
私が書籍で最初に《ポリコード》について触れた本は、パーシケッティ著(水野久一郎訳)『20世紀の和声法』でありました。同著第7章の〔ポリコード〕で冒頭から詳らかに述べられておりそこでパーシケッティ曰く、
《異った和声領域に属する2個以上の和音の同時的な組合せである》
という、非常に重要な事が前提として書かれています。
前述の《異った和声領域》が意味する事は、「異なる調域の音組織に属する」という風に、複調の状況を既に示唆しているという風に解釈すべきなのは自明でありましょう。
例えば茲で「C△/D△」というポリコードを例に挙げてみましょう。上に「C△」下に「D△」という、それぞれトライアドが同時に併存しているという状況でありますが、このポリコードは《時にはポリコード》であり《時にはドミナントの断片》であるという事でもあり、特に後者の場合は、和音の体としてはポリコードであるものの結果的に単一の調性として成立する状況という訳であり、斯様な状況を私は複調を喚起するポリコードではないというポジションを採ります。
先の「C△/D△」というポリコードに於て、「上がCリディアン、下がDリディアン」という風にモード形成が為される或いは決して「上がCリディアン、下がDミクソリディアン」でない限り、単一のモードに括られない複調の状況を自ずと生ずるという訳です。
処が、愚直に「上がCリディアン、下がDミクソリディアン」という状況だと、単にト長調(Key=G)の全音階音組織という1つの音組織に6個の音が埋没する状況に過ぎない訳であります。そこで生ずるコードは単に「D11」の読み替えに過ぎないのあります。
また、先のポリコードの上と下を入れ替えて「D△/C△」という風に主従関係を入れ替えたとしても、「Dミクソリディアン/Cリディアン」という風になってしまっていれば、これはC音をルートにする「C△7(9、♯11、13)」からの「メジャー7th音」をオミットした状況に等しくなるに過ぎず、旋律形成も同一のモードに収斂している以上は、和声的に複調を示唆しようとも旋律形成が単一のモードに収まってしまえば、結局の所複調という世界観は現れないのであります。
コードの側からすれば嘸し、《折角ポリコードの体なのに単一の調性の音組織しか使わないで、実に勿体無い💢》と思われているかもしれません(笑)。一般的に能く見受けられる分数コードおよびオンコードの例としての「2度ベース」「7度ベース」の類が現れている状況では、その曲が単一の調性で済ませられる楽曲だとしても、複調のアプローチを採ってアウトサイドな脈絡を導引可能な状況でもあるとも言える訳です。
そういう意味ではアヴェイラブル・モード・スケールを一義的に想起して限定させてしまうのではなく、多義性および、複調のアプローチでアウトサイドなアプローチを採る事が可能な状況とも言える訳であります。
扨て、私の人生に於て、最初にポリコードを意識させられた曲は、クインシー・ジョーンズの「Ironside(邦題:〔鬼警部アイアンサイド〕)」の「C♯△/D9」でありましたが、[d・fis・a・c・cis・eis・gis] という状況であります。
その次に坂本龍一作曲の高橋ユキヒロのアルバム『サラヴァ!』収録の「Elastic Dummy」その後ジノ・ヴァネリのアルバム『Brother To Brother』収録の同名曲「Brother To Brother」の中盤のドラムレスとなるブリッジでのエレクトラ和音、同様にUKのアルバム『Danger Money』収録の同名曲「Danger Money」の冒頭のエレクトラ和音など、こういう出逢いだったのであり、R・シュトラウスの『エレクトラ』を聴くのはその後になっての事でありました。
その後、ジェントル・ジャイアント、ナショナル・ヘルス、アート・ベアーズなどで鍛えられ(笑)、ポリコードや複調感を実感する様になっていたのが当時の私の音楽観であります。
幼少期から西洋音楽の薫陶を受けていさえすれば少年時代の頃からストラヴィンスキーやヒンデミットに触れていたであろうに、私の場合は《ジャズこそが全て》とばかりに食わず嫌いをしていた時期であり、成年を迎える様な頃でないと西洋音楽に耳と目を向ける事をしなかった自分自身を今になって悔やむばかりであります。
