『DAIGOも台所』に使用BGMの譜例動画と解説


 平日昼間に放送されている『DAIGOも台所』の番組内で用いられる調理後の実食時に流れるBGMは、ボサノヴァ風のギターに加えてモーダル・インターチェンジが用いられており、フルートの旋律もキャッチーであるので、耳に馴染みやすい旋律に反して楽理的側面で追究するとどのような音楽的構造が明らかになるのか!? という事をあらためて明示しておきたいので、今回はYouTubeに既にアップした譜例動画と並行して楽曲解説を繰り広げようと思います。
DAIGO.png



 本曲の譜例動画を制作するにあたって用いたソフトはDoricoでありますが、長年愛用して来たFinaleと比してまだまだ不慣れな所があるもので、痒い所に手が届かないもどかしさについついFinaleを使いたくなるものの、この状況を続けてしまうとDoricoをまともに習得する事すら覚束なくなるので、どんな些細で平易な楽譜でもなるべくDoricoを使おうとして作った譜例です。

 番組の実食時BGMは、フルートの旋律で寛ぎ感が溢れた優しい曲調であり、ハ長調で展開されますが、モーダル・インターチェンジが随所に施されているので、原調の残り香を感じ乍ら耳にすると、クロマティック・メディアントが随所に現れる(※原調には無い「♭Ⅲ度」の脈絡を生ずる)事となり、移旋が豊富な音の脈絡にはついつい耳目の欲を集める好材料の楽曲となる訳であります。

 本曲の採譜に手こずったのは、A・Bパターンの2種類があるもののBパターンが隅々まで流れる放送回が結構レアである事。大抵の場合、Bパターンの途中で終わってしまいます。番組を何度も録画していればBパターンの8小節という尺の全貌を把握してリフレインになるという事が判りますが、1週間ほどの期間を追う程度では無理でしょう。私自身、本曲の終止部自体は未だに判らないのでありますから。

 加えて、本曲のベース・パートはダブル・ベース(=アコースティック・ベース)が用いられているのでありますが、Aパターンのベースは特に、通常のベースが受け持つ音域より総じて1オクターヴ高く奏されているので非常に面食らう訳です。それこそチェロの音域かと思う位。

 ギターとベースというのは、楽譜で表す時は一応それらは「移調楽器」である為、1オクターヴ高く移高して書かれるのが慣習となっている訳でありますが、そこに加えて実際に更に1オクターヴ高く表す事になるので、楽譜の上でも非常に面食らってしまうのです。

 ベーシストからすると、通常音域より1オクターヴ高い位置で弾いているのと同様(或いは1オクターヴ上の高音弦の異弦同音位置で弾いている状況)ですので、欲求の側が《低さ》を求めてしまうので採譜が煩わしかったりします。

 採譜を苦手とする人の中には《ベースの聞き取りが苦手》という人も居たりするのですが、音が高ければ耳コピしやすいってモンでもないだろ、という事を今回まざまざと感じた次第であります。そうでなくとも本曲は、番組本編の料理解説がふんだんに流れていて、その背景にBGMが添え物として流れている状況である為、楽曲部分というのは聞き取りづらい状況であるが故に、そこに拍車をかけるかの様に特殊な状況が加わると、採譜という作業に於てかなり面食らうという事をまざまざと実感した訳であります。私が採譜ミスをしている訳ではありませんので、その辺りもあらためて感じ取っていただければ幸いです。

 
 それでは茲から本曲の解説に入るとしますが、本曲はハ長調(Key=C)で開始されテンポは四分音符≒95程度という比較的ゆっくりとしたテンポであり、伴奏の大半はボサノヴァ風の指弾きによるギターが印象的なアンサンブルとなっています。




 私はこのアンサンブルに対してピアノも付け加えておりますが、ギターと重複する様なヴォイシングにしている為、ピアノを欠いても問題は無いアンサンブルに留めております。これらのアンサンブルで厄介なのが前述の通り、1オクターヴ高い所を弾くベースなのですが、ギターの低音域とピアノの低音域のヴォイシングを迷わせる事なるので、ベースとしては煩わしい動きなのです。

