
しかしその一方で、この楽曲の歌詞からは《ドラッグ》使用を仄めかしている様な世界観の暗喩とも捉えられる有名な曲のひとつでもあり、正直なところ私はこちらの世界観《も》肯定するポジションを採るのでありますが、本曲のリリースと、井上陽水の実際の大麻使用による逮捕という時系列が逆となって説明されているケースも多々見受けられるので、その辺りも説明し乍ら『夢の中へ』の世界観を語って行こうと思います。
シングル『夢の中へ』のリリースは1973年3月1日。桜の開花もまだであろう、そういう時期に春を思わせる様な爽快な世界観として《直喩的》に聴かれる曲であり、チェリッシュの『てんとう虫のサンバ』やフィンガー5の『恋のダイヤル6700』桜田淳子『わたしの青い鳥』の頃が1973年だったという事を思い出される方であれば、なるほど、その頃の曲だという事をあらためて実感していただける事でしょう。
日産の通称《ケンメリ》スカイラインは前年1972年の発表ですが、まあ、人気を誇っていた頃でありまして、私もまだまだ免許証すら取得できぬ年齢ではありましたが、憧憬の念を抱いていたものです。
尚、この頃のカーステはまだまだ「8トラ」の時代。GoogleやAppleのCarPlay搭載の現在と比較しようもありません。ガソリンスタンドに足を運べば、店のガラス張りには一面「8トラカセット」がフェイス状のディスプレイで覆い尽くされているという時代(テープの外装は勿論日焼けしている)。喫茶店やボウリング場へ足を運べばジュークボックスという時代でもありました。
そうして一般的に8トラで聴く事のできない様な物を好き好んで聴いていた人は概してオーディオに拘っていた人達が多く、この頃の学生時代の欲しいアイテムはというと、
・オーディオ(ステレオ)
・オープンリール・デッキ
・フォークギター
というのが当時の「3種の神機」であったろうと確信を持っております。
扨て、芸能界を震撼させた1977年の大麻取締法違反による芋づる式逮捕は、衆人の耳目を集める事となり、それはもう大騒ぎだった訳でありますが、主たる所では、
井上陽水、研ナオコ、美川憲一、桑名正博、内藤やす子、ジョー山中、内田裕也、上田正樹、清水健太郎etc
が検挙された訳で、井上陽水を皮切りに半年以上に亘りゾロゾロ捕まっていた様に記憶しております。
つまり、『夢の中へ』の1973年リリースというのは時系列で見れば逮捕となる1977年よりも4年も前の事であるので、《逮捕された時のガサ入れを歌にした》という主張は全くの的外れとなります。
当時はまだ『夢の中へ』の歌詞の暗喩めいた事すら囁かれておらず、当時の筑紫哲也が《大麻は日本で禁止されており、井上陽水の大麻使用は確かにいけない事だが井上陽水の歌まで否定するのはいかがなものか》という風潮を批判した事があった訳です。
バッシングがそれほど酷かったという事でもありますが、一般的なファンからすれば無謬のままで居て欲しかったのに裏切られた様な心理が働いたのでもありましょう。
娯楽の少ない時代にファンが異常なほどに自身の価値付けの為に偶像崇拝となって要らぬ属性までをも詰め込んで崇拝してしまう。そんな風潮に釘を指す良い転換機であった様にも思えます。
以降、ヒットチャートでは自身の活動は鳴りを潜めていた陽水ではありましたが、楽曲提供やその後の安全地帯をバックバンドとしていたりと活動していた訳ですが、今を思えば矢張り、高樹澪の『ダンスはうまく踊れない』安全地帯の『ワインレッドの心』と中森明菜の『飾りじゃないのよ涙は』のヒットが、井上陽水再認識を後押ししたと思います。
まず、歌詞の牽引力が凄まじい。しかも時代を超えても歌詞が古臭くなってしまう事もない、いつ耳にしても普遍的な言葉が散りばめられる。
