エフェクティヴに捉える微分音に於けるポリクロマティック社会
ポリクロマティックとは《複数の音律が併存する》事であり、それぞれが全く異なる音律による併存もあれば、同一の音律が異なる基準ピッチで併存するという状況もあります。
仮に、異なる基準ピッチとしての十二等分平均律(12EDO=twelve tone Equal Division of Octave)が2種類存在したとしましょう。ひとつがA=440Hzとしてのもの。もうひとつがA=427.5Hzとしてのもの。
各々の音律は12EDOであるものの基準ピッチが異なって併存している為、両者を俯瞰して確認すると、24EDOと同じ状況として見立てる事も可能となります。これは、音程の最小単位として四分音(50セント)による単位音程と同等となるからであります。
12EDOでの半音階を顕著にする音楽ですらも人によっては複雑な音社会として耳にするでありましょうし、24EDOという四分音律の状況はより一層複雑な音楽的社会観であると言えます。
ポリクロマティックを見るに際し、それが「ポリテンペラメント」とも呼べる様な状況で最も広く知られているであろう実例が、ガムラン音楽に用いられる2種の音律「スレンドロ」と「ペロッグ」の例であります。
スレンドロは五分律であり、ペロッグは七分律です。「等分」律とまで表現しない理由は、各音程が不等分であるからです。両音律とも音梯間は不等分であり、それぞれの音律には多くの傍流が存在します。ガムラン音楽に於て謬見が伴うのは、これらの両音律が互いに単独で使われるかの様に各音律を紹介する物ですが、ガムラン音楽とは「ポリクロマティック」なのであり、スレンドロとペロッグという異なる音律(5音律+7音律)の《12音から音を抜萃》して楽音を形成する音楽です。
言うなれば「スレンドロ・スケール」や「ペロッグ・スケール」という風な単独で用いたりはしませんし、各音律の姿は音階ではなく音律に過ぎないのです。無論、その音律が音階同等に《律と階》が揃う状況というのは稀に生じるものでもあります。
例えば小泉文夫は、《スレンドロはペンタトニックではなく謂わばペンタフォニックである》という風に分けて考えております。
これはスレンドロという音律が、概念的に音階という形の5音の音階状として示される様な音階的情緒をはじめから具備する音律なのであるという意味で、実はドビュッシーが作り出した全音音階も「ヘクサフォニック」と呼ぶべき分類になるという訳です。重要な点としては、決して「音律=音階」なのではなく、「音律≠音階」という考えを念頭に置くべきであるという所です。
同様にして「ペロッグ・スケール」という風な使い方もされない訳です。ペロッグの場合は小泉文夫風に言えば「ヘプタフォニック」になる訳でして、重ねて言いますが、スレンドロもペロッグはそれぞれが異なる音律であるものの、それらを一絡げにして12音律から抜萃して楽音を形成する物です。ガムラン音楽のこうした大前提は非常に無視されやすいので注意されたい点であります。
音楽を後の時代から学ぶ者ほど過去の体系は同列に見てしまえる側面がある為、往々にしてこうした現代からの初学者の偏った観測は陥穽としてしまいます。加えて初学者に多いのは、音楽に直接関わりのない分野での呼称の側から互いの言葉の上での相違点をほじくり返してしまい、撞着を生む事もあります(※これは新発見なのではなく、取扱う必要のない重箱の隅をつつく様な行為)。
例えば、音律を取扱う際に避けては通れぬ《平均》と《不等分》という語句は、数学的にそれらを厳密に取扱う事と、単なる単称命題として世の中に知れ渡っている表面的な意味合いとして捉える事とでは全く意味が違って来るものです。
オクターヴを幾つかの音に分けて「平均」とした場合、各音梯は総じて等しくあるべきですが、「平均」は単なる標榜の為の物で、音律の世界では各音梯が歪つな「不等分」と成っているいる状況が生じていた事実を知っておく必要があります。
例えば、「12等分平均律」と「12不等分平均律」という異なる2つの音律があったとしましょう。英語圏だとこれらの差別化は非常に判りやすくなります。前者は「12uEDO」後者を「12EDO」という風に。これらに共通する「EDO」という略称は 'Equal Division of Octave' の事を示しており、「uEDO」の場合は 'unequal' という部分が明示的になるという訳です。
一部の団体では「EDO」ではなく「ET」(equal-tone)、「TET」(tone-equal temperament)やらを使っていたりしており、英語圏では等分 or 不等分の状況がすぐに判るのであります。
ところが日本での一部の配慮のないWebサイト上での微分音律の体系では、「EDO」やらの略称すら合理化させて訳文から捨て去り、「24平均律」「31平均律」という風に言葉を短くまとめてしまうという方々に配慮させた訳および略称にはなっておらず、翻訳者の音楽的素養などを含めて懐疑的な内容にしてしまっているのは、海外拠点のXenharmonic Wikiなども頭の痛いタネでありましょう(私は翻訳作業に関与しようとも思っておりません)。
例えば溝辺國光が「31平均律」や「53平均律」などと表題で書かれる例はあれど、それらの音律が等分であるのか不等分であるのかが著書本文で明確になっているので、こういう使用例はまだアリと言えるでありましょうが、古典音律は不等分である事が大半であったにも拘らず、これらの不等分な性質を文章の上から消し去り、等分である事が前提であるかのような、後に学ぶ初学者が学べば学ぶほど迷妄に陥る様な配慮なき訳文が跋扈してしまっているのは嘆息してしまう限りです。
不等分音律に立脚しているからこそ、三度か五度へ阿る作業が採り入れられていた訳で、歴史的には新しいボーレン・ピアース音律(or 音階)とて元は純正音程を重視する「不等分平均律」からスタートしており、今でこそ等分平均律化や旋法化にも成しているのでありますが、これはまあ追って語る事としましょう。
いずれにしても、等分平均律 or 不等分平均律をその場で明示化しない(元の訳から消えている)様な取扱いには是非とも気を付けていただきたいと思います。ネット上で手軽にアクセスできるという事に胡座をかいて黙認して好いという訳ではありませんのでその辺りでの「スタンダード」やらを私のブログ記事と対照させて私の側が読みづらいとするのは御門違いであろうかと思われます。
私のブログ記事の多くが読みづらいのは、西洋音楽の音楽素養・器楽的素養という基礎が脆弱であると途端に読むのが難しくなる為、そうした前提の知識が読み手の脳内でスキーマ形成がされていない方であるとより一層理解を難しくしてしまう訳ですね。西洋音楽での確かな知識があれば何一つ難しい事を述べている訳ではないので、その辺りはあらためて念頭に置いてもらいたい所であります。
扨て、多くの場合、斯様な撞着(等分/不等分)に遭遇してしまう例として挙げられる最たる物が、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(J. S. バッハ=大バッハ)に依る『平均律クラヴィーア曲集』の名称にある「平均律」であります。
大バッハは等分平均律など使っておらず、本来ならば原義通りの《能く調律された》という語句が充てられるべき所を、「能く調律された音律とは等分平均律なのだ」という風に考えられてしまった謬見から生じた語句が今猶日本の音楽界で付いて回るジレンマなのでありまして、まあ、これについて耳にタコが出来る位に音楽を学べば学ぶほど注意すべき事である問題だと聞かされる事でありましょう。
余談ではありますが、J. S. バッハの子であるカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(C. P. E. バッハ)はソナタ形式を確立した人でありますが、奇しくもC. P. E.バッハは等分平均律を使用し且つ支持していたのであり、親子と雖もこれほどの違いがあるという側面も折角ですから知っておいて損はなかろうかと思います。
そうしたジレンマを持ち来してしまうネーミングはいかがなものか!? という議論は古今東西交わされて来ております。近年では『平均律クラヴィーア』のそれを《適正律》という風に呼び方を変えてリリースされた事実もありますが、音楽教育を正当に学ぶ者にとって好い題材でもあるので、その《平均律クラヴィーア》というネーミングが反面教師の様に取扱われている事もあり、却って正しさが広く彌漫しないという状況が長らく続いているのが現実です。
但し「不等分平均律」という呼び方は、西洋音楽の歴史に於て是認しうる表現なのでこれはこれで有りなのです。撞着する表現かもしれませんが、不等分平均律という各音程が歪つとなる音律は音楽の歴史上実際に存在し使用されて来ました。
西洋音楽の歴史上、最も長らく使用された音律は『中全音律(ミーントーン)』なのでありますが、この中全音律とて『正則中全音律』の他に変則体系の中全音律が後年使われていたのであります。正則と変則がどういう風な変遷を辿って来たかという事も皮相的理解に及ぶ人はそこまで知らないかと思います。
それは扨措き先述した様に、不等分平均律に括られる古典調律のそれは結果的に、
《五度もしくは三度のどちらを優先するか!?》
という点に大別する事が出来、それらの折衷として結果的に「等分平均律」となったのが今日の12EDOである訳です。
それらの逡巡は、純正完全五度と純正長三度のどちらを重視するか!? という事であり、古典音律はどちらかを優勢に採っているのです。そのどちらも優勢にしようとしてしまうと結果的にどちらの純正を棄却せざるを得ず、その結果全てを均一にする《等分》平均律となるという訳です。
ガムランに於けるスレンドロとペロッグの取扱いで見落とされがちなのは、それらの音律を併存させて用いる「ポリテンペラメント」と呼ぶべき状況を前提として用いる所です。これは結果的にポリクロマティックに括られる事になるのですが畢竟するに、五分律を用いるのでなければ七分律を使うのでもなく、両者の折衷から音を任意に選択して奏するというのがガムラン音楽の前提なのです。
