂直距離が増えるほど伸張量が増加する.
• 支点摩擦 (サドル・ナット):摩擦が大きいほど張力の伝達が阻害され、スケール側のみに張力が集中する.
• ブレイク・アングル:角度が大きいほど摩擦係数および支点拘束が増し、押弦応力の偏りが強まる.
これらの要因の為に、開放弦テンションが不変であったとしても、押弦時に必要な力(演奏者が感じるテンション感)は構造パラメータにより大きく変動しうる事となります。
尚、タッピング奏法時の押弦で生ずる弦長の主振動区間と副次振動区間という陰影分割(Residual String-Length Partitioning)で生ずる副次振動区間での寄生振動よる音色変化や振動スポイルという現象については次の記事で述べているので参考まで。
力学的考察
押弦時の弦の実効伸張 ΔL は、弦高 h と押弦位置 x を用いた近似モデルにより、

と示される(Taylor expansionに基づく一般的な幾何学近似)。
この伸長に伴う張力変化ΔTはHookeの法則的近似を用い、ヤング率をE、断面積をAとして、

と与えられる。
実際の弦では金属疲労・巻線構造・塑性域の存在から完全線形とはならないものの、押弦応力の増大傾向を説明するには十分となります。
また、支点摩擦μが存在すると張力は左右で不均衡となり、摩擦が大きい場合、押弦側のみにほぼ全ての張力上昇が集中する。
《押弦応力》概念の有用性
(1)演奏者の知覚との整合性
多くの演奏者が報告する「角度を付けるとテンション感が増す」という経験的知見は、押弦応力の力学的説明と感覚的に一致させる事ができます。
(2)設計・調整理論の明確化
テールピース高さの調整 • ナット潤滑の効果 • ストリングスルー構造の硬さの違い
などの実践的要素を、一貫した理論枠組みで扱う事が可能となります。
(3)言語的明晰性
従来の「テンション」という曖昧な語句(☜弦の静的な状況と押弦時の動的な状況を区別できない)では、静的張力と演奏時応力が混同されてきた。茲で《押弦応力》を導入する事で、議論の分類誤謬を回避可能となります。
結論
本稿ではギターにおけるテンション論争に於て、従来の静的張力モデルの限界と、それを補完する 概念として《押弦応力》を提案したものです。
押弦応力は、演奏時に生じる摩擦・角度・弦高・構造要素に依存した張力変動を理論的に捉える枠組みとして有効であり、従来の混乱を解消するための重要な概念的装置となる事が期待されます。