 このベースの動きは、根音の後に四度下方の5th音を辿っているかと思いきや、途中では五度上方に上がって5th音を奏する所もあり、この辺りのフレーズの統一性を欠いている点も「私ならこうやるんだけどな」という思いを強くさせてしまい、原曲に逆らってしまいそうになるのが本曲のベースのフレージングであり、ちょいちょいツッコミを入れたくなってしまいそうな点が多くあります。

 扨て、本曲は「C△9(13)」のコードで2小節のイントロがあり、同じコード(=トニック・メジャー)のままフルートが更に同一コードを2小節続けて展開されるのでありますが、5小節目に現れる「ツーファイヴ」のそれはハ長調での「Ⅱ─Ⅴ」(Dm7 -> G7)ではなく「Gm7 -> C7」となっている所に注目してもらうと、本曲が早速モーダル・インターチェンジを採っている事がお判りになろうかと思います。

 楽曲的にはスルリと《移旋》している訳ですが、構造的に見るとこれこそがモーダル・インターチェンジという他調の借用のシーンなのであります。何故こうしてスムーズに移旋できるのかというと、調性が持つ旋律的構造に於ける《音列の交換》が忍ばされているからであります。この《音列の交換》が現れる事で、背景に備わる和声感は唐突にならず旋律の流れがやんわりと中和してくれるという状況になるのであります。

 仮に、茲でメロディーが存在しなければ、「Gm7 -> C7」は聴者には唐突な状況変化に感じてしまうでしょう。つまり、楽曲開始早々に起こる転調による変化に伴うものです。

 それというのも上掲のツーファイヴ「Gm7 -> C7」はヘ長調音組織にて現れて然るべき物です。ハ長調の音組織が見事に背かれてしまっていた訳ですが、ハ長調音組織を聴き手は騙されて聴いてしまっている訳です。

 調性を感ずる聴者の脳では、音楽的構造として [ド - レ - ミ - ファ - ソ] という5音列と [ソ - ラ - シ - ド] という4音列を脳は瞬時に分類しています。前者の5音列を《ペンタコルド》後者の4音列を《テトラコルド》と呼び、調性とはこれらの音列の両端となる《核音》を共有して互いに「5と4」を組み合わせられる事で生じます。この際、主音に対する上行導音の存在もあらためて調性感を強化するものであるのです。

Pentachord_Tetrachords.jpg

 上掲のペンタコルド&テトラコルドのそれぞれが示す《置換》について説明を補足しておきますが、[ド - レ - ミ - ファ - ソ] のペンタコルドに対して緑色の [ド - レ - ミ - ファ] というテトラコルドに置換した時、そのテトラコルドの核音の片方は、他のペンタコルドとコンジャンクト(=共有)している事が考えられます。ですので、[ド] を共有する様にして新たに形成されるペンタコルドは [ファ - ソ - ラ - シ♭ - ド] と成り得るのであり、[[ド - レ - ミ - ファ] という風にして五度の協和の手招きをさせずにテトラコルドに収まる様にして他のペンタコルドの補完を待てば、容易に関係調(※この場合は下属調)への転調が行える様にして音響心理を逆手に取って作り出す事が可能となる訳です。

 同様に、元からあったテトラコルドである4音列 [ソ - ラ - シ - ド] から伸びるオレンジ色の矢印は5音列のペンタコルドへの置換を示しているのであり、それは [ソ - ラ - シ - ド - レ] というペンタコルドに形を変えたが故の置換なのであり、ペンタコルドの片方の核音を共有(コンジャンクト)させるには新たなるテトラコルドの共有が必要となります。そこで補完されるテトラコルドは [レ - ミ - ファ♯ - ソ] という事になり、この置換で生ずる新たな調性は属調であるという訳です。

 茲で念頭に置いておきたい音楽的な前提として、ペンタコルドを音楽的に用いる際、核音から核音へと伸びる「五度」音程の存在が容易に和声感および協和感を随伴させる所にあります。

 然し乍ら人間の脳は、言語獲得時までの脳知覚の処理としては「協和」に頼らずに音の知覚を分類していると言われています。協和は調性観念にも強く影響する物ですが、乳幼児の脳は凡ゆる音を等しく聴いているという訳です。その後、脳知覚は「合理的」な分類でまとめていくとされています。

