日本語での音楽辞典・事典を引く場合は【下属音】または【サブドミナント】のどちらかで載っておりますが、遉に異なる出版社間で統一が為されている訳ではなく、どちらかでしか掲載されていないとは雖も、【サブドミナント】で載っていない場合は《☜下属音を参照》などと載っていたり、その逆である【下属音】《☜サブドミナントを参照》という物も存在します。
中でも『ニューグローヴ音楽大事典』での東川清一による説明はなかなか手厳しいものです。読んでいて《そうでなくっちゃ!》とばかりに清々しく成れる位であります。
扨て、冒頭で挙げたの全音階音組織に存在する音のひとつ「下属音」および「ファ」の音は、総じて《現代に生きる我々が捉える音楽学の最終的判断》に基づいて整備された体系から観測しているだけに過ぎません。
では、現代ほど音楽の体系化が進んでいなかった昔の人々、それこそキリストが生まれる前の時代での下属音とはどうだったのか!? その答は《下方にある完全五度》であったのです。更に厳密に言うと、《下方にある良く調和する音》だったのです。

現代に生きる我々が「歴史の最前線」に居る以上、全ての過去の体系というのは時系列を無視出来てしまい、現代という状況の観測点に全ての体系を持ち込み、それらを十把一絡げに観測してしまえる物ですが、ギリシャ時代・バロック期・第一次世界大戦の時代を全て同じ時代の様に扱う事が莫迦気ているのと同様に、斯様にまとめて見てしまう事には陥穽が潜んでいるので現代に学ぶ者は細心の注意を払わねばならない物です。
また音楽の歴史的背景を学ぶ際に、呼称・名称がどのような音楽的な歴史から生じた事なのかを掘り返す事なく顰に倣って鵜呑みにしてしまうだけの場合、より大きな陥穽に嵌る事となりかねません。
例えば《バロック》という呼称は一時代の様式を指すものですが、原義は「いびつ」という意味があります。バロックという様式・時代だけを顰に倣って覚えただけでは、重要な原義への理解を飛び越してしまうという訳です。
言葉という物は音楽の世界に限らず、使い古される程までに普及した言葉は陳腐化を招いて原義が摩滅してしまう物です。そうして陳腐化を招いて他の言葉によってその目新しさから再び脚光を浴びる物のそれもいつしか違和感が滲み出て来て「原義」の地位向上が再び見られる様になり、古い言葉は再び当意即妙な効果も伴わせて息を吹き返すという訳で、言葉というものはこうして輪廻しています。これは日本語に限った事ではなく、どの国でも同じ様な事を繰り返している訳です。
そんな中でも、ラテン語は原義を残す言語として拝戴され、ドイツ語も言語学的には原義を失いにくい性質を持つ事で、医学の世界ではドイツ語が注目され、私が子供の頃の高齢の日本人医師はドイツ語でカルテを書いていた程です。
初学者からすれば、覚える事が少ない方が合理的な解釈であり楽であるかもしれませんが、音楽に限らず専門性を獲得する為には合理的な理解は自分自身の首を絞める事になりかねない物です。そこに注意をし乍ら、先ずは《下属音の成立》という歴史を詳しく知る必要があります。
確かに「下属音」という存在は全音階音組織内に於て属音の下に位置し、現在の音楽体系からの観測では確かにその様に見えているものの、《歴史》から対照させるとなると実際の所はだいぶ雲行きが怪しくなる程に取扱いが為されている物なのです。それほど、音階という音の並びは合理的な配列によって形成されているという訳です。
現代の体系からは下属音とは、主音と「完全四度」という音程を形成する物です。ところがこの完全音程は、上方倍音列に一切現れて来ないのですから、こうした所からも現代の体系だけで照らし合わせる事が危険であろうという事が滲み出てしまっております。
確かに、音階の配列構造から下属音と主音との関係を見れば、主音の上方にある下属音は完全四度という「完全音程」の地位を持つ音であります。
とはいえ全音階に組み込まれている下属音は、それが完全音程という地位を持つ音程を備えているにも拘らず上方倍音列には一切現れて来ない音であるにも拘らず平然と全音階音組織に取り込まれている状態である訳です。先ず、茲に疑問を持つ必要があるでしょう。
否、寧ろ《全音階》という音組織そのものが現代の合理化が生み出して来た賜物に過ぎず、その《排列》に我々は惑わされてはならないのではないか!? という疑義を抱いてこそ正しい姿であろうかと思います。
下属音の出自については、ある程度の音楽的素養を身に付けている人ですらも見過ごしてしまう位でありますし、音楽の歴史に於ては数学者の大家ですら見過ごして来ているので、見過ごしてしまう事を責めても致し方がない側面はあります。
斯様に、音楽教育の体系化というのは時として歴史の変遷を押し込めてしまい、現代からの観測および対照だけになってしまうと往々にして誤謬が伴ってしまう所に注意が必要なのです。
ですので、《先の前提のどこに落とし穴があるのか!?》などと疑問を抱いた方は真相を知る為にもとことん下属音とやらを追究する必要があるのです。
例えば《主音から上方に数えて第4音》というのも、音楽の歴史上に於て「音階」という物が出来てから初めてそれを4番目と数えられる様になったもので、音階の成立以前から存在する下属音を知る必要があるのです。
現代からの視点でしか物事を観測しないという事の実際とは、現代に都合良くスタートラインに並べてしまい比較考察をやりにくくしてしまう事です。これは非常に危険な物です。とはいえ現代の人々が過去に立ち返る事など不可能な訳ですから、現代の視点を維持し乍ら過去の検証はひとつの事例事に遡る必要があるという事となります。
過去の事象を時系列に考えることなく十把一絡げに体系に押し込んで観測できるが故に、音楽の成り立ちを知らぬまま現代およびそれほど古くない音楽の共通理解の中で解釈しているに過ぎず、下属音とやらは決して音階ありきで誕生している訳ではないのです。そうした誤謬が先の前提に含まれてしまっているのですね。
更には《主音から主音を基準に音程は上方に完全四度にあり、完全音程のひとつ》という見方も、現代の我々は全音階〔ドレミファソラシド〕という音階の配列構造を知っているからこそ《下属音は4番目》という存在を認識して、主音から上方に4番目の音程のそれを完全四度として捉えているに過ぎないのであり、この前提=「完全音程のひとつ」とやらには説明を補足する必要があるでしょう。
何故ならば、下属音とは《主音を基準にした時、下方に完全五度音程を形成する所にある音》というのが正しい位置付けなのであります。決して主音の完全四度上方に存在する音として形成されているのではない事が重要です。
抑も「ドミナント」という言葉は《支配的》という原義が音楽に用いられつつも、同時にそれは《五度音程である》という意味が併存していたのです。とはいえ体系化が進むと、ドミナントという言葉はもはや「ドミナント・コード」という風に、原義も失われる位の特称命題と化してしまった訳です。
仮に主音の完全四度上方に下属音を見立てたとしても、それは確かに《完全音程のひとつ》である事には間違いありませんが、上方倍音列には決して現れる事のない完全音程なのです。
あらためて、下属音とは主音の「完全五度下方」に存在する音の事であります。現代に生きる我々は全音階音組織の存在を知るので、下属音の存在のそれは恰も《屬音の全音下》にある様に見えてしまうので「下属音」という名前を何の疑問を抱く事なく覚えてしまいそうですが、これが違うのです。
ところがジャズ/ポピュラー音楽の世界では、歴史的な検証を判りにくくしてしまう命名が為されてしまう事が多々ある、後人が迷惑蒙る事は最早日常茶飯事とも言えるでしょう(笑)。
例えば、『ハーモニック・マイナー完全五度下スケール』という音階があります。これは、英語での 'Harmonic minor Perfect fifth below' という言葉を和訳した物でありますが、この日本語は最近ではそれほど使われなくなったとは思いますが、訳者の素養の無さが窺える一例であろうかと思います。
その理由として、ハーモニック・マイナーという音階を主音にした時の「完全五度下」とは下属音に位置する音=ⅳ度の音と認識する可能性があり、そこで《音階の第4音を謳っているのであろうか!?》と考えてしまいかねないのでありますが、実際には《ハーモニック・マイナー・スケールをモードとした時の第5音をモーダル・トニックとするモード・スケール》である訳です。
つまり英語が本来意味しているのは、《(そこから)完全五度下方にハーモニック・マイナー・スケールがありますよ》という意味を『ハーモニック・マイナー完全五度下スケール』としてしまっている訳ですね。しかも後になって英語圏では 'Phrygian dominant' とも呼ばれる様になり、つまり、ハーモニック・マイナーという自然短音階からの変形時のⅴ度はフリジアンである、と。それがドミナントであるという命名ですね。然し乍ら英語圏発祥のそれも実は正しい命名ではないのですね。
なぜなら、グレゴリアン・モード(チャーチ・モード)の歴史を辿るとお判りになるのでありますが、フリギアという旋法をモードとする時、この時のドミナントは第5音には置かれないのですね。フリギアのドミナントは本来は第6音であるのが正統教育での決まりごとなのです。
つまり、Eフリジアンのドミナントは第5音の [h] ではなく第6音の [c] という特殊な位置付けがなされているのです。それは何故か!?