西洋音楽とは縁もゆかりも無い方が、自身の音楽好きが高じて西洋音楽界に手招きをされている様な時というのがあると思います。例えば好きなアーティストからの発言での紹介や、音楽を学んで行く上で常に頻出する様に遭遇する西洋音楽界の作曲家の名前や作品或いは書籍類など。
おそらく、最初は全く無縁である為に無視するに等しい物として興味が湧かないであろうと思います。然し乍ら、それは《邂逅》となる為のきっかけです。是非ともそこで無視せずになるべく早期の段階で追究してください。それはまず間違いなく自身の糧と成り得ます。そのチャンスを失わずに追い掛ける事をお勧めします。西洋音楽界に身を置いていなかった人々は誰もが同じ様にチャンスを逸しているものです。
耳目を惹く状況を実感した時、そこで無視せずに追い掛ける事が大事です。これだけは忘れてはなりません。
本題へと戻りますが、先述の楽曲に用いられるポリコードはいずれもが和声的な色彩を強調するのが特徴的であり、線的に複調の旋律線が複雑に交錯している訳ではありません。
それならば、複調を喚起する作品を耳にした方が手っ取り早いのではないか!? という風に疑問を抱く方が確かに早道です。和声感さえ欲張る事をしなければ、複調による旋律線の絡み合いの方が複調を実感しやすい物であり、バルトークの『ミクロコスモス』やリゲティの『エチュード(練習曲)』は典型的な作品でありましょう。
因みにバルトークの『ミクロコスモス』で用いられる複調では、大譜表の高音部と低音部のそれらが別々の調号で書かれているのは勿論、複調である事の喚起を強く示す為に、調号の記号配列順序を態と異なる様に書いて注意を促す様にして表されています。
余談ではありますが、例えばト音記号で「イ長調」という嬰種記号を3つ必要とする調号は通常、[第5線・第3間・上第1間] という順序で描かれますが、それらを [第1間・第3間・第2間] という順序で書かれると、ハ音記号での調号配列順序に慣れていない限り、かなりギョッとさせられてしまう訳です。そうした注意喚起で複調を示している例もあります。

ポリコードという状況が簡略化された状況となる分数コードのそれが、単一の調性の音組織に当てはまりにくい状況としてベース音が存在する様な状況の場合、複調を喚起する事に繋がります。例えば「E△(on C)」というコードのような場合。
上声部の「E△」が想起させる世界観はホ長調・ロ長調あたりであり、その長三和音がドミナントに聴こえる様な調は逆に浮かびにくいかと思われます。また、ホ長調・ロ長調では音階外となる [c] 音がベース音である事で、脳知覚レベルでは [e] 音を主音とするEハーモニック・メジャーというモードを想起するよりも、脈絡の遠い音として複調感を是認する筈でありましょう。
例えばスティーリー・ダンのアルバム『Two Against Nature』収録の「Negative Girl」のAテーマ部はE/Cであり、下声部が和音ではなく二全音複調ポリコードの断片とも言えるでありましょう。
ポリコード以前に和声の発展というのは基本的な側面として属和音の発展に行き着く事になります。和声法の体系が整備され、当初は属和音も三和音(トライアド)であったものの、属和音のみ七度音の付与が許される様になったという経緯です。
この時代の音律はまだまだ不等分平均律である為に、音程は歪(いびつ)な状況も生じます。加えて、その歪さが転調を制限するばかりか、場合によっては響きを大きく阻害する事もあった訳です。
ユニゾンとオクターヴ以外の純正音程を失って全ての音を平均化した等分平均律が生まれます。C.P.E.バッハは父であるJ.S.バッハが用いた物とは異なり等分平均律を使用していたと言われています。純正音程を失う等分平均律であろうとも、不協和が協和に寄り添う事になったという世界観の訪れが和声の発展に大きく寄与する事となったというのも皮肉な所です。それほどに、不等分平均律の時代では不協和がより不協和であったという事の裏付けでもあります。