こうしたポリクロマティックの状況のメリットというのは例えば、四分音を意識し、そこで新たなる四半音の世界観での超半音階という微分音の世界形成を試みる事よりも、単に《異なる基準ピッチから生ずる音律の併存》で形成される12半音階を用意し、それらをまとめて俯瞰して見た時に偶々四分音の単位微分音として捉える状況を試みる方が微分音の取扱いとして容易なのであり、其々の半音階を駆使して併存させた方が綺麗な響きに容易にアクセス可能であるという所にあります。
ジェイコブ・コリアーの手法のひとつにもこうしたポリクロマティックの脈絡で微分音を出現させたりもしています(※ジェイコブ・コリアーの微分音の使い方はポリクロマティックのみに留まりません)。
加えて、ポリクロマティックな状況で生じさせる和音は、ひとつ音律から生ずる半音階組織から形成するポリコードよりも、複雑かつ色彩に富んだ和音を形成させる事が出来る事もあり、ひとつの音律から見れば全くの埒外となる音が色彩的に溶け込んでいるという状況も容易に形成させる事ができるので、ある意味では半音階社会での凝りに凝ったポリコードよりも興味深い「色彩」の和音を形成する事が可能でありましょう。
重要なのは、ポリクロマティックの状況下でどのような音程関係のポリコードを形成すれば色彩に富んだ和音を駆使できるのか!? という所にあります。無論今回は、そうした例を挙げて行く事となります。
それでは先ず、ポリクロマティックとして、単一の音律が複数存在する状況を俯瞰する様にして結果的に「四分音」を招く状況を念頭に置く事としましょう。
四分音という状況をそれほど難しく捉えずに、2つの異なる基準ピッチによって生じた半音階が併存する状況を考えた時、それぞれの半音階に対して異名同音(※12EDOでの半音階)に固執しないのであるならば、その俯瞰される状況というのは純正完全五度を24回累積させる様に捉える事も可能であります。
純正完全五度を24回積み上げた結果として合計された音程をセント数で表すと「16846.9200207…」セントを生じ、15オクターヴ=16800セントとの差「46.9200207…」セント(※ピタゴラス・コンマの倍の数値である)という近傍値が四分音律で生ずる単位微分音=50セントと近しくなる状況でもあるので、異名同音としての丸め込みをしなければ然程遠くはない音脈であるという事が判ります。
とはいえ、そうした状況でも人によっては《24回も調域を累積させる状況を「近しい音脈」などと強弁できないだろう》と反論の声を挙げる人も存在するかもしれません。
然し乍ら純正な音程を最終的に狙うのであれば、ピタゴラス・コンマでも看過できない程《大きな音程》でありましょう。今回は微分音(四分音)を取り扱おうとしているのです。音痴な音としても実感させる事のない様に。
12等分平均律での半音階を駆使する状況に手慣れた人であるならば、現在地となる調域をわざわざ12回累積させて漸くその世界観にアクセスしている訳ではなく、古典的な全音階の取扱い(ピタゴラス・コンマを累積させてコンマを生むという古典的な状況と比較)を忌避しているからこそ容易にアクセスしているのであるので、調性に靡き乍ら遠回りしてやっとの事で半音階や四半音にアクセスしている状況とは全く異なる訳ですので近しい人には非常に近い音脈であるのです。
異なる半音階音組織同士のそれら──各半音階音組織下で生ずるコード──の形成は、両者が半音階体系であっても少なくとも「コード」という体系で捉える事が可能な構成音で形成されているので、調性的に耳に馴染む構成音に別の系統(主とする側からは埒外)が付与される事で色彩感が増す事になるのですが、全音階的な調性の情感にまで靡く必要はないでしょう。
即ち、異なる半音階音組織がそれぞれの主従関係としてどちらに隷属させるか否かなど無関係(どちらかの支配下にある様に響かせるならば《調》という強い卑近な牽引力に靡く事となる)ではあるものの、どちらか一方に対して主たる基準を設けない限りは説明が冗長となるので主とすべき基準、或いは《原調》としての基準を仮想的に措く事がベターでありましょう。
原調の側に耳に馴染みやすい和音(概して完全八度以外の完全音程を有する和音)を用意した時の別の調では《アヴォイドを有する和音》を置いた方が功を奏する事でしょう。
そのアヴォイドは、ひとつの調域だけで見れば響きを疏外する音が付与されているに過ぎない物なのですが、複数の調性をひとまとめに取扱う状況とでの《アヴォイド》とは在って無い様なものであり、異なる状況での世界観を言い換えるならば新たなる分子構造の為のレセプターとして変容する物です。こうした、調性の世界で腐心していた事を一旦措きつつ、その後の世界観獲得の為の「操作」を前提とする事で、容易に微分音を用いたポリコードを生む事にも繋がるのです。
通常ポリコードは、各和音を単音程の転回位置に還元して配する様に見立てる物です。例えば長三和音(メジャー・トライアド)同士の長二度/短七度音程での配置として [c] を基準にすれば
C△/B♭△ または D△/C△
と表す事が出来る訳です。
R・シュトラウスに依る「エレクトラ和音」などはポリコードの最たる例の一つとも言えますが、興味のある方は私のブログでブログ内検索をかけていただければお判りいただける事でしょう。特にドミナント・シャープナインス・コードを知っている方ならば、もう一歩理解を進めてエレクトラ和音の世界へ到達すべきでありましょう。
加えて、異なる基準ピッチ同士の半音階音組織を想起する事は、それらを俯瞰した時に微分音をも呼び込む状況を容易に用いる事を可能にする方策のひとつであるのですから、そうした異なる基準ピッチでの半音階音組織の併存状況では、12EDOでは見られない音程を視野に入れてのポリコードを形成する必要があろうかと思います。
そこで四分音律を例にしますが、微分音を積極的または明示的に用いようとしていない楽曲であろうとも、12EDOとは埒外となる音が出現する曲は実際には非常に多く存在するもので、それら全てを茲で列挙する事はできませんが、孰れにせよ微分音が明示的に生ずる四分音律としての音程というのは、12EDOでの半音階音組織とは異なる音程、即ち「中立音程」が生ずる事になります。
一部の英語圏の方では、全音音程よりも広い音程で生ずる微分音的な中立音程を 'macrotonal'(マクロトーナル)という語句を充てて差別化を図っている所もありますが、それは音楽界および学会で広くオーサライズされた言葉ではありません。
結果的にそうした「大きな音程の微分音」は音律由来(オクターヴを跳び越す螺旋音律=直線平均律法も含)へ括られ、先行研究となる小泉文夫の「フォニック」も蔑ろにしてしまいかねないので、一部の団体だけが用いる用語を使用する事は避けます。
全音よりも大きい半音階の基準とは異なる音程のそれを私は「中立音程」として括って述べる事にしますので、その辺りは注意をしていただきたいと思います。
扨て、異なる基準ピッチ、或いは異なる音階体系を併存させるという事を《取扱いには手をこまねく突飛な状況》と思えるかもしれませんが、ガムラン音楽というのは2つの異なる音律からの抜粋で音階が形成されています。五音律のスレンドロと七音律のペロッグ。これら2つを合わせて両者からの抜粋で音階が形成されているのが特徴です。
先述した様に、能くスレンドロとペロッグの其々は特殊な五音階および七音階と称される事もありますが、先の通り、小泉文夫に准えればそうした「五音階・七音階」という表現は不正確であります。なぜならば音階とは音律からの拔萃であるので、音律と音階が一致してしまう状況を音階と称するのは不正確となるからです。あらためて念頭に置いてもらいたいのは、《音律の情緒≠音階の情緒》であるという事です。
全音音階にしろ本来、ドビュッシーは凡ゆる音楽感が音律に吸着されてしまう様な効果を狙っていたのであり、決してドミナントの箇所限定で使う訳でもない物でありましたが、所謂ホールトーン・スケールを用いた楽曲は、それらのほぼ多くがドミナントの箇所にてドミナントの変化音(オルタード)を利用した情緒かトニックの彩りに酩酊感を催す様な効果で使われてしまう例が多く存在するに過ぎぬもので、音階の情緒ではなく音律へ吸着されてしまうという様な状況をドビュッシーが企図していた事を今一度思い返していただければと思います。
また、スレンドロ、ペロッグの両音律は孰れも厳密には「擬似オクターヴ」と称される絶対完全八度を僅かに超える音律で形成されており、W.A.セサレス(以下セサレス)の研究に依るスレンドロは1208セント、ペロッグが1206セントという前提で研究が為されております。
斯様にして、1200セントというオクターヴの5等分・7等分という風に安易に考えてしまう事を避けるべきである事に加えて、スレンドロという五音律は音階としてのペンタトニックなのではなく「ペンタフォニック」と呼ぶのが正確な表現なのであり、同様に七音律のペロッグも「ヘプタフォニック」と呼ぶのが正確な表現なのです。それらのペンタフォニックとヘプタフォニックが併存と成した組織から拔萃される音がガムラン音楽の実際なのです。
異なる基準ピッチの半音階同士で得られるポリコードとやらを、例えば完全四度と増四度の中間となる四分音梯、ヴィシネグラツキー流に言えば「長四度」という550セント(☜中立音程のひとつである)忒いに生ずる長和音のポリコードを想定した場合、原調での長三和音のそれを「Cメジャー」となる時もう一方は「Fセミシャープ・メジャー」を生ずるという訳です。
なぜオクターヴが1200セントではない状況があるのか!? というと、楽器の材質・形状などの要因で、その楽器固有の物理的振動の「協和」という状況が、通常の完全音程の状況とは全く異なる例があるのでして、概して金属を用いた時の材質・形状というのはオクターヴ回帰とは全く別の螺旋律が存在します。
木琴や鉄琴にも螺旋律は併存しておりますが、通常のオクターヴ回帰をする音律として協和する音を《優勢に》響かせる様に作られるので、通常の樂音の使用に耐えうるという訳です。三味線や箏とて螺旋律を包含しています。
しかもピアノですら、第2次倍音(=基音より1オクターヴ上の音である)は本来あるべき絶対完全八度よりも僅かにずれて《安定的振動》を出してしまいます。ピアノ構造の上では安定的振動であるものの、耳には矢張り非常に厳密には僅かに揺らぐ「うなり」を生じます。第24次倍音など相当はぐれた所が鳴っているものです。