何故ならフリジアンは下行導音のみ許される旋法だったからです。つまるところ《♭Ⅱ -> Ⅰ》しか許されなかった訳です。
仮にフリジアンの第5音がドミナントと振る舞おうとしたと仮定した場合、茲から形成される状況を和声法までを視野に入れて考えると、第5音上に作られる和音の第3音は上行導音化しようとするので、[h] 音上で作られる和音の第3音 [d] は [dis] となって [e] の上行導音を採って解決しようとする事を視野に入れます。
とはいえフリジアンは上行導音が禁止されていたモードなので、フリジアンの第5音がドミナントとは呼べない訳ですね。こうした禁則は別の旋法が19世紀にF.リストがジプシー音階を使う様になって別の形でフリジアンの類似形として「ハンガリアン・マイナー・スケールの第5音をモードとする音階」で実現した訳です。〔ミ・ファ・ソ♯・ラ・シ・ド・レ♯・ミ〕ですね。そうすると「B音」をルートとするⅤ度上のコードとして第3音は「レ♯」です。
それに加えてフリジアンはアンダルシア進行の変形と発展を重ねて派生しスパニッシュ・モードを生みます。これはもはやフリジアンではない訳ですね。そうしてフリジアンの禁則とやらが西洋音楽の外から見れば無くなっているかの様にも見えてしまいかねない訳です。ですので 'Phrygian dominant' などという、西洋音楽の知識のある人であれば鼻で笑われるかの様な言葉が臆面もなく生まれて来る訳であります。
全音階音組織が形成される以前に於て何故そういう導き方が用いられたのか!? と言うとそれは、《良く協和する音程》として「五度上方」と「五度下方」の2つの存在を見付けたからです。後ほど詳述しますが、下属音とは「五度下方」に響く音として選ばれた音のひとつなのです。
全音階(ダイアトニック)の音組織として単音程に整列された状況下では、下属音という音は恰も主音から上方に4番目の音として存在する《主音の五度上にある5番目となる属音の直下》に位置する様に見える事から《下属音》と称されているかの様に思えてしまいますが、こうした考えは誤りであるのです。
音程形成は全音階ありきで並べられた物ではなく、全音階にある音全てが上方倍音列に存在する音なのでもありません。下方に存在──それは下方のオクターヴ属に現れる音である──する音というのは下属音のみならず下中音(※下属音と主音との五度音の中庸となる次点での《不完全な》協和する音)も然りです。
更に重要な事をもうひとつ付言しておくと、リップス/マイヤーの法則というのは別名《終止の法則》とも呼ばれる物であります。これは数多ある和音終止形の事ではなく、極言すれば《終止感はどうやって得られるのか!?》という事を探る研究による物です。
それは、音高面ばかりでなくリズム(拍節構造)および下行を採る形が終止感に大きく音楽知覚に作用するという事がリップス/マイヤーの法則以降でも新たに知られている物ですが、リップス/マイヤーの法則というのは約言すれば、
《2n(甲):3、5、7(乙)等の音程比の関係にある2音は、「甲」に終止感が宿る》
という法則性が関与するという物です。
マイヤーの言う「2n」の累乗数は「2」を含まない事が前提となっているのですが、そこにリップスが主音に対する下属音(ドとファの関係に照らし合わせると判りやすい)は [3:4] または [3:2] である事に加えて、上主音(レ)から見た下属音(ファ)は [27:32] となる。しかも下属音(ファ)は下中音(ラ)に対して [5:4] となる。そうなると、《ファは2nの比率を有するのであるからマイヤーの言う定義ではファも終止感を得るのではないか!?》という指摘をする事となります。
そうした矛盾を解消する為にマイヤーは、《下属音(ファ)は、主音(ド)に対する完全四度 [3:4] なのではなく属音上の七度》という脈絡である事を付け加えます。マイヤーのこの論究は恐らく中全音律を含め古代ギリシャ時代の「7」の音程比をも援用した物でありましょう。
そうです。ドから見たファは音階配列上では完全四度ではあるものの、上方倍音列基準だけでファを考える必要はないのです。元々は主音の下方にあるオクターヴ属から生じた脈絡なのであり決して上方倍音列に現れる音ではない訳ですから。
そうする事でドとファは [3:4] なのではなく [16:21] という音程比を生ずる事により、ファが2nとはならなくなるという風に説いた訳です。
リップスは当初、このマイヤーの反駁を全面的に承服した訳ではなく、リップス曰く、
《マイヤーの新たなる「7」への脈絡を俟たずとも、[ソ・シ・レ] などの音は、ファに対してよりもドに対しての比率の方が簡単な比率を有する為、ドが優勢的扱われているのである》
と。それに加え、旋律的なリズムによっても終止感を与える事に貢献するという事を提唱した訳です。
畢竟するに、下属音を21次倍音とせずとも上方倍音列での下属音の振る舞いは他の音程比よりも劣勢であるに過ぎない(リップス)。そして、下属音は属音の七度音由来の脈絡である(マイヤー)。
サブドミナントはジャン゠フィリップ・ラモーの提唱以前はプレドミナントという扱いであり、プレドミナントはドミナントに進む為の地位であった事を思えば、その隷属的な主従関係だけで用足りてしまうというのも機能和声が築き上げて来た仕来りである訳ですから、そこに収まるのも当然であると言えます。
これらの2人の貢献により、終止感の為の法則として『リップス/マイヤーの法則』として両人の名が冠される事となり、今日に至るという事になっている訳です。まあ、日本語Wikiでは大した情報を得られる事はできませんが、リップス/マイヤーの法則とは終止感の法則として知られているという事を皮相的乍らも知っていただければ、今回の私のブログ記事を堪能する事ができるのではなかろうかと思います。
確かに平易な旋律というのはこうした体系に準則しており、最初にこうした定義を考えたマイヤーの後にリップスの新たな研究によって修正が施され、それが後にリップス/マイヤーの法則となった物でありますが、勿論本研究は更に詳述されており「終止感」の研究に於て2人の科学者が20世紀初頭にどの様に関わっていたのかという事についても興味のある方は調べてみると良いでしょう。
後年、ビンガムやファーンスワースの新たなる研究で、より高次な音程比のそれらや下行形の特性などが発見される訳ですが、概ねこうした体系であると念頭に置いていただければ良いでしょう。リップス/マイヤーの法則についてはあらためて後述します。
特に留意すべき点は、下属音(Ⅳ度)と下中音(Ⅵ度)は上方倍音列由来の音ではありません。下方にあるオクターヴ属からの拔萃なのでありますから、これを上方倍音列同様の考えで組み込むには下方倍音列を想定する事になります。下方倍音列を想定する為にはフーゴー・リーマン以降ヴァンサン゠ダンディにも遡る必要があろうかと思いますが、西洋音楽の前提知識が欠如している人からすると、聴こえもしない虚構とばかりに難癖を付け出すのが《下方倍音列》という言葉です。
無論、聴こえもしないそんな音をフーゴー・リーマンの時代からやいのやいのと罵詈雑言を浴びせかけた連中も居た訳ですが、その連中とて下方にあるオクターヴ属から音が拔萃されている事自体気が付けば好いものを、音階そのものがすっかり上方倍音列に後の数学者達から都合良く体系化されてしまった事で、そんな始原的な状況も忘れ去られてしまっていたのでしょう。
無論、現代でも「下方倍音列」とやらを引き合いに出して非難する様な連中は、皮相的にしか知らない連中であり、そうした連中がオクターヴ属を知る訳もありません(笑)。何しろこれはジャズ/ポピュラー音楽の世界にまで知れ渡っているレッテル張りですので、浅学な割には自身の都合を悪くしてしまう皮相的理解というのは概して深層を知らないが故に起こる排他的な扱いで生ずる偏見なのですけれども、愚かな連中というのは得てしてそんな者です。
しかも下属音というのは曲がりなりにも「完全音程」なのですから、上方倍音列に下属音相当の音など虱潰しに探しても《2の冪または3の2n倍数》の振動数として見付けて来れる訳もありません。
上方倍音列に存在しない音が音階に在るにも拘らず、それに疑義を抱く事もなく《音階音組織は普遍的な物》とばかりに受け止めてしまっているのですから、連中に付ける薬も無いのはお判りでありましょう。
現今社会に生きる我々は、過去の時系列的に生ずる歴史をもひとまとめで俯瞰して見る事が出来てしまう為、音程形成の為に必要な「大完全音列(=シュステーマ・テレイオン)」形成の時代には既に《上方倍音列/下方倍音列》という概念に基づいていたのだと錯誤してしまいがちです。
大完全音列の時代に下方倍音列という概念があった訳ではありません。現今社会の音楽に置き換えると、中心にある [a](☜これを《メセー》と呼ぶ)に対して1オクターヴ上/1オクターヴ下が形成されていた訳です。
但し、下方からの相貌から生まれた音が《下属音・下中音》であり、上方からの相貌で生まれた音が《上属音(Ⅴ度)・上中音(Ⅲ度)》である事には間違いありません。それを現今社会の尺度で対照させれば、偶々そうした協和音程探究の作業過程に於て下方倍音列という状況が用いられていた事が判るという訳です。
音楽の歴史では、音階形成という整列の前に《良く協和する音程》を見つけ出すという作業が先にあったのですが、これは「絶対完全音程」と呼ばれる完全一度・完全八度が見付けられ、それら以外に絶対的ではないもののとても協和する音程も見付けられ、それが「完全音程」と呼ばれた訳です。
そうしたプロセスを踏んだ後に完全五度と完全四度が生ずる訳ですが、その後の体系整備は歴史的にはまだまだ後の事であり、先ずは、《絶対的ではないものの、とても協和する完全音程は2つある》という風に形成されたという事に着目する必要があるのです。