 その合理的な知覚としての人間の脳が本来処理している概念としては次の様に表す事ができる物なのですが、テトラコルドがクランク状に形成されている事によるトネッツ(Tonnetz=音網)であり、ピンク色の物が4音列(テトラコルド)というのが合理的な処理によって生じている配列であるという事です。

Tonnetz_(semitone_wholetone).jpg

 上掲のトネッツが意味している物は、脳知覚が合理的な配列として音を並べているもので、横軸は半音音程、縦軸が全音音程という風に分類しているという事を示す概念です。こうして配列させれば碁盤の目の様に均等に配列されている様にも思えてしまいますが、音というのは実際には「対数」であるので、厳密に言えば正方形のマス目の様に並べる事はできないのでしょう。とはいえ、トランペットのホーンの丸みのある部分に「宛も」正方形の様に見える図を書けば、トネッツというのは単に、正方形の様に見える《投影》であり、その座標から二次元的に観測しているに過ぎないのがトネッツの概念とも言えるでしょう。

 更に付言すれば、先のトネッツの横軸・縦軸以外に示している斜めの線も、二次元的には半音・全音とは異なる脈絡で直線状で表されているに過ぎず、数学的な側面からすれば、もっと複雑な経路で二点を結んでいるのでありましょう。因みに微分音は、こうした半音・全音とは異なる脈絡で生ずる経路が強化されなければなかなか身に付かないと思うので、微分音などまで飛躍して《協和に依存しない》脳知覚として鍛えるには必須の能力なのであり、こうした端的な図示が微分音をそれほど難しく感じない脈絡である事もお判りになれば幸いです。

 話が逸れましたが、ピンク色のテトラコルドが「全音」を隔てて組み合わさる事で全音階の「音組織」というのが生じている事があらためてお判りいただける事でしょう。協和に依存する様になる時、一方の組み合わせをピンク色のテトラコルドを保持しない様に聴いてしまう為、テトラコルド×2という組み合わせを維持できなくなった知覚は、一旦深く協和に依存しやすくなるという訳です。これにて我々は初めて「調性」感を得るという風に言われます。

 言うなれば、音楽を沢山聴き込んで調性に依存せずに半音階的な強化が為されるには、もう一度こうした乳幼児期の様に《等しく音を聴いていた》状況を呼び戻す事でもあるのでしょう。それほど協和に依存する=完全五度の力=属音の力というのは強いという訳です。

『三全音を含む副和音の示唆』

 扨て、本曲の原調はハ長調であるので、おのずと主音と属音の位置は明確になる事でその存在感が際立つ物となる筈です。

 然し乍ら、旋律的には4小節目(Aパターンの2小節目)では [シ・ド] の2音だけをジリジリと使う事で、属音(= [ソ] )の位置が阻碍される様にして旋律が形成されております。これが、転調をスムーズにさせる動機となり得る訳です。

 そのメカニズムとしては、[ソ] という属音の位置が不明瞭になる事で原調の音組織= [ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ] も不明瞭になる事を許容する状況に近付く訳です。そうして、原調を固守すれば決して現れないであろう [シ♭] が生じます。

 この発生は音楽的には《変応》と呼びますが、原調にはない音組織の呼び込みであります。音楽の構造について理解の甘い者は、

《Gm7へコードが進行したのだから「シ♭」が生じて当然だろう》

という風にしか捉えませんが、「シ♭」という発現状況を《和声が先か!? メロディーが先か!?》という風に考えるのではなく、なぜ《「シ♭」の発現を許すのか!?》と考える事が重要なのです。

 つまり、和声形成、旋律形成の二項対立なのではなく、どちらの形成よりも前に存在する《動機》があったが故の形成であるにすぎず、「シ♭」という存在はその前の動機にこそ根拠を求めるべきなのです。そうした動機が生ずる事を許容するに値する地盤を作り出したのが属音の存在を希薄にした事であるという訳です。

 無論、属音 [ソ] という存在は、伴奏には含まれています。イントロから続く「C△9(13)」に包含されている物でありますが、伴奏に隠匿されたまま用いられる状況としてではなく、旋律的に現れる状況と旋律に生じない状況という2つの側面を比較した場合、後者は和声および伴奏に隠匿されているに過ぎない状況となり、これが《希薄》という状況へと化している訳です。故に、旋律形成としての音の脈絡は、音階外(=ノンダイアトニック)の方へも磁場が働こうとする訳です。