前述の「優勢」というのは、実に人間にとって都合の良い物でもあり、楽器の構造的な側面から甘受しかねない状況もあれば、音響測定レベルでの音波を取扱うミクロレベルでの好都合的解釈での状況もあったりします。
兎にも角にも人間とは好都合的解釈で音を丸め込んでいる状況が多々ある物です。それは聴覚器官から入った音を脳が更に「脚色」しているからなのであるのが理由であり、脳は聴取者各人の経験に基づいて耳にする音を実際の姿とは変えて歪める事が多々あるものです。
例えば、音楽に数学や科学的側面を組み込んで考えざるを得ない時、その厳格なまでの数学的取扱いが音の物理的な姿を脳が変えてしまう事はあまりに無力であります。音痴の人が歌う音高は非常に音程跳躍が狭く、自身の発声の都合の好い所で歌っているのですが、彼等が耳にする音高は歪められているのではありません。楽音の音高のみならず、話し言葉での疑問文でのアクセントの変化などもきちんと聴き取っているにも拘らず、発声する音が歪められるのです。
人間が楽音を捉える際、脳の側は《空間認識力》を使って聴こうとしていると言われます。聴覚器官からすれば不要なプロセスなのでありましょうが、脳では最終的にこうしたプロセスを経ると言われます。
実は、音痴の人はこうした空間認識力が乏しい場合に現れると言われています。しかも空間認識力には性差があり、空間認識力に乏しい音痴の人は男性よりも女性の方が多いとも言われます。この空間認識力に加え音高聴取というのは非常に近しい物で、経験差によって大きく変化すると言われている物です。
まあ、判りやすく喩えるならば、現今社会に於けるCPU演算がグラフィックであるGPU演算をも利用して高処理を得ているのと同様であるとも言えるでしょう。
よもや人間の楽音の聴き方というのが、単に聴覚器官での音高知覚のみならず、その後の空間認知が大きく鍵を握っているというのは思いもよらない事であろうと思いますが、'amusia', 'Tone-deaf' などで関連論文を検索すると非常に興味深い研究がある事がお判りになろうかと思います。'Amusia is associated with deficits in spatial processing' (Katie M. Douglas, David K. Bilkey 2007 Nature Neuroscience, DOI: 10.1038/nn1925) は非常に興味深い論文です。
他にも、'Varieties of Musical Disorders: The Montreal Battery of Evaluation of Amusia' (Isabelle Peretz, Anne Sophie Champod and Krista Hyde 2007 Annals of the New York Academy of Sciences 999(1):58-75, DOI:10.1196/annals.1284.006) なども大変興味深い研究ですので参考まで。
扨て、微分音を取扱う上で《協和音程の複音程化》および、その《複音程の等音程分割》という方策はとても重要になります。例えば「完全四度」という、調性の側からすると最も低位に扱われる完全音程の協和音程ですが、12EDOの単音程のサイズである500セントであるそれを複音程へ還元させれば、次点で生ずる複音程の場合は元の音程に1200セントを加えれば良いので「500+1200=1700セント」という複音程を想起する事が可能となります。
次に、1700セントという複音程を《等音程分割》してみる事にしましょう。仮に2分割を想定すると単位音程は850セントとなり、これを《微分音を配する為の分水嶺》として利用する音程とします。
単音程である500セントを得ていた時は、主音と下属音との音程を想定していて得られていた音であり、同様に主音からの音程を見出す事が可能な様にして、原調の主音から上方に対して《短六度と長六度の中間》となる四分音律上に850セントとなる中立音程としての脈絡が定まるので、茲に「Cメジャー」とは別に「Aセミフラット・メジャー」という長三和音を新たに置くと、四分音を視野に入れる事となるポリクロマティック・コードが生まれるという事になるのです。
先の様な「分水嶺」は幾らでも想起する事が可能ですが、最良の手段としては「協和音程の複音程化」という所にあります。
そこでの《協和音程》が意味する事というのは、オクターヴと同度を除いた完全音程(=完全五度および完全四度)を筆頭候補として使用するという事であり、次点で《不完全協和音程》である長・短の三度/六度も想起しても良いでしょう。
唯その場合、不完全音程を視野に入れる以前に、用いる音程が不協和音程にはならない純正音程を視野に入れると、非常に多様で響きに富む音脈を呼び込む事が可能となります。そうした例として挙げられるのが自然七度(しぜんしちど)であり、不協和音程であるのに純正的な響きを得られるという単音程の不思議な《純正音程》であります。
自然七度を複音程化すると直近のサイズは自然十四度となります。それは自ずと「969+1200=2169セント」という複音程のサイズを想起する事となり、これを任意の音梯数として等音程分割すると興味深い結果を生ずるので、これに関しては後ほどあらためて詳述します。
扨て、協和音程の複音程化とは異なる興味深い別の脈絡も存在するのであり、完全音程や不完全協和音程に隣接する《微小音程》いうのがそれであり、そうした微小音程を強固な完全音程や不完全協和音と同時に鳴らすと「うなり」というビートを生じるものの、とても「柔和」な揺らぎを得る物であります。
古くから知られる「グレイヴ(grave)」という音程があります。主音から上方に数えた場合680セント付近に生ずる物で、純正完全五度から見るとそれよりも低い方に「ウルフ」として聴こえる音程であり、調性社会では避けられた物です。同様に純正完全五度よりも高位に現れるウルフも存在はするのですが、それについては今回述べる事はしません。
手前味噌ではありますが、以下の私の譜例動画デモでは、グレイヴを複音程に引き伸ばした上で、複音程の等音程分割と共に用いている音を聴く事ができます。これが耳障りなウルフとして聴こえる方が居られる場合、是非とも私にお声がけして下さいます様お願いします。
上掲デモのタイトルには《九全音》という1800セントを明示しているのですが、元は三全音を複音程化してはいるものの、脈絡としては「1200+600セント」と単音程の時の不協和音程を固執して考える必要はなく、もっと柔軟に「1800セント」を捉える方が好いでしょう。
複音程化しよう物ならこれ見よがしに、1800セントを「700+1100(完全五度+長七度)」或いは「969+800セント(自然七度+短六度)=1769セント」という1800セントとの四分音的な近似値へ均されると解釈しても好いでしょう。後者は特に、「協和音程+不完全協和音程」とは異なり「純正音程+不完全協和音程」という脈絡で微分音を使っている訳であります。
こうして、完全音程を純正音程に変えて使うという方策にする事も可能であり、これは《純正さ》を利用して用いているという訳である物です。そうする事で、等分平均律的な脈絡よりも響きがより純正ですので、生硬さが無くなり、より響く音を導く事にも繋がります。
半音階での「短二度」または「増一度」という不協和音程を耳にすると速いビート(うなり)が聴こえますが、その速さ故に鋭さが増しており、生硬な音になる物です。しかし、短二度および増一度よりも狭い微小音程はその鋭さが軽減されるので、柔らかなデチューン効果を生ずる物です。
思えばペンデレツキの『広島の戦没者に捧ぐ哀歌』で用いられる四分音による微分音クラスターは、譜面上では塗り潰される黒い音塊のそれが見かけとは裏腹に、蛍光色かの様な色彩感を伴って柔和で「化学的」な音に聴こえるのが不思議な所です。
実際に、四分音のクラスターというのは非常に電子的・人工的にすら聴こえる物でして、柔和なそれがまるでネオンの様な色彩が音となって表現されている様な感すらあるので微分音の不思議な側面でもあります。
微分音という通常の12EDOという尺度からはぐれた中立音程とやらを、ごく平凡な音楽観しか有さない者にとって必要なものなのか!? と疑問を抱かれる人も居られる事でしょう。通常(=調性社会)ならば「音痴」な音脈であるものの、使い方次第では「虚ろ」「卒倒感」「金属音」「非自然的」「環境音」の様なエフェクティヴな音世界にも聴こえるのであり、その音の最たる魅力的な装飾としては前述の通り《虚ろ》に聴こえる事ではなかろうかと思います。
私の過去のブログ記事でも再三再四かまびすしく語っている様に、マイケル・ブレッカーはマイク・マイニエリのソロ・アルバム収録の「I’m Sorry」でも短六度と長六度の中間に位置する中立音程を明確に用いておりましたし、音階上の主音または当該コードでの根音から上方に数えて850セントの音脈を分水嶺として用いるのは矢張り複音程が視野に入っているからであろうと思われる物です。
両曲に用いられる「850セント」という微分音の脈絡が何らかの複音程からの等音程分割だと仮定しますが(せざるを得ない)、そこで真っ先に想起可能な複音程は1700セントというサイズとなります。
この音程は1200+500セント=完全八度+完全四度という複音程とみなす事が可能(これを恣意的な複音程として見れば「1100+600セント」という事でもあるがその場合、何れの音程も不協和音程同士から得られる脈絡であるので候補から棄却される)な物であり、完全四度という調的な世界の側では最も半音階的社会に寄り添う音程を呼び込んだ上で微分音の材料として持ち来しているという状況が見て取れるものです。
微分音を材料とする先駆者達のそれらの脈絡には、聴き手が直ぐに峻別出来てしまう様な所におめおめ存在させていない所にあらためて畏怖の念を抱かざるを得ません。
中立音程というものを調的な側面から見れば、全てが埒外な音脈であるのですから総じて《取るに足らない音》とも思われる人も居るかもしれません(☜多くて当然)。