音階の体系整備という状況で必要となるのは、音階そのものが《旋法的な性格》という音楽的な薫りを伴う訳でありますが、そこで生ずる──のちに完全五度と呼ばれる──「五度音程」という存在そのものに音楽的に非常に深い意味がある所に最大限の注意を払うべきなのですが、そもそも「属音=dominant」とは《支配的》という意味の他に《五度音程》という意味があります。
少なくとも地動説が優勢であった時代までの音楽の科学的考察というのは最も下位に置かれておりました。科学的な分野での取扱いでは「音」というのが軽んじられていたのです。そこで数学者の大家達が数学の一義的解答へ結び付ける「性(さが)」が禍いし、数学者達が決めた物に靡く様に形成された訳です。
オイラー、ケプラー、ルソーも音楽界に貢献した人々ですが、少なくとも音楽における科学的考察に風穴を開けたのはヘルムホルツの到来を待たねばならないでありましょう。その門下のシュトゥンプフに兼常清佐は師事した訳であり、歴史的にはまだまだ非常に浅いのです。
茲であらためて念頭に置いて欲しいのは、現今社会の基準で「科学」を観測すると、過去の状況をも現代の最先端の規準に準則させるのは非常に危険であり、往々にして臆断・謬見を導く事に繋がる事となり、当時の規準を必ず念頭に置いて分析する必要があるという所です。
音楽とは、そこに備わる心理、自然摂理が深く結びついている物です。処が音楽に限らず自然摂理とはまだまだ現今社会の我々ですらも科学的に未発見である物は多く、科学の実際はその時代々々に依って規準が全く異なるというものを見過ごしてしまいがちなのです。
ダレッツォの時代ですと導音を除く音の6音が全音階とされていたり、全音階が結果的に7音に収束するのは、それまで発見されていた金属や天体物の数、それと暦に伴う「週」という「7」という数字に時の学者が援用して嵌当させて行った経緯で生じているのです。
そうした自然の摂理が見せる《不思議な一致=共時性=シンクロニシティー》に神的な魔力を抱くのは、科学的な発見が無い状況であればあるほど大きな力へ増幅させる物です。
先述の《音楽的に非常に深い意味》とは「調」の事です。
抑も調(Key)とは主音・属音・導音の存在により、協和に則った音楽的な薫りを存分に引き出す性格の物です。安定した協和が終止感を誘い、副次的な協和(※この場合は属音)が音楽の極点であり、この極点からの帰結が終止を目指す事で、協和感の乙張りが生まれ、楽曲の起承転結に弾みが付けられるという訳です。
全音階の体系整列後は、主音からの極点は属音ですので、この五度の音列はペンタコルドと呼ばれます。端切れとなる属音─主音の四度の音列がテトラコルドと呼ばれます。
全音階に於ける標準のペンタコルドは [ド レ ミ ファ ソ] となり、同様にテトラコルドは [ソ ラ シ ド] という風になります。茲で太古の人々は既に、基のペンタコルドをテトラコルドとして置換した時は端切れだった基のテトラコルドをペンタコルドに置換、同様に基のテトラコルドをペンタコルドに置換した時は端切れの側の基のペンタコルドをテトラコルドに置換していたのです。
つまり、[ド レ ミ ファ ソ] を [ド レ ミ ファ] に置換した場合、端切れが補完すべきは [ファ ソ ラ シ♭ ド] という下属調の音組織と同様のムシカ・フィクタが採られ、同様に [ソ ラ シ ド] が [ソ ラ シ ド レ] に置換された時に補完されるのは [レ ミ ファ♯ ソ] という風に属調の音組織としてムシカ・フィクタが相互に採られ、多彩な変応が生じていたのです。
こうして近親調は取り扱われていたのであり、定旋律で属音が現れない状況の場合、対旋律が原調とは異なる音組織を用いて「変応」を生じていたのであり、各声部が原調・属調・下属調とそれぞれが複調状態として成立し乍らカノン(追奏)を生じれば、非常に複雑なハーモニーが生じ、こうした対位法の技法を和声的にも発展させて音楽は発展して行ったのであります。
ひとたび歴史を昔に遡らせますが、音楽的な「極点」とは歴史的に「上属音」として生じた完全音程でありました。《主音ととても協和する五度音程が上方にある》故に「上属音」だった訳で、茲に度数としての音度が与えられるのはまだまだ先の事です。
同様にして下属音とは《下方にある五度》という意味で存立している音なのであり、それは《上方にある五度》=「上属音」がと呼ばれる事の対比なのでもあるのです。
つまるところ、絶対的に協和する絶対完全音程の他に、とても良く協和する完全音程が2つある=上属音&下属音。これらを我々は時を経て、その後の体系整備の恩恵を受けているが故に単音程の転回位置として「全音階」という音組織で「ドレミファソラシド」という状況を俯瞰するだけに過ぎないものであり、単音程の転回位置として眺めてしまう事で重要な要素が抜け落ちて理解してしまいかねない陥穽があるのは、音楽教育の合理化が招いてしまう物であります。
音楽に限った事ではありませんが、教育というものはその理解が皮相的で済ませられる場合、概して深部の重要な事象に触れる事がないままに学んでしまいます。こうした合理化に「下属音」の存在も含まれると思っていただいて差し支えないでしょう。
時が経過して現今社会では「上属音」という呼称から「上」が抜け落ち、字義のそれからは本来意味する《上方にある五度》という重要な原義が現今社会からは判りにくくなってしまった形での名称で「属音」と呼ばれているという訳です。是亦教育の合理化の弊害と言える側面の一つでありましょう。
因みに、古代ギリシャ時代に於けるピタゴラス以前には既に、オクターヴ─①、完全五度─②、完全四度─③ という良く響く音程というのは知られていました。ピタゴラス(またはピタゴラスの徒)はこれを数値化した事で今尚知られている訳でありますが、それらの音程を数えるに辺り①は自ずと [1:2] ②は [2:3] ③は [3:4] というにしていた訳です。それらの比率に用いられている1〜4の数字を全て合計すると「10」を生み、この「10」というボーリングのピンの様に並べる事が可能なそれを《テトラテュクス》として絶対的な数として扱っていた訳ですが、いずれは、この「10」という採り方に疑義を抱かれる事になるのです。
無論、ピタゴラスの時代に教えに叛く者は国を追われた時代ですから、時代を経て疑問が呈される事となります。その最初がアリストテレスであります。そうして時代を重ねて紀元前はとっくに過ぎてボエティウスにまで1世紀ほど時を進める頃には音程比には「12」を充てる事で [12・9・8・6] の数字を導出します。ボエティウスは全音音程の比 [8:9] を導引したい為にこうした数を用いた訳です。
兎にも角にも、いずれは「27」という数字をも導く様になる訳ですがそうした側面を詳述する事は避けますが、少なくとも
[1・2・4・8] という2倍の系列と、
[3・6・9・27] という3倍の系列との双方を並べた時、それぞれの系列から混ざり合って隣り合う比率が用いられる様になったのが音階の行方となる訳です。
先述の様に《五度音程》とは規準とする主音を置いた場合2種類存在する事になります。良く協和する完全音程のそれらは《上方の属音》と《下方の属音》という風に呼ばれていた訳です(※これらの「属音」という名称は《良く協和する音程を決定する所》の意)。
即ち、それらは結果的に《上方の良く響く音》と《下方の良く響く音》からそれぞれ生じた音を纏めて取り扱っているに過ぎないという訳ですが、音階として結果的に1オクターヴ内に配列する作業および、前述の《2倍と3倍の系列の配列》という作業が、結果的に1オクターヴという概念を強く重視した上で音階を形成する事に似ているのは言うまでもないでしょう。そうして体系の構築は進み、歴史を重ねる程合理化されて行くのであります。
余談ではありますが、上属音・下属音のそれぞれを更に狭い音程へ「砕く」際《完全音程ではないのに協和する音》として「不完全協和音程」と呼ばれる音=三度音程が生じました。上属音は「上中音」として砕かれ、下属音は「下中音」として砕かれた訳です。いずれも、2種類の五度音程を《完全音程ではないのに協和する音》としてより狭い音程が生み出された訳です。
当然の事乍ら「下中音」は下方の相貌にある「下属音」から得られる五度音程の中庸となる《完全音程ではないものの良く協和する音程》として生じさせている訳ですから、下中音という全音階音組織として俯瞰した時に《下中音は上方倍音列の第13次倍音よりも高い》所に存在するに過ぎず、コンマ以上の開きがある事というそれを上方倍音列の側面だけから見立てて下中音と第13次倍音は実際には異なるので、下中音に対して過度に執着するのは愚の骨頂とばかりにやいのやいのと言うのは誤りなのです。
例えば、ヒンデミットが提唱した優位二声部性というのは、オクターヴ内に現れる凡ゆる音程と主音との近親性(優位性)を順に並べているのですが、下中音に相当するそれは下属音の後に優位的に出て来ますが、理解の浅い者は《第13次倍音としてすら大きく外れた近似的な音をここまで主音と近しい関係にあるとは莫迦気ている》かの様に論うものですが、それは音階成立の歴史を知らずに現今社会から単に眺めているだけの愚かな見立てなので参考にしない方が良いでしょう。
余談ですが、私は優位二声部性を「シュテムトン(近親音)」という風にして過去のブログ記事で語っておりますので、興味のある方はお読みいただければと思います。

扨て、現今社会での合理化された音楽教育下では、上属音と下属音という風にそれらの名称の成立状況と字義としての本来の意味が判りづらくなってしまったが為に、音楽理論の体系化が整備される事により多くの体系では単音程への転回位置に還元されて語られる事が多くなりました。
概してこうした体系整備が強化されるとそれまでの成立過程なども省かれてしまう事が往々にして起きてしまいがちなので、「下属音」という存在のそれは属音の全音下にあるかの様にも思われてしまう謬見が生まれてしまうというのも悲哀なる側面であります。