 そうして「モーダル・インターチェンジ」として「Gm7」が生ずる、と。和音形成は旋律にある「シ♭」の存在を補強する立場でしかなく、《このコードありきで生じた旋律》でもなければ《この旋律ありきで形成されるコード》でもなく、この両者が発生する事になったのは、先行句で希薄となった属音の存在が発端なのです。

 5小節目での「Gm7 -> C7」という過程に於ける旋律形成が [ド] を極点に、[ド - シ♭ - ラ - ソ - ファ] というペンタコルドを形成して、その後の新たなるツーファイヴを生じて、調域が下属調のヘ長調に転じている音組織へ移った(=移旋)という事を明確にしている状況となる訳です。

 尚、この過程で「ミ♭」ではなく「ミ」を生じているのは、決して「C7」というコードの存在で生じているのは結果であるに過ぎず、楽曲という総体が「ミ♭」を欲する事までは避けているという事の表れであろうとも思います。

 その理由として、原調に対して「ミ♭」を生じるならば楽曲の性格としては同主調(ハ短調)へ転調する事を強く示唆する状況に寄ると言え、そうした大きな転換を他の曲に例えるならば『雪のふるまちを』の様な、長調と短調を行き来する様な世界観を生ずる筈ですが、そこまで大胆な音組織な変化よりも下属調へ転ずるに留めている世界観を選択しているが故の旋律運びで生じた結果であり、当該箇所は「ミ」を選択したと言える世界観なのであろうと思われるのです。




 加えて、注意したい部分として同小節4拍目に注目する事としますが、4拍目最初に現れる [ファ] は「C7」にとってはアヴォイド・ノートですが、直後の [ファ♯・ソ] という、増一度→短二度というダブル・クロマティックでは [ソ] を最大限に強調としようとする線運びなのであり、[ソ] に対して半音階的な揺さぶりは、[ソ] に対して1つの半音音程だけとなる上行導音だけでは足りないので、より強く半音階の揺さぶりを欲した結果として生じているアヴォイド・ノートに過ぎません。

 アヴォイド・ノートとは和声の響きを毀損する和音外音ではありますが、必ずしも旋律形成で避けなくてはいけないという音ではありません。その和音外音としての反発力は時として、旋律の牽引力として必要な力を秘めている物です。そうした牽引力を無くしてしまえば、旋律とは単に和音構成音としての分散和音に成り下がりかねません。

卑近な状況に成り下がるのを避けた上で生じているアヴォイド・ノートであるという訳ですが、C7上で生ずる [f] は結果的にドミナント11thコードは、B♭△/C△というポリコードの断片としての姿をも見せようとしているのであり、アヴォイドから生じたほんの一瞬の違和は、実は複雑な音楽世界の形成に役立っているという訳です。

 6小節目のコード「F△9(13)」は、先行のツーファイヴを経て下属調であるヘ長調に転調しています。それでも転調感を感じにくく原調の残り香を感ずるのは、原調のハ長調での旋律に於て主音の存在が希薄であった事に起因しています。

 つまり、原調のトニック・メジャーであった「C△9(13)」上での「ド」の音の出現頻度が少なく、上音(=根音以外の和音構成音)の取り回しが多かったというのも理由のひとつとなるのです。そうした旋律の節回しで原調のトニック然としてコードの側が一所懸命《調性格》を醸し出そうとしているのですが、旋律が上音を執拗に奏している事で、調性を直視せずに脇目で捉えているかの様にして原調が振る舞っていたという訳です。

 コード進行も明確に転調を示唆するものの、旋律が上音を執拗に表れて《変応》を済ませ、変応の時点(=「シ♭」が現れた時)で転調は示唆されています。唯、転調そのものが大胆に感じないのは原調の存在が主音を叛く様に振舞っていたという事です。

 尚、本小節で実質的にヘ長調へ転調をしていても新たな主音である「ファ」= [f] を明示的に旋律で用いられるのではなく、上音を執拗に用いている事があらためて判ります。

 そうして7小節目では「Fm9」が最初に現れ、後続に「B♭7(13)」を生じており、新たなるツーファイヴを生じています。つまり、調域としては茲でスルリとKey=E♭の音組織である変イ長調の音組織へモーダル・インターチェンジを起こしており、「Fm9」は先行和音であった「F△9(13)」からの同主調のヘ短調に転じたのではなく、変イ長調のⅡ度に転じているという風に理解する必要があります。