とはいえ協和音程の近傍で中立音程を用いるならば、完全五度の近傍で完全五度よりも50セント高い音を用いる状況は協和的な重力として完全五度音程の方が優勢であるのだから、その重力に負けかねない中立音程は矢張り「音痴」にしか聴こえないのではなかろうか!? と思ってしまいかねないでしょう。しかし是亦使い方によっては虚ろで甘美な音に聴こえてしまう訳ですから微分音の不思議な所です。
微分音の捉え方については音楽的素養でも相当変化するもので各人各様なものでもありますが、今回私が提示するポリクロマティック・コードのそれは、素養の有無を問わずして音響的に作用する音として聴こえる様に工夫を凝らしてはいるので、微分音はおろか半音階の感得すらままならない様な人にも不思議かつ美しい新たなる色彩として耳に届く様にはしているので後ほど耳にしていただきたい所です。
扨て《調的な重力》とやらに負けじと存在する中立音程は他にも存在し、特に完全一度または完全八度という絶対完全音程と称される音程の近傍に位置する中立音程の存在というのは、その圧倒的に優勢であろう調的重力に負けてしまう程度の存在にしか過ぎないのではないか!? と皮相的理解におよぶ方も少なくありません。
然し乍ら実際には、調的な重力に負けじと美しく響かせる事は可能であるのです。例えば、長七度と完全八度の間に位置する《主音あるいは和音の根音から上方に数えて1150セントに位置する》中立音程をヴィシネグラツキーは「クォーター・トーナル7th」と呼びますが、トーナルに極めて近い所に位置する七度音と呼び乍らも協和からは逸れる、使い様によってはこれも美しく響く音程です。これも後ほど例示する事にしましょう。
茲でひとつ、誤解して欲しくない事があるので注意喚起として述べておきます。これまでの文中にて私の表現する言葉の《美しい》という表現は単に私の主観でしか無いので、その美しさとやらが他の方が受け止めるそれとは全く異なる筈なのに、私の主観で意思決定をするのは本来なら好ましくない表現です。
私の意図する《美しい》という表現のそれは、通常ならば《音痴》として聴こえかねない音脈ですら固定概念を払拭可能なほどに受け止める事のできるであろうという状況を、聴取者個々人の先入観とは裏腹に心地よく受け止める事が可能という推測の下で《美しい》と表現しているだけに過ぎないので、その辺りは誤解なきようご理解願いたいと思います。
それでは、ポリクロマティック・コードの例として私がYouTubeの方にアップしているふたつの譜例動画を元に解説して行く事に。まずは「12&24EDO」について述べて行く事に。
このデモ曲は雅楽『越天楽』を引用しつつ、冒頭2小節から16分音符のシーケンス・フレーズで始まる「E♭m7(11、13)」という、長九度オミット型の副十三和音──いわゆる不完全和音(※不完全和音とは3度音程で充填されない構成音を生ずる和音)──でもあり、仮にこの不完全和音の和音構成音が満たされていない長九度音が充填されれば完全な「ドリアン・トータル」という、長音階上のⅡ度をルートにした全音階の総合という総和音の型ともみなす事が可能な和音となります。
先の「E♭m7(11、13)」が3小節目では「F♯△/E7sus4」と進み、4小節目では「Fm7(13)」という風に推移しています。中でも3小節目での「F♯△/E7sus4」は12EDOの状況下でも複調状態のポリコードとなっており、複調が更に微分音社会を誘引しようとしている事となります。
ポリコードとしてではない単一の調域に生ずるコードのそれも、属和音以外の「副和音」が三全音の包含を忌憚なく用いているという状況も存在しうる事を勘案すれば、決然と調性に対して靡こうとはしていない強い意志の表れとも解釈しうる状況であるので、その調域でのコードが、複調を視野に入れたり或いは「調性の強い呪縛」を暈滃させる為に微分音組織をも誘っている状況がある事を考えれば、微分音の取扱いを楽に考える事が可能だと思います。
所謂「○○トータル」と呼ばれる全音階の総合という和音は、[ドレミファソラシ] の全ての音が和音構成音として充填されている状態なので、機能的にはトニックもドミナントもサブドミナントも全部混ざっている状況でもあります。
そこに如何なる全音階上の音度= [I, Ⅱ, Ⅲ, Ⅳ, Ⅴ, Ⅵ, Ⅶのいずれか] をルートとするコードとした所で、それは必ず三全音を包含する構造となっております。
そうした構造に於ける調的社会観を強く押し出す側からすれば、全音階の総合となる和音は結果的に、属十三和音の転回形として根音を取り違えただけと判断する事もあるものですが、これは調性という強い呪縛に靡いた時の見渡しでしかありませんので紋切り型で遵守する必要もないでしょう。
全音階の総和音の中で最も調的な呪縛から解放されやすい型は、下属音をルートとする時のリディアン・トータルであります。この和音にはアヴォイドとする音が現れないので和声的には安定したまま三全音の包含をするだけの状態である訳です。
同様に、全音階の総合を下属音を基準にした時は、中心軸システムを視野に入れ乍ら「等音程」という音程分割を12EDOの世界でも用いる事が出来ます。
これは、ハ長調の下属音から基準にした時の例を参考にすればお判りになる様に、[ファ・ラ・ド・ミ・ソ・シ・レ] に内含される三全音 [ファ・シ] は自ずと《複音程》へ引き伸ばされる因果関係に依り、全音階の総合としてその地位をぎりぎり保ってはいるですが、12EDOどころか微分音社会にも影響を及ぼす因果関係に近付くという意味でもあるのです。
12EDOに於てセリー(=十二音技法)とは異なる操作で半音階もしくは超半音階(微分音)を誘引しようとするのであるならば、三全音を大前提として積極的に用いる事になりますが、調的に三全音を利用しようとするとドミナント・コード感を強くしてしまう為、ドミナント・コード体系とは異なる誘引材料で半音階組織を呼び込もうとする為には何らかの恣意的な操作が必要となります。そうした事から下属音を基準にした全音階の総合を措定する場合、
●三全音を念頭に置く
●中心軸システムを視野に入れオクターヴの等音程=すなわち短三度等音程を念頭に置く
●1オクターヴを「完全五度音程×12」として見做す。完全五度を「V」とした時の「12V」を念頭に置いた時、「12V÷4」=「3V」=「1オクターヴ+長六度」というサイズの単位音程を考慮に入れる
●単位音程は3・6・9・12Vという風に12EDOの中で考慮に入れる事が出来るので、これらが中心軸システムに合致しているのは自明
これらの前提を念頭に置いた時、下属音から「6V」となる音程は三全音ですから、長音階基準では導音の位置になる事を示し、これを新たな基準として「V」或いは「1/V」という音程を堆積(※「1/V」は自ずと陰影分割となるので完全四度である)させて半音階の脈絡を得るという訳です。
更に約言すれば、[c] を基準とした下属音 [f] の三全音 [h] を新たなる基準とみなして、そこから完全四度を「1/V」として用いれば [h・fis・cis・gis・dis・ais・eis (f)・his (c)・fisis (g)・cisis (d)・gisis (a)・disis (e)] を生むという事を意味します。
即ち、12EDOの世界でクロマティシズムを強化するには「12V」という音程を完全四度で砕く事が半音階的社会を呼び込む材料となりうるので、完全四度堆積のクォータル・ハーモニーが半音階的社会と近しい関係になるのはこうした因果関係が備わっているからであります。
そうした方策から《導音》の位置を全音階と半音階との分水嶺と見立て、更には導音から完全四度を体積させたクォータル・ハーモニーを得るという脈絡を用いる事ができる様になるのですが、私は導音を基準にクォータル・ハーモニーを形成する時は、完全四度を上方ばかりに積むのではなく下方にも累積させます。これについては以前にもブログで語って来ている事なので、完全四度をキーワードにブログ内検索をかけていただければ当該記事を見付けて来れるでありましょう。
更に、微分音という社会にまで視野を拡大させた時、先の「12V」という完全五度音程を12回堆積させたオクターヴを等分割させる単位音程「3V」を例に挙げれば、その「3V」を更に2等分すれば「2100÷2=1050」という風に、短七度と長七度の間の中立音程を分水嶺として見てコードを充てる音脈を得る事にも繋がる事にもなるのです。
勿論、等分割の数は任意に用いる事が可能なのでありますが、その数が多過ぎても机上の空論になりかねないので、概ね「2〜9」以内に分割する位に留めておいた方が使いやすかろうと思います。私の場合は「5等分」以内で使う事が多いですが、色々試されると好いでしょう。
斯様な《オクターヴ》或いは《任意の協和音程・不完全協和音程》を複音程化して還元する方策というのは日本語では上手い事言い表す事ができないのですが、セサレスは更に進んでおり、「12V」を700セントという平均律完全五度の12回の累積と捉えず《純正完全五度を12回累積》させた──即ちシントニック・コンマを備えた──構造を《擬似オクターヴ》と呼んで解釈した上で、それを1200セントの近傍と扱い乍ら、1オクターヴのサイズを1224セントとして還元した上で、擬似オクターヴを音程分割の為の基準として用いる方策についても述べております。
結果的に1224セントを54等分すればトルコの九分音を生むのであります。余談ではありますがトルコの53平均律という53単位音程は「53」単位音程=《コンマ》が現代社会のオクターヴに位置するに過ぎず、実際には54コンマを標榜しているので、オクターヴを超越する訳です。
シントニック・コンマよりもピタゴラス・コンマよりも僅かに広いホルドリアン・コンマと呼ばれますが、トルコの九分音はそうした背景があるという事を知っていただきたいと思います。彼らの場合、オクターヴを跳越しても問題はないのであり、音律という分類が本来標榜する54単位音程を53単位音程というサイズに狭めて分類した方が合理的な分類となる、という風にされているだけだという事です。
これまで述べている《複音程への還元》という言葉も、不完全協和音程を含む純正音程或いはオクターヴ=1200セントという所を1224セントという値へ変換すれば、更に面白い微分音の音脈を得られるという訳です。