ある一定の基準とする音から《良く協和する》音程は、上方と下方それぞれに存在していたという大いなる事実が抜け落ちてしまっているのが残念な点でありますが、本記事をお読みになる方にはあらためて、主音に対して上にも下にも存在する完全五度という音程が存在するという状況を強く念頭に置いていただきたいと思わんばかりであります。
そうした《良く協和する》音程を勘案するに際して決して誤解してはならない重要な点があります。それは先述の《上属音と下属音》という名称の例がある様に、全音階には《上中音と下中音》という存在もあります。これらの2音は、《良く協和する音程(完全五度)を(協和的な意味で)副次的に良く響く音程として半分に割譲する》という風にして形成されたのです。無論、その「半分」というのは数学的に見て厳密な意味での折半という状況ではありません。聴覚が捉える人間の感覚的な意味から作られた基準であります。
扨て、全音階に於ける音度名の総称は下記の様に《主音・上主音・上中音・下属音・属音・下中音・導音》として命名されておりますが、実はこれらの名称のうち「上主音」だけが名前の充て方が異なっている事にあらためて注意する必要があります。
例えば、上中音と下中音のそれらは主音に対して「上方の三度」「下方の三度」という風に、両者の三度音程は長・短の三度音程または六度音程を問わず、単に《上方 or 下方》の中音という所から名前が付けられているのであります。そうした所から「中音」という呼び名も実際には《属音との中庸にある》という音程を仄めかしている存在なのであり、長・短の音程は問わず単に全音階的な副次的協和関係にある三度音程=不完全協和音程となるという事を指しているのです。
不完全協和音程とは字義のそれからは如何にも不協和な感じに思えてしまいますが実際には異なり、《完全音程ではないが協和する音程》という意味なので茲にもあらためて注意を払う必要があります。
上方と下方にある五度の中庸となる三度音程=中音とは異なり、「上主音」とは主音の上にある音という風に命名されている事で、短音階(=自然短音階)での第7音が主音の下方にある「下主音」と命名されている訳でして、これらは上中音・下中音との命名法が異なる訳です。
翻って「下主音(※サブトニックとも)」というのは主音の全音下に備わる音で、概して短調の「♭Ⅶ度」を導音化していない状況を呼ぶ事で下属音の方もついつい混同してしまいそうですが、成り立ちが主音の完全五度上・下という状況から生じている事を念頭に置かないといけません。
短調などの「♭Ⅶ度」音を持つ音階音組織に於ては、導音化されない第7音=「♭Ⅶ度」をサブトニックと呼んだりするので、ついつい全音下方のそれを「サブ何某」と呼びたくなってしまう所から誤謬が生ずるのでありましょうが、実際にはサブドミナントは「主音の下方五度」というのが正確な位置付けなのであります。
後に音楽理論理論は、教育面での合理化に伴い転回位置での体系化が進む事で、大完全音列という音階成立順序を楽典の側からは省かれてしまう様になり、大完全音列は音楽史や音楽学の方で学ぶ様になってしまった訳です。
そこで音階成立の歴史が不明瞭なままで全音階の知識を獲得すると、《下属音は属音の下方にあるが故の呼称》の様に誰が教えた訳でもなかろうにそうした謬見が初学者の間で蔓延する様になってしまい、現在に至るという訳であります。
きちんと音楽を学んでいる方であれば、こうした謬見を身に付ける事なく正当な知識を獲得している事でしょう。唯、音楽の場合は小難しい部分を熟知せずともある程度の知識と技量の獲得で無礼講や勝手ルールが罷り通ってしまう様な向きがあり、知識に脆弱な連中は当意即妙な感覚的に作用する様な喩えを言葉巧みに用いて来るので、知識の脆弱な連中を惹き付けやすい事が重なり、謬見を後押ししてしまう土壌が生まれてしまうのも確かです。但し、体系を重んじる西洋音楽の教育分野ではこうした謬見が罷り通る様な事はまず無く、世俗音楽の側で罷り通ってしまうのが常であります。
扨て、あらためて音階成立の順序に目を向けますが、冒頭に述べた様に下属音は「主音の五度下方」にある音で、良く協和する「完全五度」音程を下方に形成して出来た音が下属音なのです。
因みに、五度音程そのものの事を「ドミナント」という風に呼ばれていた事はあらためて念頭に置いていただきたい部分です。つまるところ、「下方にある五度音程」が ”サブ” ドミナントという意味であるが故の呼称なのです。
和声法が成立したのは音楽の歴史に於ても相当後の事であり、機能和声が生まれた時には「サブドミナント」という風には呼ばれておらず、全音階上の音名とは別にドミナントの先行する「和音機能」という事で「プレドミナント」と呼ばれていたのでした。
その後、ジャン゠フィリップ・ラモーが決してプレドミナントという形ばかりではない体系をも見越して「サブドミナント」と呼んだ事がサブドミナントの始まりであります。茲で和音機能と全音階の音名とを一絡げにしてしまう状況が出来てしまったとも言えるでしょう。
斯様な経緯からもお判りになる様に、ドミナントやサブドミナントのそれぞれは全音階の各音を示す他に、和音諸機能を示す意味も別にあるという事が分かります。加えてドミナントという言葉は、音楽界ではない場では「支配的」という意味がある為、ドミナントという機能の強さと五度音程の協和の強さを「支配的」と命名したのであります。その後「五度音程」という意味が希薄になっているのは今も昔も同様です。
音楽学の悲哀なる側面を挙げますが、機能和声法では物理学や数学者の大家達も貢献してきた事で、数学的な解が一義的である=多義性を認めないという性質も手伝って、音楽体系も固めようとする向きがありました。
これにて、本来ならば主音の上方に備わる「音の位相」と主音の下方に備わるもう一つの位相を同列に考えて音楽的な機能を構築すれば更に良かったのでありましょうが、実質的には一方の位相=上方の位相を優勢に捉えた事により、下属音というのはそれが完全音程であるにも拘らず、上方倍音列には一切現れる事のない完全音程という地位を、数学者たちも不文律の様に取り扱ってきたのが現状です。
前述の「音の位相」とは音波の周期の位相角の意味ではなく、協和音程の「相貌」の事です。例えば、主音から見た1オクターヴ上方は異なるオクターヴ相貌である訳です。その音程の「範囲」となる相貌を茲では位相と呼んでいるだけであり、完全音程というのはそうした音の範囲から生ずる「相貌」から成立しているという訳ですので、主音を基準に採る上方完全五度の上属音と下方完全五度の下属音には異なる相貌=位相に存在しているのは当然の事なのです。
主音の下方にある相貌を、まるで虚数かの様な空間だと押し込められた事でもありましょう。なにせ、かのオイラーとて負数による乗算を認めていなかった時代が大きく影響する音楽体系ですから、下方に備わる音楽的相貌である位相など一義的な解を導く体系整備に不必要な相貌であった事は明白です。
こうした背景から、下属音は完全音程であるにも拘らず上方倍音列に下属音が一切出て来ない(※下属音に近似する倍音は存在するがそれは完全音程ではない)のは、主音の下方にある相貌が棄却されているからに過ぎません。それにも拘らず全音階にはしれっと取り込まれているのが下属音なのであり、こうした所に矛盾がある事を不文律である様に顰に倣って楽典での音楽教育が今猶続いているという訳です。
ある意味では、教育体系の合理化が招いてしまっている音楽教育のジレンマのひとつであるのですが、ヘルムホルツ出現以降の音響心理学からのフィードバックが理論体系に組み込むと19世紀以前の音楽との間に齟齬を生みかねない事も手伝ってしまっているのも一因でありましょう。
扨て、下属音というのは「完全音程」であります。先述の様にこの完全音程の姿は悲しい哉「上属音」とオクターヴの次相貌とで生ずる陰影分割(=部分超過比)という「端切れ」の状態としてしか姿を見る事は出来ず、上方倍音列に完全音程としては現れる事はありません。
完全音程「3」と完全音程「4」との距離を測ってみたら《あれっ、完全四度ですね!》という状況でしか確認する事ができないという意味です。つまりそれは、上方倍音列の規準として常に実体そのものを指しているのではなく部分超過比としての姿でしか見られない形であるのです。
第3次倍音と第4次倍音は [3:4] という波長の長さの比率で示されますが、この音程比は完全四度であるものの「下属音」という音そのものを指しているのではありません。ギターに例えれば「5フレット」という音程間隔を「下属音」などと特定して呼んだりはしないでしょう(笑)。
つまるところ [3:4] という音の相貌が単に部分超過比として示されているに過ぎず、上方倍音列では実体としてではなく部分超過比としてしか現れない「概念的」な存在になってしまっている訳です。勿論これは、先述にある様にテトラテュクスを導引する為に必要な数字であった訳であります。
無論、全音階(ダイアトニック・スケール)には下属音としての存在は取り込まれているので《実体こそあれど》という音なのですが、それは決して上方倍音列に存在する音では無いのです。何故なら、本来ならば《下方にある五度》を取り込んでいるのですから《下方の相貌》をいつしか無視してしまい機能和声的社会の理論が醸成されていった訳です。
オイラーとて負数の乗算を認めなかった位なのですから、概念的な「負の相貌」を理論に組み入れる訳もありません。本来ならば全音階第4音の下属音と第6音の下中音は《下方の相貌》から組み込まれた音として理論体系を整備すれば矛盾が生じなかったであろうに、そうした音階の不文律が措定されたまま上方倍音列ありきの理論が構築されて行ったというのが実際の姿であります。