 加えて、変イ長調音組織へ転ずる事により、変イ長調の平行調であるハ短調が原調(=ハ長調)から同主調に見える脈絡であるという事にも気付かされる事になり、当初は叛かれていた「E♭」音の出現は茲で露わになる事で、原調が暗く転ずる(ハ短調の音組織を包摂する変イ長調)事に貢献するという事になるのです。

 そうして8小節目には、先行するツーファイヴを経て変イ長調(Key=E♭)へと着地しているのがお判りいただけるかと思います。とは言え、本箇所の「着地」は一時的な物に過ぎず、後続の9小節目では結局のところ原調としてのツーファイヴ「Dm7 -> G7」を生じており、結果的には、「変イ長調→ハ長調」というIII度調域(※この場合の三度は短三度)の音組織へ転調する事となり、これは全音階的には生じない音程に生ずるノンダイアトニックの音脈としての脈絡であり、「クロマティック・メディアント」と称される世界観であります。

 頻繁に調域を変えていても、その移ろいを大局的に俯瞰した時、原調の長調側の世界を基準にすると「♭III度」や「♭Ⅵ度」を生ずるもので、西洋音楽でも六度/三度進行などと称される事もあります。三度/六度の主従関係は厳密に決まりはなく、《三度上は六度下》および《六度上は三度下》という風になっているだけの事で、西洋音楽ではそれらの三度/六度の音階外(ノンダイアトニック)な脈絡でのクロマティック・メディアントおよびフラット・サブメディアントという区別まではしていません。

 近年のジャズ理論の類でしたらクロマティック・メディアントはモーダル・インターチェンジを学ぶ時に必ず通る状況でもありますが、名称は方々で少し異なる事はあれど、全音階的ではない音階外の脈絡である、という事実こそが重要な理解である為、あらためて吟味していただきたい箇所であります。

 10〜15小節目は2〜9小節目と同様のリフレインですので、解説は割愛します。が、しかし。15小節目4拍目の最後に生じている7連符の [dis] 音は、実質的には直後の [e] に装飾音として架かる後打音です。Doricoは小節線を飛び越して後打音を表す事が非常に容易に行えるものの、この後打音のタイミングが7連符として非常にピッタリな所を奏していた為、敢えて装飾音符として埋没しない様に7連符としての音である事を明示的に書いたのであります。

 また、16小節目で注目してもらいたいのは、本小節ではコードが「F△9(13)」なので、先行和音「G7」からするとⅤ→Ⅳの弱進行なのであり、西洋音楽ではなかなか類例のない生煮え感を生ずる物であり、戸田邦雄も洗足学園の紀要論文である『V-IV進行についてのノート (和声学教授上の一問題点に関する検討)』〔洗足論叢 11 101-124, 1982-12-20 洗足学園音楽大学〕で論述している程です。

 残念乍ら上掲論文は、ネット上にてオープン・アクセスにはなっていないので、公共図書館経由で国立国会図書館の複写サービスを使用した方がベターでありましょう。余談ではありますが国立国会図書館はこの程、複写サービスを従前の複写&郵送だけではなく、2025年2月20日からPDFデータでも利用可能になるとのことで、興味のある方は最寄りの公共図書館を通じてサービスを使えば直ぐに閲覧が可能となりますのでご利用をお勧めします。

 先の16小節目で生ずる「F△9(13)」は先行和音「Ⅴ」から見ると「Ⅳ」という弱進行でありますが、その後の17小節目のEm7を見る限り、実質的には平行短調の「♭Ⅵ→Ⅴm」という動きになっているとも思えます。

 短調というのは、特に自然短音階(=ナチュラル・マイナー)の情緒である《Ⅴへの下行導音の強調》という事で生ずる「♭Ⅵ度」の存在が肝であるのですが、西洋音楽では20世紀に入り「旋法的」な柔和な状況を是認する変化が現れる様になりました。つまりそれは、「Ⅴ7」が包含している第3音が音階音組織の導音としての「♮Ⅶ」ではなく「♭Ⅶ」の方を維持するという事です。