属和音のみ付加音が許されていた体系も徐々に副和音でも付加音が認められる様になります。副和音のひとつである主和音(トニック)に七度音が付与される場合、これは「CM7」という風にしてメジャー7thコードのひとつとして現今社会では知られている物ですが、トライアドを基準して見立てれば、共通音を利用しながら三度音程を積み上げているという風にも解釈できる訳です。
それは即ち、「CM7」というコードは「C△」というトライアドに対して [e・g] を共通音とするコードを更に積み上げているという状況を指すのであり、結果的に「Em」というコードが「C△」に詰まれる事で「CM7」というコードが生じ、13thコードというのはそれを繰り返した結果であるという訳です。
ドミナント11thコード或いはドミナント13コードというのは結果的に、根音を [g] と採るならば「G△」に「Bm(♭5)」「Dm」「F△」および「Am」が詰まれている状況に過ぎないという事になります。
例えば、こうした状況を四声部書法で書く場合、自ずと省略する必要のある音でなければ四声で表す事はできません。そうした時、状況によっては現今社会に於ける分数コードの様な状況も生まれますし、何より1845年の時点で英国のアルフレッド・デイが論文 'Treatise on Harmony' の101頁に於て、ジャン゠フィリップ・ラモーの付加六度(=下属和音のⅣ6がトニックへ解決)というそれは、根音を取り違えただけの属十一・属十三に類似する物で、ドミナントの断片に過ぎないという風にしている所からも、根音の有無だけに過ぎない上音の動きというのを見破っているという訳でもあります。
https://books.google.co.jp/books?id=yhoEAAAAQAAJ&pg=PA101&hl=ja&source=gbs_selected_pages&cad=1#v=onepage&q&f=false
そうして四声部書法ではなく和声的書法で13thコードまで積み上げられると、それぞれの声部の動きを反進行させたりした場合、どの声部がどこへ動くのかという風に混沌としてしまうので、こうした重畳しい和音は軈て平進行の方が統御しやすくなり、和声的色彩の為に重畳しい音として使われる様に発展したという訳です。
そうした音楽的な色彩がやがては単一の調性からの世界観ばかりではなく、複調の色彩を纏う様にして発展を遂げ、それがいずれは倍音由来の音響を用いる様になり、更には微分音にまで拡大する様に変化したというのが現在までの発展の流れという訳です。
抑もポリコードが生まれる事になったのは《五度の連関》が音響的にも逃れられない関係性である事に着目する事になったからでありましょう。古くは残響に依る《掛留》の関与であったでしょうが、更に目を向ければオルガンの構造および音色が音楽科学的に大きく関与していた事でしょう。
例えば自然倍音列の倍音配列状況は《属和音》を強調する様に作用するのですが、《属和音をⅤ度上の和音として耳にする時》に調性感覚と強固に結び付いて強調される事となる訳です。
実際には主和音上にも上方倍音列が生じますし主和音にも自然七度・自然十一度・自然十三度など随伴させてしまいますが、Ⅴ度として耳にする属音の存在があって強化され、埒外とする音はそれほど注視される事はなく属音上で《喚起される》というのが不思議な所です。
ポリコード論としてその後の音楽体系に大きく関与した人物はヘンリー・カウエルであり、その後のハリー・パーチ、そうしてヴィンセント・パーシケッティが『20世紀の和声法』で詳密に取り上げる事で広く知られる様になる訳ですが、カウエルのそれも実際にはハインリヒ・シェンカーの "Harmonielehre" を援用しているのは疑いのない所であり、シェンカーの呈示があったからこそ、その後の音楽に貢献したとも言えるでしょう。
1906年のハインリヒ・シェンカーによる "Harmonielehre" の42〜43頁(セクションサイン14の項)では、五度の連関による和音の音響的な関係を既に示しておりますが、この時代よりも前であってもオルガンに携わる人々であれば実感していた事でありましょう。