上方倍音列として示される各倍音の姿は「それそのもの」の実体の音が自然数となる純正比で純正音程が形成されるのですが、下属音に相当する実体は現れず、各純正音程同士の間隙を見る事でそれが初めて純正比という陰影分割の姿であるという事が確認できる物でしかないので、上方倍音列のみの規準で眺めれば実体の掴めない完全音程という姿が下属音なのです。
無論、下部共鳴(=下方倍音列)を想起すれば下属音はオクターヴの相貌の次に協和的な完全音程として現れます。フーゴー・リーマンはこういう風に説明した上で説明を導引させれば賛同の声が増えたと思います。とはいえ、私の行っている主音の下方の相貌を導引している事は下部共鳴と全く同じ事なのです。
ヴァンサン・ダンディーは自著『作曲法講義』にて好意的に下部共鳴(下方倍音列)を援用して組み込んでいます。私の知る中でもかなりの理解者でなかろうかと思います。というのも、上方倍音列に於ける音程比(※例えば完全五度を示す時の [2:3] という音程比で用いる数値)というのはあくまでも概念的な数値でしかないので、[4:5:6] を [1/4:1/5:1/6] として見ようが概念なのだから受け止められるべき訳ですね。
そこでダンディーは弦長を1/60にした「概念」を導引して下部共鳴を語っている訳ですが、数学的にも非常に柔軟な考えを持っていたのか、とても腑に落ちる説明で合点が行くものです。少なくとも下部共鳴(下方倍音列)を胡散臭いと思っている人は是非とも騙されたと思って『作曲法講義』を手に取って目を通していただきたいと思います。
尚余談ではありますが、『作曲法講義』は古賀書店刊のものと創元社刊のものとがありますが、内容はどちらも同一です。前者を見つける事が出来るのは大学図書館ではないと難しいのではないかと思うので、後者の方を探す方が賢明であろうかと思われます。
そうは言っても当然の事乍ら、下部共鳴は実体としては現れる状況ではなく、上音で形成されている振動との因果関係で作用する位相(=相貌)であります。
然し乍ら脳知覚レベルで「音高知覚」「協和」という物を調べると、乳幼児の喃語期および言語獲得の間の音高知覚とは、脳が合理的な整理をしている段階であるので、協和感を重視しているのではなく、凡ゆる音程を《等方に》知覚していると言われます。
そもそも「音程」とは2音間の音の隔たりの訳ですから、甲と乙という音の間を乳幼児の脳が知覚した時、甲・乙どちらかを優勢に聴いているのではなく、甲が「ミ」で乙が「ド」だとしたら短六度/長三度のいずれも知覚しており、こうした転回どころか凡ゆる音程に対して音階の作り出す情緒とは無関係に平たく音程を耳にしているという事が判っております。
乳幼児達の音程の知覚は《協和感に依存しない》という事が大きな特徴なのであり、協和感に依存した音階の情緒形成或いは音程の類推などもなく平たく凡ゆる音程を耳にしているという訳です。
ところがそうした平たい聴取能力は言語能力の発達と共に、脳細胞が合理的形成をする訳です。そうした合理的な解釈から生ずる全音と半音による「Tonnetz=音網」は、単なる概念上の網目を持つ構造に過ぎず、本来ならばトネッツは綺麗な方眼紙の様に網目を形成しているのではありません。そうしたトネッツの概念は、「対数」の空間をどうにかこうにか正方形に見える様に座標を探って概念を図示しているに過ぎない物であります。
処が音楽は数学と密接に結びついて科学的な発展を遂げた歴史があり、その過程で先述の様に数学者の大家が数学の解が一義的(=多義的である事が許されない)である事を持ち来してしまった事に依り、本来ならば《主音─属音》と《下属音─主音》という2つの相貌を同列に見ながら音楽を科学的に分析する必要があるにも拘らず数学者達の「性(さが)」は上方倍音列に伴う《主音─属音》という唯ひとつの相貌を重視して体系を整備した為、非機能和声社会ではこうした状況を叛く状況が生じているという事をも理解しなくてはなりません。
とはいえ音楽教育を正しい順序で学ぼうとすると、楽音の相貌としての2つの楽音成立の位相を最初に学ぶ事はありません。音楽の歴史からすれば茲が基礎であるにも拘らず。
少なくともシャイエの『音楽分析』で取り上げられるディミトリ・レヴィディスの「潜在倍音」や音響心理学方面でのリップス/マイヤーの法則を知るまでは、音楽に於てそうした2つの相貌が音階や調性感を形成しているという事実を知る事は無いでありましょう。
故に、例外的な状況は知識の面でも「無駄」な情報とばかりに棄却されやすい立場に陥ってしまい、強固な機能和声社会の教育の側がそうした例外を斥けがちになってしまうのは今も昔も変わりない物であり、知られざる世界というのは概して肩身の狭い思いをし乍ら割りを食うものでもあります。
斯様な例を挙げても頭の固い人は易々と受け入れようとはしないでしょう。ならば、そんな人に対して次の様に問うてみると良いでしょう。
《なぜ下属音は完全協和音程であるにも拘らず上方倍音列に存在しないのか!?》
と。この問いだけで十分です。
上方倍音列に存在しない完全協和音程。これこそが下属音の立場である訳です。つまり、上方倍音列という単なる1つの位相の内部にありもしない下属音を見つけようとしても存在する訳もないという事が判ります。下属音の存在とは《主音の下方五度》という位相の内部に存在する物なのですから。
下属音の立場を什麼にか恁うにか(どうにかこうにか)繕う為に、第21次倍音を近似的な音程として措定する事もありますが、第21次倍音は自然数のそれが示す様に完全音程が現れる比率では到底有り得ない自然数でもあります。
今日、多くの音楽が使う全音階に取り込まれた音組織の実際は、2つの位相から組み上げられた姿に過ぎないのです。
完全四度音程《5半音》は12回堆積させた60半音で「回帰」します。実際にはピタゴラス・コンマ分不足しているのですが、それは「純正完全四度」音程の場合です。12等分平均律での完全四度であれば過不足はなく理論上でオクターヴ回帰する事になります。
先述の第21次倍音というのは、高次の倍音ではあるものの自然数なので純正音程のひとつであります。第21次倍音は単に「協和/不協和」の標榜する所であるので、16:21という音程比は数字の上では純正音程比を示しているのですが、平均律に於ても「標榜する所」である事に違いはなく、こうした例示は私だけではなく多くの理論書でもこうした不文律を前提に理解する必要があります。
ですので、今回初めて純正音程比や音律形成の背景を楽理的に眺める人からすれば迷妄に陥りかねない側面でありますが、平均律の音程比とは純正音程比ではないので整数で表される事はユニゾンとオクターヴを除けば有り得ないのですが、「標榜すべき所」という《協和/不協和》の目指す場所は平均律の世界であっても同様の所を見ている物だと念頭に置いていただきたい所です。
そうした「標榜すべき所」を理解した上で音程比 [16:21] をあらためて確認すると、完全四度を12回堆積させたオクターヴ回帰は [16:252] と同等の音程比になる事になります。
和声法が確立されていない対位法社会に於ても複調がごく普通に蔓延していた事も勘案するならば、2つの相貌を視野に入れながら「調性社会」とは、その2つの相貌の内のひとつを優勢に聴こうとしつつ、局所的に下属音が生ずる相貌を優勢に聴こうとしたりと移ろっているのが実際の姿であろうと思います。
尚、21次倍音は7次倍音上から見た第3次倍音でもあります。これを現代では《7リミット上の第3次倍音》とも言います。自然数で割り切れる事の限界値を「リミット」と呼んでいる訳ですが、ハインリヒ・シェンカーはこうした用語を用いずとも「3リミット」の概念で属調・下属調との関連を研究しておりましたし、これを援用するヘンリー・カウエルがポリコードの概念を打ち出します。そうしてハリー・パーチがそれらの先蹤拝戴で自然数で割り切れる限界値をリミットと呼ぶ事になった訳です。
或る意味で、21次倍音は3次倍音上の第7次倍音であるとも言えます。上述の7リミットとは主従関係が逆になっている3リミット上の第7次倍音であるので、現代の機能和声的視点から観測すると「7」という数字はとても縁遠く感じられるでしょうし、何よりピアノのハンマーも第7次倍音が目立って来ない様にハンマー打弦位置が工夫されている位です。無論、ピアノとて完全に打ち消す事はできないものの、7次倍音というのは自然七度として微分音の音脈として三分音、五分音、四分音、六分音、31EDO、中全音律などの音脈で使われる事もありますが一般的には縁遠い脈絡です。
然し乍ら「7」を含んだ音程比の使用は古代ギリシャ時代にも使われていた事が確認されております。それは、
短三度・・・[7:6]
全音・・・[8:7]
半音・・・[28:27]
の使用があったという事です。勿論、ピタゴラス音律とは異なる音程になってしまいますが、古代の彼らはこうした異なる音程サイズでのそれらも音楽的な機微を感じ取って利用していた事になります。
これらを勘案すると、21次倍音の導入が単なる自説を補強してくれる我田引水なのではなく、古代ギリシャ時代も包摂して語る事が出来ている状況にあらためて理解におよぶのであり、それはかなり熟慮された脈絡であると言えるのです。
機能和声社会から音楽の相貌を一義的に見た時、機能和声のそれは「サブドミナント」とは決して呼ばず「プレドミナント」と呼ばれている状況に気付くはずです。つまりプレドミナントとは、ドミナントに進む為の物という位置付けである訳です。ドミナントに行かない状況はプラガルという風にも習う事でしょう。
下記に挙げる楽曲は原田知世のアルバム『パヴァーヌ』収録の「夢七曜」という曲ですが、イントロの当該部分のギターは単音でのチョーキングを巧みに使った微分音を用いているのがお判りかと思います。この音はチョーキングでピッチが漸次変化する為1つの音に絞りきれませんが最も際立って奏される音には複雑な自然七度由来の音が微分音として奏されています。