無論、私個人としては微分音の導引については色々な方策を試みており、今回はあくまで一般的にも解りやすい様に、オクターヴを跳び越す擬似オクターヴではなく、1200セントという完全音程を基準に微分音やらの複音程還元を語っているので、あらためてその辺りは誤解なく理解していただきたいと思います。
扨て、ドリアン・トータルはリディアン・トータルの次点として調性の呪縛が弱い総和音であると言えるでしょう。ドリアン・トータルという、全音階上では [レ・ファ・ラ・ド・ミ・ソ・シ] を形成する和音もリディアン・トータル同様に三全音が複音程へと引き伸ばされている構造となります。3度音程を堆積させる他の全音階上の総和音ではこうした三全音の複音程化は起こり得ません。
加えて、ドリアン・トータル上で生ずるマイナー・コード上での「♮13th」音は、そのコード自身の3rd音と三全音を成立させる事により、重畳しい和音の堆積はジャズを標榜し乍らもその実、機能和声を基本としてアヴォイド扱いとする撞着を招くのは滑稽な体系でありますが、真に調性に靡いての判断であるならば短和音というのは全音階的(ダイアトニック)に三度上方にある長和音の機能を代理するという所まで視野を広げなくてはいけません(※Ⅱ度上に生ずる和音は、その三度上方=Ⅳ度の和音機能を代理=カウンター・パラレルというのが調的な原則)。
即ち、リディアン・トータルが包含していた三全音が和音構成の上からアヴォイドを形成せずに安定的な所から調的な呪縛から「ほぼ」解放される振る舞いを見せている事に隷属している状況でもあるので、リディアン・トータルの次点としてドリアン・トータルで持ち来たされる「♮13th」という物は調的な意味でもアヴォイドを希釈させると判断可能な物なのです。
過去の私のブログ記事でも書いておりますが、リディアン・トータルとドリアン・トータルの両者が包含する三全音のそれに対してそれほど強く忌避する必要がないという理由は、和音の基本形の状態に於て三全音は複音程化されるからです。
つまり三全音ではなく「九全音」という「1オクターヴ+三全音」という音程の姿へ「希釈化」され、上音に3つの長三和音( [ファ・ラ・ド] [ド・ミ・ソ] [ソ・シ・レ] = [4・6・8] [7・9・11] [11・13・15] を連鎖させている構造なので、上音の存在も際立つからでもあります。
そうした《希釈化》という言葉にピンと来ない方も居られるのは重々承知なのですが、音程比として何某かの因果関係を念頭に置いた上で生ずる「高次」の数値というのは、それよりも低次となる数を内包する状態に晒されていると考えてほしいのです。
例えば、音程比として生じた「9」という数の音があったとします。音程「8」はオクターヴの相貌の繰り返しとなる姿のひとつですから、それより大きい音程は自ずと「1・2・4」から見た複音程となり、その上で「9」を更にオクターブ相を複ねた「18」という数に置換したと仮定してみましょう。
この複音程化は、もうお判りの様に微分音を成立させる為の分水嶺として導出させた《複音程の等音程分割》のそれに投影しうる複音程化としての姿なのです。
仮に「18」という自然数の値を等しく4分割、或いは5・7分割した時のそれらの音程比として自然数を導いておらずとも、最終的に導く解は小数点で表される「非整数次」となる状況を生み出すという事はお判りいただけるかと思います。
三全音という調性の呪縛として君臨する音程が複音程として引き延ばされる状況は、等音程分割という状況に晒されやすい運命を持つと考えれば判りやすいでしょう。
そうした事から調的な呪縛が希薄となる状況をみるに、一部の全音階の総和音(リディアン&ドリアン・トータル)は半音階的音楽観は固より微分音社会をも視野に入れた脈絡を感じ取る事になんら違和を覚える必要はないという事です。無論、半音階社会に対して一定以上の素養を身に付ける事が第一に必要となるのが前提ではありますが。
とはいえ、私が最初にブログで総和音を語った段階では、とてもじゃありませんがまだ微分音を視野に入れて語る様な順序で話を進めていない訳です。微分音を話題にしようとも楽譜でそれを明示できるのはNovemberフォントくらいしか存在しなかった位です。あとはせいぜい、嘗て愛知県芸大でも教鞭を執られた豪州の現代音楽家アンドリアン・パートゥー氏が独自に制作していた 'Microtonal Accidentals' フォント位しか存在しなかった物です。
そうしてSibeliusの 'Opus' フォントが微分音表記を強化し、Novemberフォントの開発者ロベール・ピエショー氏の功績もあり、Novemberのフォント・グリフ・スロットに倣う形でSteinbergがSMuFL開発を表明し、その後リリースされた 'Bravura' フォントで微分音変化記号は一気に拓けたのであります。そこで待ってましたとばかりにフランスのSymétrie社からパスカーレ・クリトン氏が編纂したヴィシネグラツキーの 'Libération du son' が上梓され、刊行物として微分音変化記号が大手を振って日の目を見る様になったのが2014年の事です。
SMuFLフォントが使われた刊行物を目にしたのは私が知る限りでは最初の書籍であったのですが、ネット(画面)で見るよりも印刷物として見る 'Bravura' フォントの存在感には、印刷物としての視認性が非常に高いと当時から感じたものでしたが、そうした微分音にまつわる背景などをまとめて語る為には順序と時間が必要でもあったのであり、今ではこうして過去を遡って俯瞰して語る事が可能なのでまとめて話題にのぼらせる事が出来るのであります。
扨て本題に戻り、1つ目のコード「E♭m7(11、13)」に異なる基準ピッチの体系の側が四分音律としてみなしうるコードとしてスーパーインポーズされる状況を「原調」の側から照らし合わせてみましょう。
茲でスーパーインポーズされるコードは「Aセスクイフラット△7(♭9、♯11)」という風に四分音律で見る事の出来るコードとなります。
音度を無視して考えれば《メジャー7thコードに♭9thと♯11th音が付与》という6音の和音が、[es] をルートとするコードから見て450セント上方に新たなルートを採るコードがスーパーインポーズされているポリコードという風に見る事が出来るという訳です。
450セントという音程はヴィシネグラツキー流に倣えば「短四度」とも呼べるものですし、他の呼び方としては「スーパーメジャー(supermajor)」という呼び方もあります。後者の場合はハリー・パーチらに倣う呼称でありますが、何れにしても嘗ての「不等分十二平均律」という古典調律が有していた「減四度」の音脈に等しい物です。
ヴィシネグラツキーの呼ぶ「長四度」「短五度」というそれらの名称は、《完全音程からの増減を正しく表していないのではないか!?》と疑問を抱く方も少なくないかと思われます。
然し乍らケプラー以前の時代にまで遡ると、完全音程である完全五度でも「長五度」などという名称が使われていた位ですので、現在の楽典だけの視点で全てを見てしまうのは危険でもあります。とはいえ、これが音楽学の試験であるならば、現代の楽典に則って理解すべきものではありますが、過去の史実も私のブログ記事も試験ではありませんので、その辺りの《幅》を持って音楽の歴史を俯瞰していただければ之幸であります。
先行研究を重んじるからこそ現代がある訳で、先行研究や過去を詳らかにする事で新たなる発見は固より《伝統の異化=defamiliarization / dissimilation》という風にして、先蹤に敬意を払い(=先蹤拝戴)乍ら、現今社会に新たな先鞭をつける研究はあるもので、それは、先行研究の出典を自説の補強の為に使う際に多くの分野でも見られる手法であるので、決して誤りではないのです。
12EDOの社会でも、短調(マイナー・キー或いはドリアン・モード)を基に高次なハーモニーを企図している人々は、主音を規準に音階外で生ずるメジャー3rd音(上方400セントの音)相当の音を「減四度」として用いる事も珍しくありませんが、過去の私のブログ記事でもスティーリー・ダンの「Black Friday」やYMOの「Stairs」での減四度の使用例を示した事があるので興味のある方はそちらを確認していただきたいと思います。
孰れにしても、短調にて減四度という音の出現は突拍子もない音と思われるかもしれませんが、半音階を追求した世界観を巧みに演出するとマイナー上に現れる「恰もメジャー」の音は決して変な音ではないのです。
斯様な例もあり、そうした「マイナー上のメジャー」よりも更に高い所に位置する主音から上方450セントという脈絡は、ある意味で「真なる減四度」という状況でもあり、この450セントという音度が分水嶺と成している時のもうひとつの音組織の脈絡となり、そこで全体を俯瞰するとポリクロマティックとなるコードが多彩な色彩を生じているという状況であるのです。
極言すれば、原調となる12EDOから逸(はぐ)れた音度を基準に新たなる音組織による12EDOでのコードをスーパーインポーズさせれば、不思議な音響効果を生じさせるには十分な響きを得る事と思います。その不思議な響きを「強化」させるという点で重要な要素は、通常の調的な世界観からはアヴォイド・ノートとなる音を添加するのはとても重要な選択となります。
例えば2つの異なる基準ピッチの12EDOを用意したとして、各々の音律の上でどちらか或いは双方にてアヴォイド・ノートを持つコードを鳴らした場合、それらを俯瞰すると異なる次数で生じている倍音としてみなさない限りはそうした音脈を倍音由来の音として判断はできない複雑な響きになるという訳です。
とはいえ、通り一遍のコード構造が何某かの上方倍音由来から整備されている事を鑑みれば、上音との因果関係が無い様な音でも何某かの倍音に近似する様にはなるでしょう。そうした脈絡が低次ではなく高次倍音の脈絡として見られるとは思いますが。
その他の脈絡の場合は非整数次倍音として処理せざるを得ない脈絡であるのですが、オクターヴ内或いは協和的な音程内に生ずる「非整数次」的な脈絡は、その経路が等音程でない限りは、オクターヴをも跳び越す体系に於て生ずる非整数次としての姿として遭遇する事が多かろうと思います。