シェンカーがあらためて論文を発表した事により、音楽は科学的な意味でも考察が進み、そうしてヘンリー・カウエルが1930年に "New Musical Resources" を発表。その後、五度の連関は更に進化してハリー・パーチが1947年に "Genesis of A Music" を発表するに至るという訳であります。
尚、カウエルの同著25頁に於てポリコードの関係性が説明されているので自ずと理解におよぶであろうと思います。

扨て、ポリコードが端を発する所も自然現象の安定的な振動から始まっています。つまり、長三和音/倍音列/古典微小音程などを用いてポリコードを構築する様になっているのですが、コード同士の組み合わせが長三和音同士というものばかりではなく、十二等分平均律に収まる範疇でしたら、減和音・増和音・短和音および四度和音・二度和音など色々な組み合わせで現在では用いられている物です。
もっとも四度和音にしても、それをコード表記として表すにもリック・ビアト氏の進める表記法がまだまだ一般的ではなく、SMuFL規格などを整備するスタインバーグ社などがDoricoやCubaseにクォータル・コードの記号を組み込む様な英断があれば一気に広まりそうな気もするのでありますが、ビアト氏のそれとて単なる個人の私感なのではなく、彼自身権威ですので、そうした所からの援用をもう少し柔軟にソフトメーカーが対応する事が今後の貢献に繋がるのではないかと信じて已まない所です。
扨て、私がコリエル/ムゾーンのアルバム『Back Together Again』を聴いたのは83年頃の事で、当時はなかなか耳にする機会が無いままジャケットだけは知っていたという状況で時ばかりが経過していた訳ですが、ひとたび耳にすると矢張り大きな発見があるもので、その最たる物のひとつの「ポリコード」を挙げる事が出来るのです。
特に先のアルバム収録の「Beneath the Earth」でのポリコードは、それらの呈示だけでも充分に存在価値を示している物で、YouTubeにアップしていた譜例動画の解説と併せて語って行く事にしましょう。
イントロのフィルは12連符で打ち込んでおりますが、その後のイントロのベースはオクターヴ・ユニゾンでの重音が基本となります。
とりあえず重要なのは本題のポリコードでして、まずは混合拍子の「2/4+5/8拍子」で始まる「B△/G△」というポリコード。こちらはスロニムスキー流に言うなれば二全音/四全音の調域で跨るポリコードという事となります。
単一の調性だと [d] [dis] が衝突してしまう訳ですが、こうした軋轢を生むのもポリコードの魅力の一つとも言えるでしょう。また、この状況ではポリコードの複調的な要素は [d] と [dis] との軋轢が貢献しているだけであり、複調たる異なるフレージングが別々に存在している訳ではなく単に白玉の和声的状況が存在しているに過ぎない為、比較的容易なアンサンブルであろうと思います。とはいえ、あまり耳慣れない音ではあるので、それがこの曲の大きな特徴にもなっているという訳です。
ポリコード表記が確立して来た事もあり、楽譜浄書ソフトDoricoに於ても水平線の上下でポリコードを示す様にする設計が為されております。但し、文章を基とする状況ではポリコードのそれはどうしても斜めの「スラッシュ」で表し乍ら《サフィックス付与》が必要となります。
ですので私は「B△/G△」という風に三角のサフィックスを付与している訳です。また、サフィックス付与を前提とするならば水平線表記で表さずとも伝わる訳ですので、その辺りもあらためて勘案していただけると幸いです。
そうしてイントロ4小節目には「A♭△7/F♭△」という、楽譜を見れば主従関係が逆ですので「F♭△/A♭△7」の方が正しい表記となります(笑)。
こちらもあらためて二全音調域によるポリコードでありますが上声部が四和音ですので、先のポリコードよりも更に複雑であるという状況になります。「F♭△」と明記しているものの、[fes] を平然と明記する為の前後の因果関係がフレーズとしての脈絡は希薄であり(先行和音は贏輸長号系の「B△7(9)」である)、唐突な表記でありますが、ポリコードの関係を「二全音」としたかったので、減四度である「A♭・E♮」を避けて表記したという訳です。