普段の私など、メロディーの拍節構造や音高にしか頓着しない筈なのに、言葉がスンナリと入り込んで来てしまう。そこでスキャットなど、陽水節とも言える遊び心が随所に現れる。特に、『飾りじゃないのよ涙は』では、陽水の世界観が横溢していると思え、それまでの鬱憤を晴らしたかの様に止めどなく続く旋律は凄いです。
《気分イレブン》
《川沿いリバーサイド》
これらは陽水流の「御巫山戯」です。韻を踏んで口遊みたくなってしまう様な、そうした言葉遊びをスッと辷り込ませる。それが井上陽水の特徴でもあり《犬ドッグ》とも呼ばれる位に笑いすら誘うものですが、陽水が韻を踏む時こそ彼の天才的な側面が光っている時の表れと取るべきでしょう。
それというのも、陽水というのは楽曲の雰囲気に《妖しさ》を求める様な事は少なく、例えば「来るぞ 来るぞ」とあまりに万人にも判る様な音楽の楽式面で歌詞の世界観と楽曲の持つムードを一致させようとするのは希薄で、寧ろ、全く予想だにしないドが付く程「ピーカン」な曲調で全く意図しない様な世界観を歌詞で表現する事が多い人物であろうと思います。
そういう意味でも私は、井上陽水というのは「日常」の世界観を大事にしている人物であると感じ取っているのでありまして、日常的に聴こえる何の変哲も無い様な曲調の中で《多義性》と《口遊み》を辷り込ませる技法に長けたアーティストであると認識している訳です。
陽水の斯様な世界観の落とし込み。類例を見ない程の天賦の才を感じ取る訳ですが、陽水に最も近いと言える世界観を持つアーティストが居るとすれば、私はピンク・フロイドなのではないか!? と思っています。特にシド・バレットが最も陽水に近いのではなかろうかと思うのです。
ピンク・フロイドも、如何にもなプログレ然とした曲調で楽式的に楽曲を構築しようとはせずに、日常的な世界観を重視するという点では陽水の世界観にも通ずる所がある様に見受けられます。
シド・バレット『The Madcap Laughs(邦題:帽子が笑う、不気味に)』の「Love You」の歌詞など冒頭から韻を踏んでいますが、中でも 'Ice cream, Excuse me' など 'I scream Excuse me' とも取れ、榊原郁恵の「夏のお嬢さん」ではないけれども、《おっと、アイスクリームぶつかりそうになっちった、ゴメンね》みたいな軽妙さも含まれている様に思います(下記動画の字幕をONにして歌詞を参照)。
「Love You」の歌詞を真正直に捉えるならば、愛し合う二人の弾む心を描いている様にも思えるのですが、シド・バレットを少しでも知る人であれば「裏」の世界を感じ取るでしょう。私は特に、この歌詞は《凶行殺人》を歌っていると思います。
長年に渡って標的にして来た女性を夜の薬物(Flaking)パーティーに誘い、夜の内に「溺死」させます。翌朝に遺体を埋め、昼に実行を堪能している殺人者。私は「Love You」のあまりにも無邪気な歌詞にはこうした裏の世界を感じ取ってしまうのです。映画『エンジェル・ハート』にも通ずる様な恐ろしい世界観でしょう。
そうした無邪気な口遊みというのは奇しくも陽水に見事に投影する部分でもあり、シドの場合は《意識の断裂》が現れている時なのです。それが思いがけず自然に出てしまう。
例えば、鼻歌を歌い乍ら肉を切り刻むスローター。そうした事をイメージするだけでもアイスクリームをブチまけそうになり「ゴメンゴメン」という様な状況というのは、《実行》作業中の意識の断裂で生じている耽溺に耽る状況であり、奇しくも陽水の1stアルバムのタイトルは『断絶』なのも奇妙な一致です。
そうした世界観の中で見られる《異常な明るさ》は、後述する「夢の中へ」では見事に現れています。それでいて引き込ませる言葉の牽引力。これが陽水の凄さでもあり、シド・バレットにも通ずる所があるとも思える部分なのです。