扨て、茲から四分音の話題が多くなる為、その前提知識のために四分音のドイツ語音名を例示してみようと思いますが、私は過去にゲオルギー・リムスキー゠コルサコフの音名を挙げた事もありましたが、今回はEkmelosフォントを頒布するEkmelic Musicが提示する音名を利用しようと思います。
今一度、先の譜例動画での「E♭m7(11、13)」にスーパーインポーズされる音を詳らかに見ていこうと思いますが、因みに [es] から見た [deh] というのは主音から上方に950セントの音脈であり、この音程は長六度と短七度の間の四分音梯として現れるものです。
それは自然七度≒969セントの近傍として多用される四分音でもあります。ヴィシネグラツキーも24EDOに於てはこうして丸め込みで自然七度を解釈しているので、私の好悪で判断している脈絡なのではありません。この950セントというサイズを複音程に還元して、1900セント「完全八度+完全五度」を得つつ当該音程を等音程分割しているという脈絡という風に見立てるという訳です。
同様の等音程分割の脈絡は他にも見られ、[es] から見た [gesih] は長三度と短三度の間にある350セント相当の位置するもので、これは一般的に中立三度と呼ばれる物です。この脈絡を詳らかにすると、態々そこに複音程を還元する必要はない程の協和音程である完全五度が2等分されている音脈であります。純正音程的に捉えても、自然七度(969セント)+純正長三度(386セント)を4等分した時の近傍でもあります。
更に、[es] から見たAセスクイフラット= [aseh] は、減四度相当にあるヴィシネグラツキー流に言う所の「短四度」であり、これも先述の通りです。同様に [c] よりも50セント低い事を示すCセミフラットである [ceh] は、[es] から上方に850セントとなる音脈であり、複音程1700セントを視野に入れた時の等音程分割(2等分)の音脈である事は明らかです。
加えて、更に上方にはBセスクイフラットである [heseh] とDセミシャープである [diseh] を生じています。前者は [es] より650セントという音脈であり、謂わば真のブルー五度となる音脈でもあります。後者の [diseh] は [es] よりも上方1150セント/下方50セントという音脈であり、長七度と完全八度の中間に位置する中立音程クォーター・トーナル7thと呼ばれる大変重要な音脈であります。
無論、茲での《重要》という意味は、ポリクロマティックな状況下に於て特に色彩感が増すであろうという音脈でもあり、とても強い協和音程(=絶対完全音程)の近傍であるという所も拍車をかけた状況ですので声高に語っているという訳です。
斯様にして、元のコード「E♭m7(11、13)」の根音から上方350セントを別系統の音脈が生ずる分水嶺として見立てて「別体系」となるコードをスーパーインポーズさせているのですが、四分音的なポリコードとして成立させている事に依り12EDOとは全く異なる色彩として聴こえるのでありまして、そうしたポリコードが相互に上手い事作用するにはアヴォイド・ノートを散りばめる事で、調的な響きに寄らずに色彩感を強める事ができるという訳です。
更に付言すれば、原調側となる音組織で現れるコードのそれが「長九度音オミット型」とは雖も、それは単に、副十三和音のひとつであるドリアン・トータルとしての断片の姿であります。
また、調的な世界観から対照させればマイナー・コード上の♮13th音とマイナー・コードの♭3rd音とは単音程に還元・転回した時に三全音となる為に回避され易い音程で、機能和声的にはアヴォイドとされる音でもあるというのはこれまでも過去の記事でも何度も述べて来ている物ではあります。
とはいえ、ドリアン・トータルが内含する三全音というのも実際には九全音という複音程に引き延ばされている関連性でしかないので、複音程という状況は調的に眺めさえしなければ様々な方角からの音脈に晒される物となります。複音程を導いた事により強固な協和=調的な重力の関与が和らぐと解釈すれば伝わりやすいでしょうか。
なんとなれば、自然七度という自然数の音程比となる4:7となる、不協和音程であり乍ら《純正音程》という状況というものがオクターヴ高くなれば、4:14という複音程となり、奇数の音程比から偶数の比率となるので、オクターヴという累乗が介在する事によって、その「奇数」という強固な個性が倍音の世界から見つめた時の次数からは弱まる因果関係となる訳です。
そうした関係から複音程化された音は、他の外的要因=音程分割に晒されやすい状況となるのですが、多くの「従順」な人々は調的に靡いたり、或いは12EDOとは異なる音律体系を用いようとしないので、複音程化された音も新たな音脈を掘り起こされる事のないままに等閑にされているのが多くの音楽の実際なのであります。
然し乍ら、そうした状況に目敏く微分音の体系や不協和を臆する事なく使おうとする輩がひとたび複音程を見つけると、12EDOに当てはまらない音程分割を企図する訳です。この音程分割は古くは不均等でもあり、純正音程の綻びを許さない人は「不等分」に分割する訳ですが、純正音程そのものに拘泥する事なく「均齊」に目を向ける人は音程分割も等分割するという訳です。
純正音程に注力し過ぎても軈ては等分割が視野に入り、均齊の側も純正に寄ろうとする志向性を発揮しようとする事もあります。これらの中庸は結果的に均齊であるので、私は均齊を最初から念頭に置いているというアプローチに過ぎないのです。
加えて、「E♭」から上方に350セントという音脈は先述の通り「自然七度+純正長三度(1400セントの近傍)」を4等分した単位音程のひとつとしての1単位音程なのであり、中立音程を視野に入れた単位音程を利用するならば3単位=1050/1400という音程に音脈を見付けても構わないのです。
今回の私の例は、複音程からの複数の音程分割として容易く得られる最小の微分音を「1単位」という音梯となる中立音程を生じさせているに過ぎず、その音梯のみ(=1単位音程のみ)を例にデモを作っているだけなので、微分音に用いるべき単位音程は必ずしも1単位で無くてはならないという訳ではありません。
但し、1400セントを4等分した時に得られる2単位音程=700セントは、平均律完全五度の音脈でしかないので、微分音を視野に入れた状況下で手垢の付きまくった五度音程に分水嶺を見出そうとするのは莫迦気た行為でしかないでしょう。単位音程がどういう中立音程を生ずるのか!? という事を念頭に置いた上で取り扱うのならば1単位音程に拘る必要は無いのです。
例えば、九全音=1800セントを5等分させた場合、2単位音程=720セントは調的には不快なウルフを純正完全五度よりも高位に得る減六度に近しいものですが、複音程へ還元し乍ら「原調」の側の《調的な》和音構成音との間で著しく不快なウルフを生じさせない工夫ともなり、それもまた乙な材料となる事でしょう。
ややもすれば、《微分音を得る為の「近似値」とやらは、それほどまでにざっくりとした捉え方で好いのか!?》と疑問を抱かれる人も居られるでしょうが、古代ギリシャから大家達が見付けて導引した微小音程(微分音)というのも史実的には《大ディエシス》と呼ばれる音程の解釈からマルケット・カーラの五分音に始まり、正則中全音律が生まれ(※31EDOは中全音律に靡いている)、ジュゼッペ・タルティーニが六分音(三分音)として解釈したり、後人が六分音を自然七度に均して解釈したりと、西洋音楽では斯様な《伝統の異化》が今猶続いて用いられているという訳であります。
扨て「トリターヴ/トライテイヴ(tritave)」という音程は、複音程である純正完全十二度音程の事でありますが、ボーレン・ピアース音階を視野に入れずとも、完全十二度音程というのは古くは対位法書法でも重要な音程でありましたし、何より隣接し合わない自然数の音程比としての「1:3」は、隣接し合う自然数「2:3」という音程比よりも明澄度が高い=協和度が高いという事を発見したのはオイラーの功績の一つでもあります。
近年でもラミ・シャヒン氏はトリターヴの事をオーバー・トーナル5th(over tonal fifth)と称しており、とりわけ複音程化した音程構造というのは注目される物です。
涯扨て、何故注目されるのか!? というと、例えば奇数次倍音だけを拔萃した場合、それら各々の部分音(=パーシャル)は偶数次倍音とは何ら因果関係が無い物です。換言すれば、オクターヴとは埒外となっている相関関係である訳です。オクターヴの相貌は自然数として1から2:4:8:16:32:64…… という風に累乗していく訳ですが、奇数次倍音の群がそれらに合致する事が無いのはお判りであろうと思います。
ところが、奇数次倍音を複音程化=つまり倍化させれば途端に偶数となるので、オクターヴの相貌に合致せずとも、奇数ではなくなる事でその音程比は「新たなる基準」となるサイズの物として元の体系に寄り添い乍ら存在する事にもなる訳です。
例えば、音程比「7」という物を拔萃した時、それを「14」に倍化(複音程化である)させるとこれは偶数に転じ、元の体系での奇数という存在で刺々しく存在していたそれとは確実に変わります。同時に、この偶数へ転じた《複音程》は「何らかの」音程分割の為の存在として新たなる基準を生む事にも貢献しうる材料となりうる物なのです。更に「14」という音程比を4等分してみた時、そこには自然数ではない単位音程「3.5」を得ますが、非整数次の音脈を得たという事は判るかと思います。
そのような、元の体系から対照させた音程が非整数次であろうとも、この新たなる音程比が元の体系とは異なる体系での《新たなる基準》であるに過ぎず、それぞれの基準は調的な意味では則っている訳です。
そうした基準での《元の体系》に加え《新たなる体系が併存》したそれらで齎される世界観となる音が著しく世界観を乱す様な併存とはならなければ、これはもう微分音の世界観として《あるべき姿》へと変容した訳で、異なる音律やらの併存で得られる「音響的」な音の成立はひとまず成功したという事になるでしょう。