上掲譜例動画にも明記している様に、[ges] より32セント高い微分音ですので、[g] という幹音よりは68セント低いという数値で示されております。この曲は変ホ長調(Key=E♭)ですので、
つまり、本曲の微分音は長音階の第3音という「メジャー然」とした音がブルー3度化して中立三度として奏されているのです。唯、不思議なのはそうした脈絡をどの様にして持ち来しているのか!? という部分にあろうかと思います。
このアプローチは機能和声的な意味からはとても高度な物であり、サブメディアント・コード上であるという所にあります。つまり「♭Ⅵ度」上の和音という事でノンダイアトニックであり、西洋音楽的な側面から観察すると凖固有和音という事になります。
サブメディアント・コードとしては「C♭6」と表される事となり、このコード上からは5th音がやや高められ「32セント高」として採られた脈絡になる物です。6th音を付加している状況でもあるのに6thとも独立させている所が凄いのでありますが、この音はそうした上方倍音列に押し並べて観測してしまうと却って陥穽に嵌る可能性が高くなるので注意が必要でありましょう。
扨て、下記に図示される音列を見ていただければ当該微分音などの脈絡があらためてお判りいただけるかと思います。青い弧線で示されている微分音のそれは、変ホ長調の上中音 [g] から-68セント低められた中立三度= [ges] より32セント高いという音を示しています。
また同時に、その中立三度の脈絡というのは実は、変ホ長調の全音階音組織の鏡像音程で生ずる「ロ長調」(Key=B)の全音階音組織での [e] 音から下方に自然七度音程となっている脈絡なのであります。つまり、原調から見た時の「♭Ⅱ度」から下方に自然七度を採った脈絡という事になるのです。
変ホ長調とロ長調は厳密には「減四度/増五度」の調域となるのですが、異名同音に変換するとスロニムスキー流では《二全音調域》へと還元させる事が可能です。
とはいえ、「C♭6」が現れる前の先行和音「B♭m7(on E♭)」の時点で調は「変ホ長調」(Key=A♭)へと転じており、そこでの「Ⅱm7/Ⅴ」であり、「C♭6」は更に「変ト長調」(Key=G♭)の脈絡での「Ⅳ」なのでありますが、こうした《上方の脈絡》で見渡す必要がないのです。
扨て、変ホ長調の鏡像としてロ長調を導き出したという訳ですので、それをロ長調側から見てみると、ロ長調の属音 [fis] よりも32セント高い音を鳴らしているのと同様なのであります。
つまり、完全五度よりも僅かに高い音なので主音とはウルフを生ずる音程に極めて近似するのでありますが、そのウルフを生ずるもうひとつの音は虚像に過ぎないので、ウルフを忌避する様な状況とは異なる訳です。
また、脈絡としては純正音程比である [21:32] (主音から729.219092…セント) という「7」を基とする脈絡でもあり、原調である変ホ長調にてブルー三度として聴かせる脈絡としてはかなり強固な純正音程と鏡像関係となる経路から用いているという因果関係が判るのであります。ドミナント・コードが出現していないという事も装飾に一役買う状況となっていると考えて好いでしょう。
カデンツ(※偽終止的進行ではない終止を標榜する機能和声的音楽)を標榜する機能和声社会の枠組みではサブドミナントとは呼ばずにドミナントへ進む為の先行和音の機能としてプレドミナントとして呼ばれる訳ですが、ラモーの道うそれは、ドミナントに進まぬ用例もある為にプレドミナントとは呼ばずにサブドミナントと命名したのはあらためて譱い解釈であったろうと思うところです。
本記事冒頭から述べた「主音の下方五度」にある下属音というのが、より深く捉えた正しい見立てであり、凡ゆる音度を転回位置に還元するとドミナントの全音下方に下属音が来るのでそれを「サブドミナント」として誤解している人は非常に多く、転回位置で見た時での「サブ何某」という命名ではないので、あらためて念頭に置いていただければ之幸いです。
下属和音として和音機能があって初めてそう呼ばれるという事でもあり、機能和声社会下では意外な程に「ぞんざい」な扱いを受けている物でもあります。
誰もが簡便的に取扱う事の出来るジャズ/ポピュラー界隈でのコード表記を始めとする体系として整備された背景として要因に挙げられる物は先ず、音律体系が整い平均律化されたという事も大いに貢献しております。その理由の最たる物は、音階という物がオクターヴ回帰という所を標榜しているからであります。
即ち、オクターヴという「入れ子」としての「枠(わく)」が整っているが故に取扱いを楽にしているという訳でありますが、こうした整いが「音律」である訳で、入れ子としての音階がその姿を存分に発揮するのは、その音列びが持つキャラクター(=調性)なのであり、この調性というのは古代ギリシャ時代の様に数種のテトラコルドをディスジャンクトさせ乍ら組み合わせた物ではなく、実際にはペンタコルドの片方を別のテトラコルドがコンジャンクト(=共有)している事で調性は成立しているのであります。
扨て、古代ギリシャ時代はテトラコルドを組み合わせて音列を形成した訳ですが、基はピュタゴラスに端を発している様に理解されている方も少なくない事でしょう。然し乍ら実際には西洋音楽界にて影響を及ぼす事となる楽律の為の基礎はそれから相当後になってからのボエティウスです。とはいえボエティウスは作曲家なのではなく単に理論体系を整備したので、その辺りもあらためて注意していただきたいと思います。
線を強行するということ
我々の脳裡に突然、何も期待をしていない所にある特定の「旋律」が飛び込んで来たと仮定しましょう。
この飛び込んで来た旋律を本例では単に「線」と呼ぶことにしますが、この旋律「線」という物を単体(=単音および単音の連続である同度進行を含)の姿として《他の音を和声的に何も纏っていない》単旋律として聴くのであれば、その知覚し得る「線」に対して音楽的背景である和声的成分として「記憶」または「残響」という形で纏われて耳に届くという異なる状況を考える事ができます。
その音が単に [g] 音に相当する物であったとしたら、それを主音として聴く状況もあれば長三和音の三度音として映じてみたり、あるいは長・短三和音夫々の五度音やら果ては長七度音としてきいたり、ドミナント7thコードを基底とする増九度音として映ずる可能性も捨てきれません。
或る音に対して、何某かの和声的成分となる部分を聴き手が類推する状況というのは当然の様に起こっている訳であります。言い換えれば、単音を必ずしも和音の根音として聴く事も無ければ音階上の主音として聴く事は無い訳です。同時に、今一度リップス/マイヤーの法則を思い出していただければ、旋律に潜む「終止感」という重心を、脳知覚はどのように見付けようとするのか!? という事も視野に入れていただくと、唐突に飛び込んで来る旋律のそれにも調的な重心を見付ける筈なのです。
無論、そうした調的な重心を見出す事を嫌ってセリエルが生まれる訳でもありますが、半音階的情緒には、卑近な調的重心を忌避した上で生じた世界観であるのも確かです。
とはいえ、今回は調的な世界に於ても、本来ならば上方倍音列の縛りを受けない脈絡で呼び込まれている「下属音」に焦点を合わせて色々な側面を語っているので、調的な世界にも逸(はぐ)れた側面を捉えた上で私は斯様に縷述しているという訳です。
扨て、ある程度の器楽的素養のある方がピアノの低音域で [gis] 音を鳴らされれば、おそらくそれを主音ではなく「属音」として聴いてしまう可能性があります。非常に有名なショパンの「幻想即興曲」の冒頭の開始音がこれであるからです。
旋律形成とまで至っていない単音による音ですが、それを主音「2n」ではなく属音「3」と捉えてしまう可能性がある訳です。
単旋律として耳に届く時に於ても人間の脳内では、先述した例の実際として和声的な示唆を単旋律に見立てて《類推》しており(※この「幻想即興曲」の場合、主音を類推している事になる)、その類推が実態とは違ったとしても旋律線に対して和声感を欲するというのは得てしてこうした状況に喩えられる訳です。
例えば、人がある楽音を耳にする時の音に対して、全く別の他の脈絡の音が耳に飛び込んで来たとしましょう。聴き手からすれば突然闖入して来た脈絡の音に対しても、和音や調性が司っている音組織からの某しかの音に属する物であるのか!? という状況を峻別しようとする筈です。とはいえ、傾聴しようとしていた方に心理は傾いている筈で、主従関係としてはそちらの方に心理が偏っている筈です。
更に例えれば、ハ長調の楽音を耳にしていた時に突如「嬰ホ短調」の音楽が流されて来たとします。頭は最初混乱するでしょうが、どちらの音楽も調性を感ずる様にはなるでしょう。それが併存して高次な世界観を形成するに相応しい状況だとすれば「複調」の醍醐味を聴き手は得られるでありましょう。そうして作曲家は自身の感覚を磨き上げて表現しているのでありましょう。
こうした側面というのは音楽心理学方面にて詳密な研究が進んでおりますが、それらの多くは「協和 or 不協和」という概念的な部分の研究に大別され、他の側面として「錯聴」などの研究が進んで音楽の実態を明らかにしているというのが特徴的であります。
こうした科学的研究が音楽の実際にフィードバックされ、従来の作曲技法までを変化させる様な状況までを視野に入れる事に鋭敏なのは意外にも現代音楽の世界であったりするのも現実です。言い換えれば、一般的には馴染みの薄い物となっているのが実状でありましょう。先端科学というのは時として、過去の先蹤を唐突に無価値な方面に棄却してしまうかの様に残酷な事実を見せる事があります。
一般的に、周知されにくい事物という物は往々にして「虚構」「まやかし」と捉えられ易い物です。場合によっては好悪で判断する必要もないのに個人の好悪をぶつけられて思想対立となってしまう事すらあります。