加えて、減四度セパレートとなる実質二全音セパレートの長三和音同士でのバイトーナル・コードの使用例として、アート・ベアーズのアルバム『Hopes and Fears』収録の「In Two Minds」での「E△/A♭△」というコードも亦、実に象徴的な響きでありましょう。フレッド・フリスのギターのみで奏される為、ギターを弾かれる方ならばより一層把握しやすいアンサンブルで、複調感を掴みやすいのではなかろうかと思います。
同アルバム収録の「Labyrinth」の冒頭のコードは「In Two Minds」同様ですが、こちらは旋律的にも和声的にも変化に富んでおり、ダグマー・クラウゼの線運びも《これぞ複調》というフレージングで歌われるので非常に複調が判りやすいであろうと思われます。
扨て、イントロ7小節目「D♭△/A△」ですが、こちらのポリコードは二全音ではなく減四度で表記されています。それは、後続8小節目での「D♭△7(♯9)」が現れる事で「C♯△→D♭△」という状況を避ける為に表記をあらためたという訳です。
また、8小節目での「D♭△7(♯9)」というコードはペレアス和音「C△/D♭△」での上声部「C△」から [c] 音を省いた断片でもあり、仮にそこから「C△ omit5/D♭△」という先行和音として「C♯△/A△」という風に二全音を垂直レベルで表記を遵守したとしても、水平レベルで表記がややこしい状況となるのを回避したという訳であります。
近年でペレアス和音を用いたジャズ/ポピュラー音楽方面の楽曲を挙げるとすると、マイケル・フランクスのアルバム『Time Together』収録の「Summer In New York」の埋込当該箇所での「B△/C△」でありましょう。このコード上で [ais] が歌メロとなっているので非常に高次な響きとなっています。
そうする事で、先行和音からのコモン・トーンの掛留が明確になるという事の配慮もあっての表記なのであります。各コードは和音そのものを明示的に聴かせようとしているに過ぎず、旋律は希薄な状況であるので、モードを確定するまでもない状況でもあるので、コード表記の側を優先させてしまえば済むという事でもあります。
尚、ポリコードとは無関係であるのですが、11〜13小節間のブリッジはメトリック・モジュレーションを生じており、先行の16分音符×5個の歴時が後続の四分音符の歴時である様にして耳にする事となります。
そうして14小節目には元のテンポに戻る訳ですが、元のテンポに戻る前の3小節間は少なくとも脳裡に新テンポでの1拍5連符を映じておく必要があります。
14小節目は終止和音としても用いられるのですが、このポリコードも二全音の「E△/C△」という風になるので、「C△7上に [as] を含む」様にも聴かれる事でしょう。
そうして楽曲は「4/4+3/4拍子」を繰り返し乍ら、2種の2コードパターンを形成して楽曲が進んで行きます。1つ目の2コード進行は「C♯m7(on D)→C♯m7」という型。
これはリード・ギターのフレーズを追っていただければお判りになりますが、「C♯m7」というコードはフリジアンでのⅠ度上の和音であり、[d] の音を経過的に生じます。《ベースが [d] を奏している以上、ギターの経過音とて同様だろ!》と思う方も居られるかもしれませんが、必ずしもそういう状況にならない時もあるので注意が必要なのです。
つまり、この2コード・パターンは、フリジアン・モードに於ける「Ⅰm/♭Ⅱ」と「Ⅰm」という2コード・パターンであるのです。
通常ならば、フリジアン・スーパートニックとしての♭Ⅱ度上の和音で例えば「D△7」として「D△7 -> C♯m7」とやる事が多いかもしれませんが、こうしたフリジアン・スーパートニックだと少々卑近なのでしょうね。ですので、フリジアン・スーパートニックの下部付加音として用いて高次な世界観を作ろうと企図している訳です。
もう一つの2コード・パターンはその2コード・パターンを移高させて「F♯m7(on G)→F♯m7」を形成しているという状況なので、特に戸惑う必要はないかと思われます。