もう少し附言するならば、新たな体系を元の体系での尺度で見た時の「3.5」は、新たなる体系での「1」であるかもしれません。3リミットや5リミットなどの世界観を思い出して下さい。その 'nリミット' となる数値は「3」「5」など幾らでもその基準を当てはめる事は可能でしょう。この様に喩えれば、異なる体系の併存の妙味があらためて理解しやすいだろうと思います。
或る単音程の複音程化は、アイメルト、エンケル、バイエル、ウェルナー・マイヤー゠エップラーというケルン派で知られる錚々たる顔ぶれがシュトックハウゼンと共に1950年には既に研究・検証が為され、その後の『習作Ⅱ』での音程比1:15の25等分という単位音程で形成された様に、複音程の分割は既存の調性から逃れる新たな体系を生み出す源泉となっている物でもあります。プリーベルクの著書『電気技術時代の音楽』では、入野義朗が著者を凌駕する程の脚注を加筆して訳しており、非常に参考になる事が多いので一読される事をお奨めします。
音律を取扱う時、我々は屡々「3リミット」「5リミット」やらの語句を能く見かけますが、この「nリミット」という言葉が意味するその数字はn次倍音を意味しており、その倍音を「規準(数式上の底)」とした体系であるという事を示した物なのです。
3リミットと言えば第3次倍音を規準とする体系ですから、自ずと純正完全五度の連鎖が規準となる体系を意味するのであり、5リミットと言えば第5次倍音=純正長三度を規準とする体系であるという訳です。同様にして7リミットの場合は自然七度を基とし、13リミットとなると第13次倍音を基とするという事なのです。
十二等分平均律の場合は、3リミットと5リミットの中庸となる平均化であるので、偶数時倍音すなわちオクターヴしか純正音程は存在しません。こうした例を引き合いに出すというのも、重要な示唆があるからなのであります。
古典調律および不等分平均律というのは、五度音程 or 三度音程のどちらかを重視する様にして形成されて来た歴史がある物なので、これらを等しく丸め込んでオクターヴ以外の純正を棄却したのが12EDOという訳です。
思弁的な意味に於て12EDOという「平均律」の音律は5リミット側の世界観に押し込められますが、3リミット寄りという風に判断する事が不文律であり前提でもあります。何となれば、12EDOという平均律は長三度・完全五度音程のどちらも慮らずに平均化させた音律であるからです。
然し乍ら多くの演奏の現実としての三度音程の採り方《特に長三度》は、純正長三度という低めの純正を採るよりも、大全音×2および純正完全五度≒702セントを「V」とした時の「4V」の単音程転回・還元での408セント(※これも整数比なので純正音程)の方が多用されます。
ソリストに依る無伴奏となれば長三度も純正長三度が現れるケースもありますが、多くの実態に即した例から対照させても、12EDO社会というのは実際には5リミットではなく3リミットを優位にしている体系でありましょう。然し、その3リミット基準の純正完全五度音程の累積でコンマを縮めている以上は3リミットが完全な地位を得ている訳でもないので、その辺りは誤解なきよう理解されたいところです。
扨てボーレン・ピアース音律(音階)は、'tritave' (トライテイヴ/トリターヴ)という純正完全十二度音程を13分割させた音律がそのまま同数字の音梯数というフォニックとしても用いられるものなので、音律の分割数と音梯数という音階の姿が一致する類の物です。この音律・音階はオクターヴを跳び越す単位音程を含んでいる為、オクターヴ回帰する普通の音律とは全く異なる体系となります。
オクターヴを跳び越す音律は大まかに分類すると「直線平均律法(Linear temperament)」という音律に分類され、オクターヴ回帰をしない螺旋音律として括られます。これに関しては田邉尚雄に詳しいでしょう。
小泉文夫を例にした時と重なってしまいますが、5EDOや7EDOというのも往々にして音律の分割数と音階としての数が同列に扱われるしまいかねない物ですが、こうした音律での音階は先述の通り前者をペンタフォニックと呼びます。ペンタトニックではないのです。同様に後者もヘプタフォニックと呼ばれるのであります。
ボーレン・ピアース音階は3:5:7の音程比およびその自乗を視野に入れているのですが、整数次による純正音程比で音梯数が割り振られているので、直線平均律法での不等分平均律というものに分類する事となります。
直線平均律法というのはオクターヴを超越する螺旋音律などに適用される音律の総称ですが、完全十二度音程というのも厳密にはオクターヴ回帰はしない物となるのです。直線平均律=リニア・テンペラメントとも称され、セサレスはこうしたオクターヴ回帰しないリニア・テンペラメントの類を ’n Cents Equal Temperament’ =(CET)という略称を充てております。
CETのひとつとして知られる物で「833cents temperament」という物があります。単位音程が833centsというオクターヴを跳び越す物ですが、黄金比が視野に入っている物で、黄金比スケールなどとも呼ばれる事があります。メキシコの現代音楽家ガブリエル・パレヨンが参考になる事でありましょう。氏はオーケストレーションから電話のベルまで、様々な「音」の状態をスペクトログラムで分析し、その「紋様」が人間にとっての協和との関わり合いを研究していたりするので大変興味深い物です。
扨て、クラリネットは閉管楽器でありますが、円筒菅の一方は自由端であり、もう片方は固定端であるという所が閉管楽器構造の最たる特徴を持っている楽器であります。片方の側が振動の自由を遮断される事により、固定端での音波は「節」としてゼロクロスを生ずる事になります。
『楽器の物理学』(Springer)p.490では、フレッチャーに依るクラリネットのスペクトルの図版が数点載せられておりますが、厳密な奇数次倍音のみが現れているのではなく、偶数次倍音も随伴させている事が判ります。
偶数次倍音を随伴させてしまう理由として、閉管楽器での奇数次倍音はその構造体の中でこそ奇数次のみ音波が振動するのであり、ひとたびその「気柱」という構造体から音が自由に放射されれば新たに偶数次倍音が生じる事になり、加えて、最も大きな要因はクラリネットの筐体自身が振動するので、これが外部に伝わり偶数次の振動を生んでしまう。とはいえ全体の音響は奇数次倍音が優勢に響きますけれども偶数次が現れないという事など決して起こり得ません。これがクラリネットのスペクトルの実態なのです。
偶数次倍音を生成したくないのであれば、音波の「全周期」を消失してやればいいので、機械的に「半周期」のみの音波を生成し、例えば矩形波(=方形波)の半周期のみの波形を使用してやれば厳密な奇数次倍音を生成する為の素材を《電気信号上》で得る事は可能です(※矩形波は奇数次の正弦波の集合とも見做しうる)。音波として野に放たれた時点で理想的な半周期構造は壊れてしまいますが、気柱という構造体では奇数次の音波は確かに厳密に生成されて運動しています。
スピーカーの振動に例えてみるとしましょう。静止している状況から始めると振動は、前方に迫り出すか後方に引っ込むかという動きになります。半周期をスピーカーで再現する事は出来ません。なぜなら、どちらかの「迫り出し/引っ込み」だけを振動させる状況となるので物理的に不可能となります。
嘗てヤマハからTX-81Zがリリースされた時は、半周期の正弦波などが豊富に用意された事もあり色々と試す事ができたものでありまして、現在ではDAWアプリケーションの中でそうした事に操作可能となったのですから隔世の感すらあります。
然し乍ら、そうして「理想的」に生成した奇数次のみの音も、DAWアプリケーション或いは機械回路内部で信号を確認する上では確かに厳密な奇数次倍音を生成するので、GUIが発達した現今社会に於ては、耳に届く《外界》の状況よりもついついコンピューター内の情報を重視してしまいかねない陥穽に嵌る可能性が高まります。
これが誰かの「耳」に伝わるまでの自由空間を媒介した時点で、厳密な奇数次倍音は偶数次も生成する事になるのですから、DAWアプリケーション上でスペクトルのそれが奇数次しか生成されない事を喜んだとしても耳で聴いた瞬間に、気柱を離れて放射される音波は実際には偶数次を随伴させ乍ら自由空間を音波は媒介する事に過ぎず、真の意味での厳密な奇数次の生成というのは理想的な幻として収斂してしまうのです。
鼓膜を振動させるそれも、都合良く半周期だけ抽出して振動する訳にもいかず、マイクの収音とて同様です。即ち、音という振動を電気信号に変換する時も電気信号から物理的振動に変換する時も全周期を随伴させてしまうという訳です。
無論、閉管楽器であるクラリネットも、随伴する偶数次倍音よりも奇数次倍音によるエネルギーの方が「優勢」な分布となる事で音色キャラクターを疏外する程の変化は起こさない、ただそれだけの事であって偶数次倍音は生ずるのです。
ボーレン・ピアース音律(または音階)の [3:5:7] という振動比が結果的に机上の空論となりかねないもうひとつの理由が、ミッシング・ファンダメンタルを視野に入れた時の属七への回帰。各振動数同士による差音は偶数次 [2・4] の連鎖を作る様になります。つまり結合差音が偶数次を暗々裡に得てしまうという事は、本来敢えて視野に入れる事を避けた偶数次の関連性を見付けてしまう事となり、[2:3:4:5:7] は転回位置にて [ド・ソ・ド・ミ・シ♭] を見る様な物なので、自然七度である属七の成分に収斂してしまう訳です。
音程比 [3:5:7] の差音の音程要素は以下の通り
第一次結合音 [5-3=2] [7-5=2] [7-3=4]
第二次結合音 [3-2=1] [5-2=3] [7-2=5] [7-2=4]
第三次結合音 [3-1=2] [5-3=2] [5-4=1] [5-3=2] [4-1=3]
結果的にこれらの結合差音は元の振動比を含み乍ら偶数次の差音を得てしまい、西洋音楽(島岡和声など)で顕著な「属和音の属音省略」の状況で差音を感じる事が暗々裡に属和音の機能を得ている事と同等となり、ボーレン・ピアースは茲に収斂してしまうという訳です。つまり、属和音の属音省略状態を極力「非機能和声」として無理強いする事には、音律・音階の音程を機能和声とは異なる単位音程を形成する事で初めて叛かれるに過ぎないという事を意味する.