根拠に乏しい情報しか得ていない人々がスンナリと首肯する程に理解に及ぶというのは相当に高いハードルでありましょう。
特にそれが個々人の《耽溺に耽る》という崇高な領域にアクセスして個人の音楽観すら否定されてしまいかねない科学的考究を目の当たりにした状況を想像すれば、殆どの方はそれを相容れないとする立場を採るのではなかろうかと容易に推察に及びます。
言い換えれば、個人の音楽的嗜好(趣味)として高次なレベルで育んで来ている人とて、楽理的・音響心理的な側面を深く理解して自身の音楽観を育んでいるというのは意外にも少なく、こうした科学的な側面をより深く知ってしまう事で自身の音楽的嗜好の峻別する感覚が疏外されてしまうとばかりに保身に走ってしまう人が多いのが実際なのです。
加齢に伴い健康を維持する事が遥かに体にとって好いにも拘らず、医師から運動を慫慂されたとしてもそれを拒んで成人病に陥る人は少なくないと思います。病に罹患してしまってからは健康体に戻す事は難しく、健康な状態である所で「より良い」事を薦められても新たなる労苦を忌避する事に近しい状況が音楽の世界でも実際には多いのであります。
本記事では、「協和=良、不協和=悪」という風には決して取扱う事はしません。音楽的素養を高めればほぼ間違いなく協和よりも不協和を優位に捉えて耽溺に浸る物であります。況してや現今社会の音楽は音律も視野に入れれば「協和≠良、不協和≒悪」というのが実際なのであります。
ですが、先述から用いた《とても良く協和する》《良く協和する》というのは音楽歴史のそれに準則させて表現しております。ですので、これ以降は《とても良く協和する》《良く協和する》という風に表す事にします。
例えばチューニングを必要とする状況で、チューニングすら全く出来ておらずに演奏に挑むというのは莫迦気ており、こうした姿勢で出て来る音が「悪い」のは至極当然であります。
他方、調律がどれほど秀でていても聴き手の好みに受け入れられなかった楽音を「悪い」響きと感ずる方も居られるでしょうが、自身の好悪を音楽全体に投影してしまう表現力の乏しさは配慮された表現とは言えず、こうした個人の感想に耳を傾ける必要もないでしょう。
とはいえ、こうした側面を全く識らずに自身の感覚的な側面だけで音楽を選り好みしている人々の方が圧倒的に多いのも亦事実なのであります。
こうした音楽の現実であるにも拘らず、どこかで覚えて来てしまった字義ばかりがピュアでオーセンティックな「純正律」という言葉を使いたくなってしまうのか、「純正な響きうんぬんかんぬん」という言葉を美辞麗句に用いて平均律を用いた音楽に臆面も無く形容してしまうという、そんな言葉を見聞きする此方が赤面してしまう様な音楽評論など見掛ける事も少なくない事でありましょう。
自身の好悪を投影させてしまうだけでしかない聴取者も、音楽的素養がどれほど乏しかろうとも終止感はある筈です。もう少し音楽的興味が深まれば、
《終わった感じがする曲なのに、Bの曲はミで終わるし、Cの曲はソで終わる。なんでAみたいにドで終わらないのだろう!?》
という疑問を抱いている人は少なからず存在する筈です。
音楽理論の側面からそうした状況を照らし合わせると、先の疑義を抱いている方は次の様に、
・完全終止
・不完全終止
についての疑問を抱いている訳です。こうした疑問を抱えている人に対して、《君の言っていたBとCの曲は不完全終止、Aの曲を完全終止と呼ぶのですよ》と教えてあげられれば音楽的素養は更に増す訳です。
付言しておくと、《完全終止》とは充分完全終止とも呼ばれますが、主和音上の主音で終止する楽曲の事です。他方《不完全終止》とは不十分完全終止とも呼ばれますが、主和音上で主和音以外の音で終止する事です。
例えば、ハ長調の主和音 [ド・ミ・ソ] 上で、ミで終止していれば不完全終止の第3音終止であり、ソで終止していれば不完全終止の第5音終止である訳です。現今社会では第7音・第9音終止はおろか、ジャズなどでは第13音終止もありますし、最早こうなるとコンフィナリス(副次終止音)で終止している訳ですが、音楽理論とは斯様にして体系化が為されている訳ですが、得てしてこういう側面というのは西洋音楽界の役割であって、ジャズ/ポピュラー音楽の世界では触れる事のない側面なのです。それを西洋音楽に押し付ければまだ可愛いものの、彼らの場合手前勝手な造語や臆説を辷り込ませて謬見を広めてしまう事が甚だ多いので迷惑この上ないのです(笑)。
謬見に陥り易い側面をどうにか払拭した上で、音楽の実際という物をあらためて吟味し乍ら、高次な音楽的語法を照らし合わせてみる事にしましょう。それが今回の趣旨であります。
単に音高の名前として [c・d] と表わされる2音があるとしましょう。ハ長調/イ短調ならばこれらは「ドとレ」なのでありますが、これら2音が単旋律として線的に用いられている時、音価の長い方を和音構成音に属する様に捉える事が多いと思います。勿論、それらの音は拍子の位置に対してどのように存在しているか!? という事も重要です。
C△7という和音に対して「d音」が属しているのかもしれませんし、将又Am7というコードに「c・d音」のいずれもが随伴しているのかもしれませんし、幾らでも和音は類推可能です。
その一方で、ある旋律線に対して和声的な状況が背景に奏でられている時、この「和声感」は必ずしも現代のジャズ/ポピュラー社会にて知られるコード体系に収まる物ばかりではありませんし、2つの異なる調性から生じた旋律線が絡み合って和声的状況の断片として解釈する事も可能でしょう。
終止感を見つけ出すのが調性に由来している状況だとすれば、調性を感じづらい2つの音が半音階からの断片であるかもしれません。最早そうなるとセリエルの断片なのかもしれませんし、半音階の総和音からの断片として見ているのかもしれません。それはフリッツ・ハインリヒ・クラインの様に「属二十三の和音」ならびに「母和音」など、スロニムスキーの著書総和音を見つけ出しているのかもしれません。
扨て今一度振り返ってみて、マイヤー(マックス・フリードリヒ・マイヤー)に依る《下属音は主音との16:21という音程比で採る》という方策をそれまでの西洋音楽界に於て和声法を上方倍音列に準えて構築させた体系とあらためて比較すると、それがとても新しい見立てであると拡大解釈する事が出来ると私は信じて已まない所です。
https://tawagotosakonosamu.seesaa.net/article/2018-03-03.html#Lipps-Meyer
《下属音》とは、その成立時点まで遡れば決して完全八度と完全五度とで生ずる補充音程という陰影分割となってしまうだけの地位に収まる物ではありません。音階の第4音とは音階を成立するための「結果」でしかなく、テトラコルドの四度音列が奇しくも合理的成立の後押しとなっているのも確かでしょう。
然し乍ら、音階の成立として理解するには不十分な点があり、そこで必要とされる補足的な説明こそが《協和音程を得る「2つの相貌」(=異なるオクターヴ属から)を用いて生じた物》であるという事を、多くの体系はいつしか忘却の彼方に追いやってしまい「属音のひとつ下の音」という謬見が蔓延る事になってしまう訳です。
ひとつの相貌に還元されてしまった《音階への合理的理解》の為に体系が構築されてしまっているという事を反省して見直す必要があろうかと思います。
即ちその「2つの相貌」が意味する物は、主音を基音とする1つ目の相貌である倍音列に加え、主音の下方に五度音程を作る下属音を基音とする2つ目の倍音列の混合から見渡す必要性が生ずるであろうという事を意味します。
無論、下属音 [f] を基音としてもう1つの相貌を形成した場合、この相貌上での「3」の倍数の振動比で現われる [c] に相当する音は属音の地位を得ている事になりますから、本来の主音の地位と属音の地位をも得てしまう様では一義的な解が得られないではないか!? と声を荒げる方もおられるかと思います。
確かに、物理や数学の世界は解が一義的でなくては公式が成立しないので多義的な解釈が許されないという側面はあります。無論、音波とて物理の体系に肖っている訳ですから多義的な状況を棄却する必要があるという声があがるのも確かにもっともな事ではあるでしょう。
然し乍ら、音階配列は既に生じており、上方倍音列での見渡しで落とし込んでいる物理の世界の側に対して次の様に、
《上方倍音列に存在しない下属音であるならば、Ⅳ度として聴かない状況があって好いのか!?》☜理論が破綻するので不可
《下属音(Ⅳ)は完全音程である必要はないのか!?》☜下属音は完全音程である必要があるものの、上方倍音列で観測する必要はない
という事を主張すれば、よほど音楽的素養のある物理学者でない限りはこれらの答にまともな「解答」を寄越す事は出来ない事でありましょう。
下属音が下方のオクターヴ属からの脈絡である以上、それを実質的に無視して上方倍音列となる《実体》に組み込んでいる以上、完全音程として上方倍音列に現れないのは当然なのであるから《属和音の七度》として古代ギリシャ時代でも用いられた「7」の脈絡を用いて措定させるというマイヤーのそれは、音楽の歴史を能く熟知していたと言えるでしょう。
即ち、ひとつの相貌だけで上方倍音列を見立てた場合、そこには下属音に相当する完全音程が一向に現われないのでありますから、「下属音は何処にあるのか?」という事に答えられる訳が無いのです。
《そんな事に研究費用は出せない、無い袖は振れない》
とまで言われてしまうかもしれません(笑)。円周率の最果てを見付けようとするまでもなく、上方倍音列に存在し得ない音である事は初学者でも判る事でしょう(頤を解く)。
現今社会の人々がいまやドミナント7thコードをも「Ⅴ」として聴くだけではなく「Ⅰ」の和音としてでも聴く様になりました。ブルースが好い例です。ジミ・ヘンドリックスの「紫の煙」はドミナント・シャープ・ナインスですが、あれは「Ⅴ度上の和音」でありましょうか!?