シド・バレットも他にも韻を踏んでいるのが満載ですが、こうした《口遊み》はあらためて陽水に似ているなあ、と私は痛感しているのであります。曲調も小難しくない所に日常を感じさせるというのもピンク・フロイド流です。
こうした点を勘案すると、「夢の中へ」のピーカンな曲調で社会の暗部をも隠喩として歌う陽水の企図が見えて来るのです。私は陽水の斯様な世界観が非常に好きなのでありますが、彼の様な雲を掴む様な飄々としたスタイルが大好きで、社会をいつも俯瞰しては笑い、遊び心を交えてカニを食べに行ったりしているのであろうと思うのですが、あらためて「夢の中へ」を私なりに観察してみると、次の様なヒントが落とし込んであるのです。
夢の中へ
夢の中へ
行ってみたいと思いませんか
うふふ
コード的には《思いませんか》という部分は変イ長調(Key=A♭)のドミナント「E♭7」でありますが、《うふふ》はⅥmである「Fm」へと進行します。これは《偽終止》と呼ばれる技法なのでありますが、本来ならば「Ⅰ」という主和音へ進行して解決すれば好い物を、わざと欺いて「Ⅵ度」へ進むのであります。
また、その「Ⅵ度」というのは悲しみ感が見えて来るのです。仮に、長調主和音上で「Ⅵ度」の音をメロディーにして歌うと、調性を少しだけ斜に構えて横目で見る様な、天気に喩えれば「お天気雨」かの様な物悲しさが演出されたりもします。
まるで、安堵の中にフッと溜息を付きたくなる様な、ネガティヴではないけれども寛ぎの中に起こる屈伸の欲求の様な状態。
実は、Ⅵ度にも副次的な終止感はあるので、主音(Ⅰ度)の位置ではないけれども近くにⅥ度があったのでついつい座ってしまうかの様な音楽的な寛ぎが備わっていたりするのが「Ⅵ度」の役割でもあったりします。《平行調》という調性が現れる様に、それほど重要な音度の位置なのでありますが、もっと厳密に言うと「Ⅵ度」が持つ終止感とは《コンフィナリス》と呼ばれる物で、これは日本語で「副次終止音」とも呼ばれる物なのです。
あらためて「夢の中へ」の《うふふ》の部分がコンフィナリスであり、《偽終止》である事がお判りかと思いますが、コード進行の偽終止進行ばかりでなく、楽曲の終止も偽終止であるので「暗部」を仄めかしているのであろうというヒントが見えて来るのです。
巷間広く普く言われる「夢の中へ」のドラッグソングめいた示唆というのは私としてはとても「有り得る」深読みであろうと思います。
無論、それは受け手が恣意的に深読みするが故に、直喩的な意味とは全く異なる世界観を浮き彫りにさせてしまっている訳ですが、
・無邪気過ぎる程に純朴
・慇懃無礼さを微塵も感じさせないさりげなく優しい敬語
・あまりに素直で衒いのない世界観
これらの存在の前には、私としてはどうしても《暗喩》を感じさせられずには居られない訳です。
深読みさえしなければ、何て事はない。社会の闇や裏側だのそうした暗部は全く見えて来ない詞に過ぎません。然し乍らその無邪気な純朴さが怖いのです。アーティストに対して何ら無関係の属性を付けて身勝手な解釈をしてしまうのは本来、伴奏部分であれば第三者による身勝手な虚構を作り上げた世界観なのでありますが、処が《歌詞》というのは多義性を具備するものであり、殆ど多くのアーティストは一義的には閉じ込めないのであります。
それは同時に、「夢の中へ」の歌詞部分に多義性が宿る事を許容していると取れる訳でありまして、音楽となる伴奏部分に音楽的な「欺き」がヒントとなる様に《偽終止》を忍ばせたのではないかと思うのです。
なぜここまで素っ頓狂な位に明るい曲調を、偽終止進行および楽曲終止部も偽終止で終えるのか!? それは暗部を仄めかすからではなかろうか!? と思える訳です。コードにも五月蝿い陽水だったと言われます。