 つまり、ムシカ・フィクタという可動的臨時変化を避けるという事が旋法的世界観に寄るという事となる訳でして、本曲では小節を各小節だけで捉えるばかりではなく少し大きく見ると、こうした状況へスルリと姿を変えているであろうという仄めかしが見えて来るのであります。

 無論、旋法的な状況が18小節目の「Em7」で待っていたとしても、先の「Ⅴ→Ⅳ」という弱進行の存在感に変化が起こる訳ではないので、18小節目がどうであろうと弱進行の持つ生煮え感が消える訳ではありません。

 そうして同小節では後続和音として「A9」というドミナント9thを生じるので、自ずと [cis] =「C♯音」を生じます。これにより19小節目先行和音「Dm9」への進行に弾みが付いている訳ですが、その直後には平行短調側の世界観を思い出すかの様に、しかも今度はムシカ・フィクタ(可動的臨時変化)を纒って「E7(♭9)」を生じて、調的な揺さぶりが大きくかかります。ですので、短調の雰囲気が存分に薫って来る状況となっているのがお判りになろうかと思います。

 20小節目では最初に「Am9」が現れる事により、原調の平行調であるイ短調(Key=Am)への道筋が強固に現れている事を示しています。そうして3・4拍目では1拍ずつのコード・チェンジで「G9 -> C7」に副次ドミナントが連続して現れている所が特徴的でもあります。

 私は今回の譜例動画最初のアップ時に、同小節4拍目5連符での [f] 音を付しておらず、そのまま次の21小節1拍目拍頭 [g] を表しておりました。実は、この5連符の [f] 音は、長後打音というニュアンスで次の拍頭 [g] へスラーが架かる表現を表しているのですが、後打音そのものが結構長めの音価を取っているのがオリジナルであるのですが、後打音たる装飾音符の付記そのものを忘れてしまったおり、それであらためてアップする時には装飾音符として表すよりも5連符の歴時の方が相応しいとなり、この様に変更する事となった訳です。

 21小節目では「F△9」へ進行して、過程での複前打音が印象的な部分であります。本小節の3・4拍目ではコード・チェンジがあっても良さそうなのですが、旋律だけは変わっても伴奏のコードは変えていないという状況です。

 私ならばメロディーはそのままに、3・4拍目には「Fm△9 (on B♭)」または「Fm6(♭5)」(※この場合、メロディーに [e] 音を含むため「Fdim7」とはなりません= [f] からの6度が [d] であり、[f] からの7度音であるが故に)を挟みたくなる箇所でもあるのですが、耳を凝らしてどう聴いてもオリジナルの方では「F△9」のままでメロディーに揺さぶりをかけておりました。

 私の個人的な思いはどうあれ、22小節目での「Em7 -> E♭7」を経ての「Dm7」は非常に綺麗であり、極上のハーモニーとメロディーの部分であろうかと思います。無論、本曲のフル尺を私は知らないのでありますが、曲がトニック、ドミナント、サブドミナントの諸機能を旅して、その上転調を介する事で楽曲としては回り道を多く行き交い乍ら帰結しようとしている重要な流れの極点を見せている状況であり(※「調性プラン」と呼ばれます。英語圏では 'Tonal plot' とも)

 尚、23小節目での「Dm7」の鍵盤パートの左手は、先行和音「E♭7」の左手七度から完全八度へ広げてのヴォイシングとしており、これは本曲にはないヴォイシングですが綺麗に馴染む様に配慮しました。
 24小節目の先行和音はドミナントを中和して「F/G」(※実質的には属十一和音ですが)を介して「G7」へと進んで、楽曲は取り敢えず茲で一旦のリフレインとなります。「G7sus4」とはせずに「F/G」としている所もサブドミナントとしての余薫(※「E♭7」からの絶妙な進行)を長く味わいたいという感じが伝わって来るコードであろうと思います。


 斯様にして本曲の楽曲構造をお判りいただけたかと思いますが、15分に満たない番組本編にて長くても70秒に満たない尺で聴かせている寛ぎ感のあるBGMが実は結構な存在感を出しているのが微笑ましいと思います。『DAIGOも台所』を観て似た様な寛ぎ感を抱いている方で器楽的な心得のある方に、あらためて堪能していただきたい曲という事で解説と譜例動画を用意したという訳です。あらためて番組に注視していただければ之幸いです。