尚、次のポリコードはフィッシュボーンのアルバム『In Your Face』収録の「Knock It」にてコンボ・オルガンが短三度セパレートとなるポリコードを使用するという物で、上下の主従関係は決して長六度ではないのが特徴であり、譜例からもお判りの様に「D♭△/B♭△」であります。
実質的に、上掲の短三度セパレートタイプのポリコードは「ドミナント・シャープナインス」と同様になる物で、「B♭7(♯9)」という風に表したとしても同様の構成音を得る事はできます。
とはいえ私がシャープナインス側の表記を採らなかった理由は、[ces・heses] =「C♭・B𝄫」が旋律的に用いられている訳です。低音部にある [ces] は逸音から入って同度進行して倚音となり、高音部「B𝄫」は逸音として際立っている訳ですが、仮に「B♭」を基準とすると [ces] は「♭9th」相当の扱いですので、旋律的に現れているだけに過ぎないと雖も、シャープナインス上でそれが現れるのは避けたい状況であると同時に、減八度相当の [heses] まで使われている状況ならば「B♭7(♯9)」として充てるのは莫迦気ているかな、と。
それらは完全に複調の音脈として解釈し得る音ですので私はポリコード表記にしたという訳です。これに異論を唱える方は居られないかと思いますが、まあ、[heses] が登場しなければまだドミナント・シャープナインスは許容範囲と言えるかもしれませんが、減八度まで一緒に使用されると、遉にそれは複調でしょう、と。
彼等には失礼かもしれませんが、複調を知ってか識らずかは扨措き、こうした音脈を平然と支えてしまう感性。これを評価すべきであろうかと思います。
扨て、今度は次の様にポリコードの上と下との主従関係が「短三度」となる場合というのを取り上げますが、先述した様にドミナント・シャープナインスのコード構成音そのものはメジャー・トライアド同士が長六度セパレートで組み合わさるポリコードと実質的には構成音を等しくしてしまうので、ポリコードのセパレートが長六度の転回音程即ち「短三度」となってしまうと一部の人からすれば「ドミナント・シャープナインスの「♯9th」音が内声または低声部に響いてしまう」だけの様に感じ取ってしまう可能性もありましょうが、残念乍らそうした捉え方は和声の聴取能力を狭めてしまっており早計な判断と言えるでしょう。
ドミナント・シャープナインスの「♯9th」音が内声に来る事により、それがドミナント・シャープナインスなのか將又エレクトラ和音であるのか!? という判断を難しくする事があります。特に西洋音楽の様に楽譜として流通していないジャズ/ポピュラー音楽にある曲などは判断を難しくする事があります。偶々楽譜が存在したとしても、それが自筆譜から写譜された物でもなければ作者本人が監修に携わらずに出版社の採譜者の解釈の下で楽譜が起こされているケースの方が多く、作者本人の意図が伝わっていない楽譜が多いので解釈をより難しくしてしまう事があります。
例えば、ジェフ・ベックのアルバム『There And Back』収録の「El Becko」での前奏部分の埋込当該箇所に於て私は「ドミナント・シャープナインス」と解釈しておりますが「♯9th」音が内声にある物として解釈しております。
尚、譜例をご確認していただければお判りになる通り、9小節目の当該和音「F7(♯9、♯11)」は13小節目でも現れ、同様に内声に「♯9th」音を生じます。これはエレクトラ和音の様な響きを更に拡張させて、上声部に「A♭△」下声部に「F7」を強調しつつ、[as] を最高音にさせない狙いがあるのではなかろうかと思います。
そうした場合、下声部に「Fm7」上声部に「Am(♭5)=Adim」という可能性も否定できないのです。短和音および減和音を長三度セパレートで用いているというポリコードであり、ポリコードの多くの場合は和声の音響的使用として長三和音の組み合わせが多く存在しますが、複調の度合いが和声的ではなく異なる調の旋律が交錯し合う状況の場合、長和音を示唆する世界観よりも短和音、減和音、もしくは増和音がそこに絡み合う様な世界観の方が奏功する作品が多い様に思えます。