陽水の初期作品の「傘がない」は、音楽的にはキング・クリムゾンすら投影します。『クリムゾン・キングの宮殿』ですね。しかも、属音とその半音下の♯11thをぶつけるか!? 全く持ってアーサー・イーグルフィールド・ハルの『近代和声の説明と応用』も吃驚ですよ。
しかも「人生が二度あれば」もそうですが、世界観は最早プログレなんですね。しかも、茶碗に入れ歯を入れたお茶を飲むなどと実に生々しい。その生々しさに反吐すら催してしまう様な描写は、後年の映画『ブリキの太鼓』でも見られる様な人間の艶かしさが実に巧みに表現されています。
また「東へ西へ」は、陽水がビートルズ・マニアでもあったという事を裏付ける(☜「Come Together」っぽさがある)ものですが、「おやすみ」は是亦明るい曲調ではあるものの、私はこの歌詞の中で描かれているのは電車への投身自殺で毛布に包まれているのだと私は思っています。普通に聴けば、幼馴染との真の別れの様に感じますが、何かの発端で再会を果たしたのに変わり果てた幼馴染が身を投げた様に私はどうしても感じてしまう訳ですね。
こうした多義性をどうしても深読みせざるを得ないのが井上陽水の魅力でもあり、怖さでもあり、その表現があまりにも天才的である所に畏怖の念を抱いて已みません。本当に怖いですよ、この方は。何を考えているのか判らない。しかも危険な魅力をも具備する。良い事も悪い事も俯瞰している冷酷さもありますね。医療の道を知っていたからでもありましょうか。
令和に時代を変えた現在、井上陽水を継承する様なアーティストを挙げるとするならば、折坂悠太でしょうか。彼の世界観も凄い。
私が音楽を聴く時、歌詞のある音楽が母語であろうが外国語であろうが無関係に、歌詞の内容など全く頭に入って来る事はなく、メロディーの音高と拍節ばかりが脳の処理が進んでいるという状況であります。まあそれでもよっぽど重ねて耳にする事で漸く歌詞の「言語」部分が脳に入って来る様になる訳ですが、そんな私でも井上陽水の歌詞だけはストンと入って来るのです。こういう詞を書ける人は他には細野晴臣くらいでしょうか。外国語ではスティーリー・ダン。彼らの歌詞も入って来ます。しかも多義性を以て。
スティーリー・ダンの歌詞の多義性、例えば次に挙げる楽曲でありますが、
「Rose Darling」
「Aja」
「Cousin Dupree」
これらは深読みすると《性犯罪》が読み取れる歌詞になっていると思います。まあ、「Aja」の場合は性犯罪も超えた《東西の冷戦》も別の意味として暗喩があろうかと思いますが、「Aja」の歌詞についてはまた機会があれば私の解釈を語ろうと思います。
扨て、何故スティーリー・ダンの上掲の楽曲が性犯罪を匂わせているのか!? という事ですが、それは彼等が性犯罪を面白おかしく歌詞にしているのではなく、性犯罪を許せないからこそ軽妙に歌って「監視」しているのだろうと私は思っているのです。フェイゲンとベッカーは性犯罪者に対して、《お前らは我々の歌から逃れる事はできないぞ》という監視の目ですね。
陽水の世界観も裏社会の是認というよりも、社会全体を俯瞰した時の冷徹な監視も同時に帯びた物でもあると思うのです。勿論、「夢の中へ」の歌詞がドラッグを肯定的に感じるかの様な世界観も具備している訳ですが、決して一義的ではない。その多義性が怖いのです。真の犯罪者にしてみれば歌にされると「ドキッ」としてしまう様な。
まるで薬物の売買のシーンでも目撃した陽水が「お元気ですか!?」と声を掛けているかの様にも感じさせる所があるのではないかな、と。陽水の怖さと天才的な立ち居振る舞いと表現。こうした所が、シド・バレットという真の薬物依存で精神を破綻したアーティスト、スティーリー・ダンの様な社会の風刺が必ずあるという世界観にはどうしても投影せざるを得ない共通する部分がある様に思えてならないのです。まあ、とりわけ陽水のその凄さは《突出》しておりますけれどもね。