そうした状況を勘案すれば、下属音の本来の地位を与える為に現今の音楽社会は「2つの相貌」を常に併記させた理論体系とするのが理想的なのであろうかと思われます。下方倍音列を虚構の骨頂の様に疑ってかかる人は少なくありませんが、それならばなにゆえに下属音と下中音はしれっと全音階音組織の体系に組み入れられているのか、是非とも説明していただこうではありませんか(笑)。
そうした状況は、本来の主音が属音の地位をも得てしまう二義性を持つ事になります。対位法の歴史から鑑みればごく普通に有り得る事でもあります。とはいえ、対位法を引き合いに出さずともこうした状況は既に提唱されており、ハインリヒ・シェンカー(シェンカー理論ではない)の時点でこうした二義的な見立ては為されているのも実際です。
もっとも、シェンカーの場合はもっと多義的な示唆に富んでおり、興味のある方は1906年に出版 'Harmonielehre' のp.42 - 43のセクションサイン14の項を読めば深く首肯し得る事であろうかと思います。尚、これに関してはヘンリー・カウエルもポリコードで援用している関連性であります。
教育方法がシンプルで合理的であるのは致し方ない事であるとも言えますし、単一の調性を教える必要がある所に複調性を孕んでいるという事を教えなくてはならない難しさもあって、どちらを採る必要があるのか!? と逡巡するのも致し方ない事でありましょう。
多くの音楽教育体系というのは平易な物から習って行きますし、聴取能力というのも経験と時間の蓄積に依って醸成される物ですから難しい物は後になって体得する事になります。そこに複調という世界観も生じているのですが、きちんと吟味できる様になるには音楽的な習熟度が高まって来ないとなかなか理解できないのではないかと思います。
とはいえ複調というのは教育体系から照らし合わせれば後になって習う事に過ぎませんが、和声法が成立する以前の対位法社会では常に頻出する状況であったという事を知るのも悲しい哉音楽的素養を高めた頃であります。
音楽の場合、初学者が現代からの視点で体系を十把一絡げに押し込められる事に伴い、自身にとっての「難易度」をあらためて序列化させてしまう事で優先順位を勝手に位置付けられてしまう向きがあるもので、それと同時に音楽的歴史と体系が歪められてしまっている実態がある事を知っておく必要があるかと思います。
和声法から照らし合わせた時の「旧い方の音楽」に倚音や和音機能として見立てた時は、それはもう、《和声の響きを大きく毀損させる》様に教わるものですから、対位法やフーガによって生ずる複調の状況を和声法では到底説明できない響きですら《毀損》として理解されかねない教育の順序になってしまっている事をあらためる必要があろうかとも思います。
例えば、ロック音楽に於ける所謂《一発モノ》としてワン・コードで済むタイプの状況で生ずる「リフ」というのは、それがトニックであろうとも下属音を如何にして経由して旋律形成が出来るか否かで、その楽曲の特徴や彩りが決定されます。下属音の存在なしでは一発モノの状況を乗り切るのはあまりに卑近な音選びになりかねない訳です。
和音からすればアヴォイドとして扱われる音が、旋律にはとても強固な牽引力となるという事を教える事もまた重要な訳ですが、高次な響きを体得出来ていない学び手に懇切丁寧過ぎる体系が自縄自縛に陥ってしまっているとも言えるでしょう。
下属音を下方からのオクターヴ属由来の音である事を声高に述べた時、そこでの音程比は完全音程であるものの、しれっと上方倍音列ばかり躍起になっている世界観で《全音階》に下属音は組み込まれてしまう。
そこでの下属音の地位とは本来の地位を希釈化する為の脈絡に成り下がり、下属音という「完全四度」の位置に在る完全音程を近傍値である単なる純正音程比となる中立音程に事実上の「格下げ」をしてまで下属音から完全音程の地位を奪って良いのか!? というスタンスを採る人が居るとは私も感じております。
差音に目を向けた場合クリューガーの説に依れば、高次の整数比に依る音程は幾多の差音を生じ、これが協和感の溷濁の要因とすると唱え、シュトゥンプフは嘗て、
《800:1100の振動比での差音は [300, 500, 200, 100] であり、生ずる差音は総じて協和的な音程比で生ずるだけであり乍らも、実音の不協和音程の差音が協和状態である》
という例を示した事でも有名であります。
然し乍らそれは、M・マイヤーのそうした「フィナリス」研究過程の事実を俎上に乗せない限りは、殆ど大多数の人達は下属音という音を転回位置に押し込めてしまう事で「上方倍音列に完全四度相当の音は生じない」と信じて已まなかった人達であるにも拘らず、いざ下属音の採り方の重要性を取り上げた途端に、下属音から完全音程の地位を奪うなとばかりに声を挙げてしまう人は一体音楽のどの側面を護ろうとしているのか全く私には理解が出来ないのであります。
見立てとして最良なのは上屬音も下属音も完全音程の地位に在る事です。但し、下属音を転回位置に「移置」してまうと、それは単に我々が転回位置にて各音を峻別し易い様に並び替えただけの事であるだけで、決して上方倍音列に下属音という完全四度に相当する音程を出現させる為の移置ではない事はお判りだと思います。
こうした状況であるにも拘らず、本来ならば下属音を見立てた時の音程の「相貌」を視野に入れて語らなくてはいけないのであるのに希代の高名な物理学者・化学者・数学者すらも総じてひとつの相貌だけで見立てようとするのは、それらの分野が一義的な法則を取扱っているが故に、凡ゆる事物を一義的に見立てようとしてしまう陥穽が伴うからなのであります。
上屬音と下属音の双方を完全音程の地位に据えたままに単純な音程比の関係に持ち込もうとすると「移高」する必要があります。少なくとも規準としていた音を「属音」と採る必要があります。これこそが協和や調的性格の源泉である訳です。
例えば結合差音ひとつを採ってみても、基準とする音よりも低い音が物理的には鳴ってはおらずとも、基準とする音よりも遥かに低い音を脳が類推するのは判りきっている事である訳でして、物理的な音が無い状況だからといって棄却する様な事すら誹りを受けてしまいかねない現今社会に於て、何故上方倍音列の相貌だけで楽音を判断してしまおうとするのか!? という点に於て意外にも疑問を抱く人は少ない物です。
ケプラーやオイラーとて物理的振動数に於ては一義的な見方をします。つまり、シュステーマ・テレイオン(大完全音列)を用いた時の、基準とする主音の「下方五度」に下属音を生じさせるという事で、主音を基準に採る物理的振動の相貌に加え下属音を基準とする2種類の相貌を併存させて楽音を見渡す事が最も「音楽的」であるにも拘らず、主音よりも下にある「虚構」は蚊帳の外に於かれる訳ですから歎息するあまりです。
物理学・数学・化学というこれらの分野は、それらの体系は一義的な解に収束する様に纏められているので、これらの分野に音楽という物理的運動にスポットライトが当てられると一義的な側面で分析させられてしまうという「弊害」があります。
加えて、科学的側面から対照させた「音」の研究は、歴史の上で最も下位に位置付けられてしまっていた為、時の数学者の大家が述べたそれには従わねばならぬ風潮があったという事を忘れてはなりません。こうした風潮に風穴が開けられたのはヘルムホルツの到来を待たねばならないでしょう。
音楽を数学や物理の分野の様に一義的な物とする体系であるとするならば、数学者や物理学者および新たに体系を学ぶ者からすれば嘸し合理化が為され有り難がられ喜ぶ方もおられるかもしれませんが、音楽というのは機能和声社会ですらも長調は厳格な体系を整備できてはいても殊に短調となると未だに整備されていない側面が今も猶ある物です。
それは何故かというと、短音程種が倍音列に現われずに、某しかの音程比という「方便」で片付けないとある程度の部分で整備が出来ない代物だからです。これらの整備を俟たずに調的性格が一義的な解答を得るというのは有り得ない事でありましょう。
例えば、我々が生まれて初めて「ドとファ」という音を同時に聴いた時、「ドとファの2《色》が混ざった音」という様な覚え方はしません。とはいえ「2つの音が混ざってはいても、色彩の様に全く別の1つの音」として生まれ変わって聴こえる訳でもありません。
このように視覚的に見る色彩の場合、異なる2つの波長の色彩は全く別の1つの色として混ざり合ってしまいますが音の波長というのはそのようにはならないという訳です。
波長の異なる音波が和音(複合音)として聴かれる状況を「色が生じている」として喩えるとしたならば、「ファとド」の完全五度も「ドとファ」の、単なる転回でしかなく音程だけが異なる状況の場合色彩的には同質の色になって然るべきでありましょう。
が、しかし。実際には近似的な色彩の様にして聴かれる訳ではありませんし音波を捉えるに際してそんな覚え方はしません。
但し、2音の「音程」は脳が覚えているので、「ファとド」を聴いた時にはその完全五度を「シ♭とファ」という風に他の物理的に異なる音高へ移置されても知覚レベルでは類推する様に補完しますし、「ドとファ」と完全四度を聴いた時には「ソとド」という「同一の音程」を類推する訳です。この様に知覚レベルでは音程を記憶しているが故に、実際には脳の知覚レベルを単音程(1オクターヴ)に限って言えば、基準とする音の上下に等しい音程差があれば6種の音程だけで半音階は獲得できる事になる訳です。しかし、この様に脳知覚が音程に対して平たく覚えようとするのは言語を獲得する前の喃語期までの事であり、その後は協和への依存度が高まる事で、音階の情緒、調性判定感覚が宿って来る様になり、そちらが優勢になって来るという訳です。
そうした音楽的情緒=「クセ」が宿るのは、口腔咽頭器官が共鳴体であるからであり《協和》という状況への依存度が高まるというのはこういう事なのです。無論、音楽的素養が習熟する事で、協和感に依存した音の捉え方はしなくなり、半音階的な要素や微分音への感覚が磨かれて行く事となり、喃語期で得ていた平たい感覚を再び取り戻して鍛えられて行くという訳でもあります。
特に上方倍音列に生ずる絶対完全音程(完全一度・完全八度)と完全協和音程(完全五度)が優位となり、それらの音楽的偏向性が「軸」と成しているのです。そうして本来ならば上下非対称という形でありつつも、音程列の「ドレミファソラシド」や「ラシドレミファソラ」の情緒に強い因果を感じ取る様になっているだけの事であります。
扨て、上述の様に《音階の情緒》に上手い事忍ばされた《下属音》の存在を今一度思い出してみて欲しいと思います。上方倍音列に存在しない音が音階には平然と忍ばされているという状況。一体何の因果関係で持ち来されているのか!? という事を思えば、自ずとただ一つの《音の相貌》から拔萃した状況とはならない事がお判りいただけるかと思います。
もうちょっと、音楽の体系を「変格」的に見る事も重要なのではなかろうか、と。