特に「El Becko」のピアノの前奏は上下の声部に分かれての複調が際立っており、そこからジェフ・ベックのリード・ギターで複調から解放された様にしてメロディーを聴こうとしますが、実際にはピアノが複調を堅持しているヴォイシングの賜物であるとも言えるでしょう。
また、マイナー・コードを基底に持ち、その上部にディミニッシュを加える様にも解釈しうるジャン゠フェリ・ルベルの『レゼレメン』という作品も存在しますので、当該記事をお読みいただければ楽曲と共にお判りいただけるかと思います。
扨て、エレクトラ和音の場合、長三和音同士が短三度セパレートの状況になっていると考えて差し支えないのでありますが、ジャズ/ポピュラー音楽に於てエレクトラ和音の使用が明示的であるのはジノ・ヴァネリのアルバム『Brother To Brother』収録の同名曲「Brother To Brother」の楽曲中盤のドラムレスになる部分でありましょう。
次点でエレクトラ和音使用で知られている楽曲が、UKのアルバム『Danger Money』収録の同名曲「Danger Money」の冒頭の「E△/C♯△」でありましょう。
斯様にしてポリコードや複調の例を見て来ましたが、複調を最も実感しやすい調域というのはそれぞれが三全音でセパレートしているという三全音調域か半音上下にある調域が最も半音階亭要素と複調感を実感しやすい状況であろうかと思います。
例えば次のナショナル・ヘルスのアルバム『Of Queues And Cures』収録の「The Collapso」は2つのスティール・ドラムで奏されておりますが、高音部はホ短調、低音部が変ロ短調で奏され、低音部の変ロ短調のみ4/4拍子の4拍目弱勢にて高音部調域に阿り[e] 音を辷り込ませて来ます。
ライヴではクラヴィネットとオルガンで奏されるのでより一層明確になりますが、高音部のクラヴィネットを単音で [e - a - g - a - fis - a - g - a] というシークエンス・フレーズを弾き乍ら、低音部で [es・b] の2声と [des] とで八分のトレモロを刻むと判りやすいかと思います。唯、動画でのデイヴ・スチュワートはかなり厄介な事をやっていて、本来高音部のクラヴィネットを左手で奏して、本来低音部のパートを右手でオルガンを弾いているのが、是亦実に彼らしい愛嬌に満ちたプレイだと思われます。
複調は通常縁遠い物と思われるかもしれませんが、私の経験で面白い体験談があるのでそれを語ってみる事にしますが、私が成人を迎えてヤロウども5、6人で飲んだくれてカラオケに脚を運ぶ時の事。器楽的な心得があるのは私だけであり、他の者は楽理的な事などチンプンカンプン。まあせいぜいヒット曲の類をカーステで堪能している位の連中とのカラオケ。
そして私は、《よーし、懐かしの殿さまキングス歌っちゃおっかなー》などと場の空気も読まずに選曲していた時の事。私の好きな「なみだの操」が何と!半音高く流れて来てしまった訳です。
私は原調でないと歌えない質(たち)なので(移調済みの楽譜を読み乍らという状況ならば可)半音高い伴奏に対しても惑わされる事なく原調を歌えてしまう訳ですが、キー変更をするのに遠い場所から離れていた事と酔いも手伝って面倒臭くてそのまま原調を歌ったのであります。そこで魔法が生じます。
変ロ短調の伴奏にイ短調で歌われる複調。いやあ、これには酔いしれました(笑)。あまりのミラクルな世界観に《コレ、複調!》と言っても誰も判る者など居ないのに、ついつい口に出してしまう程ミラクルが生じていた訳です。周囲は巫山戯ているだけとしか感じていなかったでありましょうが。
勿論私は、既にその時点で複調という物の存在も知っており多くの楽曲を堪能しておりましたが、既存の単一の調性を複調にしてしまうとミラクルが生ずるというのを初めて実感した訳で、酔いも一気に冷めて(別な意味で)帰宅するや否や「なみだの操(複調版)」」をアレンジする位に没頭した事があったモノです。
複調の面白さが、そうした何気ない実生活に現れる事もあったという訳でありまして、高次な世界観も実は密接な関係がある事に気付いていないだけなのかもしれません。単一の調性に固執・傾聴する事で他をフィルタリングしてしまう。このフィルターが必要なくなる時、複調の世界は意外にもスンナリと手招きをしてくれるのでありましょう。