また、そうした差音の成分は第一次結合音以外にも第二・第三…という風に連鎖して発生する物でありますが、結合音の位相が反転して逆相として励起する様な状況が体内で起こる事は有り得ません。この辺りの副次的な差音の発生は音楽分野ではヒンデミットの著書『作曲の手引』に詳しく述べられておりますので参考まで。
扨て、差音の逆相を無理矢理にでも励起させようとして非線形的な音響やらを人体に浴びせても逆相が生ずる事がありません。仮に人体が逆相を作り出してしまうのであれば、カリウムイオンの電位差に端を発する心拍のパルスなど、怖くてペースメーカーなど作れなくなってしまうでしょう(笑)。人体で逆相を生成せずに認識しないのは音波も同様です。
唯、音響心理学の分野に於て「逆相」が興味深く取扱われるシーンはあります。例えば片耳で正相信号を聽き、同時にもう片方の耳で逆相信号を聴くという場合です。
この場合、最終的に知覚されるのは「無音」でありますが、位相反転されている状況はそのままに両耳にホワイトノイズを混ぜると当初の位相反転されていた音は聴き取れる様になり、同時にホワイトノイズも聴かれます。こうした興味深い事実があるのは確かですが、位相反転という状況を体内で作り出してしまう事はできないので、電気要らずで逆相が生ずるという事も有り得ないという事は重ねて述べておきましょう。
差音というのは虚像とも言えますが、振動数的には実際にエネルギーは「ファンダメンタル」領域として発生するのであり、こうした差分が視覚領域であればモアレなどにも見る事ができ、電波を取り扱う際には実際の放送にて「ヘテロダイン変調」という現実に遭遇する物で、虚像と思えるそれも実際に取扱っているのが実情です。
また矩形波ひとつを取って見ても、矩形波を形成させるには先述の様に正弦波の振動数が奇数次となる部分音を累積させれば形成可能であるのですが、理想的な矩形波を得る為に整数次のヘテロダインを濾波するのが外部には見えない事が殆どである為、こうした工夫が為されて矩形波が成形されている状況を知らぬままに矩形波を取扱ったり或いはボーレン・ピアース音律などを皮相的に理解してしまうと陥穽に嵌るという訳です。多くの一丁噛みは前提知識に乏しい事が多く、新奇性のあるボーレン・ピアース音律などを近視眼的に見てしまうものです。
世の中は広いものでボーレン・ピアース音律で生ずる音程を転回還元《純正完全十二度音程回帰》型の音階に配列し直したボーレン・ピアース音階で調律されているボーレン・ピアース・クラリネット(BPクラリネット)というのも現実に存在(CDなどもリリース済)しますが、先述の様に、クラリネット本体の振動が偶数次を生ずる事に加えて、奇数次の振動数を重畳させてもファンダメンタル領域を無視できない事を思えば《ボーレン・ピアース調》を優勢にした音だけに過ぎない物なのです。
ボーレン・ピアース音律のそれは方法論と音組織が奇異である事を除けば、それほど大それた体系でしかありません。また、BP調を積極的に用いたエレーヌ・ウォーカーやSevishが偶数次倍音を伴わせているなどという風には捉えないでいただきたいと思います。その批判は現実を全く視野に入れていない愚かな判断で、あらためて今語っておきましょう。
固定端から解放された音波の運動が判っていれば、ボーレン・ピアース音律を単なる別系統の音楽的語法のひとつとして割り切っているだけに過ぎない事に気付いた上で彼らは演奏したり作品を発表しているのであり、それすら考えに及ばずにボーレン・ピアースの数学的な魔力だけの方面から礼賛する様な者に、こうした奇異な音階を使える訳がありません。
MeldaProductionのMMultiAnalyzerのパラメータには「Deharmonizer」というツマミがありまして、それは差音の成分としてのエネルギー分布を視覚的判断できる非常に便利な物です。DAWアプリケーションのクライアント・ソフトによっては、ヘテロダインに於ける差分のそれを使用者に意識させる事なくカットする様に設計されている物もあったりします。
ボーレン・ピアース音律は元来、純正音程を標榜し乍ら各音程が歪つな構造となっている物でした。その後等分平均律化される様になり、旋法化も齎す様に変化して来ましたが、私感ではありますが、策に溺れた体系の様にしか思えないのが実際の所です。衆人の耳目を惹くには十分な新奇性を備えているとは思いますが。
ボーレン・ピアース音律でポリクロマティックを形成した場合、ボーレン・ピアース以外の音律が完全音程を有する音律であった場合、どちらも良さを相殺してしまう事でしょう。片方はオクターヴ跳越であるのに、もう一方が協和に阿る訳ですから足を引っ張り合う事となる訳です。つまり、[2・4] という振動比がボーレン・ピアースを阻碍する事になるという皮肉な結果を得てしまう訳です。
これは、ボーレン・ピアースを用いる時、オクターヴ概念を持ち来してしまえば直ぐに崩壊してしまう事になります。それだけ「脆い」構造に立脚している訳ですので、ボーレン・ピアースでのポリクロマティックは、少なくともBP同士か、オクターヴを避けるべきなのでありましょう。
そうなると、ガムランの誕生というのは矢張り偶然ではなく、スレンドロやペロッグも複音程からの等音程の脈絡(概念的)なのであろうという事が推察されるのであります。尚、スレンドロやペロッグに関してはブログ内検索をかけていただければより詳しいブログ記事を引っ張って来れるので、興味のある方はそちらもお読みいただければと思います。
そういう訳で、ポリクロマティックのエフェクティヴな状況とやらを縷述して来ましたが、調的な世界に身を置く方からすれば、これまで述べて来た方策など全く埒外の脈絡で実感すら湧かない方も居られるかもしれません。シンセやプラグラミングなどではなければ、容易に再現が覚束ないからです。
シンセなどの電子的な助力がかなりのウェイトを占めて来ますが、DAW全盛の時代、置いてきぼりを喰らう方も珍しいのではないかと思うので、微分音に興味のある方は一旦《調的な耳》をリセットさせてエフェクティヴに捉えてみては!? と思う所であります。
仮に、異なる基準ピッチとしての十二等分平均律(12EDO=twelve tone Equal Division of Octave)が2種類存在したとしましょう。ひとつがA=440Hzとしてのもの。もうひとつがA=427.5Hzとしてのもの。
各々の音律は12EDOであるものの基準ピッチが異なって併存している為、両者を俯瞰して確認すると、24EDOと同じ状況として見立てる事も可能となります。これは、音程の最小単位として四分音(50セント)による単位音程と同等となるからであります。
12EDOでの半音階を顕著にする音楽ですらも人によっては複雑な音社会として耳にするでありましょうし、24EDOという四分音律の状況はより一層複雑な音楽的社会観であると言えます。
ポリクロマティックを見るに際し、それが「ポリテンペラメント」とも呼べる様な状況で最も広く知られているであろう実例が、ガムラン音楽に用いられる2種の音律「スレンドロ」と「ペロッグ」の例であります。
スレンドロは五分律であり、ペロッグは七分律です。「等分」律とまで表現しない理由は、各音程が不等分であるからです。両音律とも音梯間は不等分であり、それぞれの音律には多くの傍流が存在します。ガムラン音楽に於て謬見が伴うのは、これらの両音律が互いに単独で使われるかの様に各音律を紹介する物ですが、ガムラン音楽とは「ポリクロマティック」なのであり、スレンドロとペロッグという異なる音律(5音律+7音律)の《12音から音を抜萃》して楽音を形成する音楽です。
言うなれば「スレンドロ・スケール」や「ペロッグ・スケール」という風な単独で用いたりはしませんし、各音律の姿は音階ではなく音律に過ぎないのです。無論、その音律が音階同等に《律と階》が揃う状況というのは稀に生じるものでもあります。
例えば小泉文夫は、《スレンドロはペンタトニックではなく謂わばペンタフォニックである》という風に分けて考えております。
これはスレンドロという音律が、概念的に音階という形の5音の音階状として示される様な音階的情緒をはじめから具備する音律なのであるという意味で、実はドビュッシーが作り出した全音音階も「ヘクサフォニック」と呼ぶべき分類になるという訳です。重要な点としては、決して「音律=音階」なのではなく、「音律≠音階」という考えを念頭に置くべきであるという所です。
同様にして「ペロッグ・スケール」という風な使い方もされない訳です。ペロッグの場合は小泉文夫風に言えば「ヘプタフォニック」になる訳でして、重ねて言いますが、スレンドロもペロッグはそれぞれが異なる音律であるものの、それらを一絡げにして12音律から抜萃して楽音を形成する物です。ガムラン音楽のこうした大前提は非常に無視されやすいので注意されたい点であります。
音楽を後の時代から学ぶ者ほど過去の体系は同列に見てしまえる側面がある為、往々にしてこうした現代からの初学者の偏った観測は陥穽としてしまいます。加えて初学者に多いのは、音楽に直接関わりのない分野での呼称の側から互いの言葉の上での相違点をほじくり返してしまい、撞着を生む事もあります(※これは新発見なのではなく、取扱う必要のない重箱の隅をつつく様な行為)。
例えば、音律を取扱う際に避けては通れぬ《平均》と《不等分》という語句は、数学的にそれらを厳密に取扱う事と、単なる単称命題として世の中に知れ渡っている表面的な意味合いとして捉える事とでは全く意味が違って来るものです。
オクターヴを幾つかの音に分けて「平均」とした場合、各音梯は総じて等しくあるべきですが、「平均」は単なる標榜の為の物で、音律の世界では各音梯が歪つな「不等分」と成っているいる状況が生じていた事実を知っておく必要があります。
例えば、「12等分平均律」と「12不等分平均律」という異なる2つの音律があったとしましょう。英語圏だとこれらの差別化は非常に判りやすくなります。前者は「12uEDO」後者を「12EDO」という風に。これらに共通する「EDO」という略称は 'Equal Division of Octave' の事を示しており、「uEDO」の場合は 'unequal' という部分が明示的になるという訳です。
一部の団体では「EDO」ではなく「ET」(equal-tone)、「TET」(tone-equal temperament)やらを使っていたりしており、英語圏では等分 or 不等分の状況がすぐに判るのであります。
ところが日本での一部の配慮のないWebサイト上での微分音律の体系では、「EDO」やらの略称すら合理化させて訳文から捨て去り、「24平均律」「31平均律」という風に言葉を短くまとめてしまうという方々に配慮させた訳および略称にはなっておらず、翻訳者の音楽的素養などを含めて懐疑的な内容にしてしまっているのは、海外拠点のXenharmonic Wikiなども頭の痛いタネでありましょう(私は翻訳作業に関与しようとも思っておりません)。
例えば溝辺國光が「31平均律」や「53平均律」などと表題で書かれる例はあれど、それらの音律が等分であるのか不等分であるのかが著書本文で明確になっているので、こういう使用例はまだアリと言えるでありましょうが、古典音律は不等分である事が大半であったにも拘らず、これらの不等分な性質を文章の上から消し去り、等分である事が前提であるかのような、後に学ぶ初学者が学べば学ぶほど迷妄に陥る様な配慮なき訳文が跋扈してしまっているのは嘆息してしまう限りです。
不等分音律に立脚しているからこそ、三度か五度へ阿る作業が採り入れられていた訳で、歴史的には新しいボーレン・ピアース音律(or 音階)とて元は純正音程を重視する「不等分平均律」からスタートしており、今でこそ等分平均律化や旋法化にも成しているのでありますが、これはまあ追って語る事としましょう。
いずれにしても、等分平均律 or 不等分平均律をその場で明示化しない(元の訳から消えている)様な取扱いには是非とも気を付けていただきたいと思います。ネット上で手軽にアクセスできるという事に胡座をかいて黙認して好いという訳ではありませんのでその辺りでの「スタンダード」やらを私のブログ記事と対照させて私の側が読みづらいとするのは御門違いであろうかと思われます。
私のブログ記事の多くが読みづらいのは、西洋音楽の音楽素養・器楽的素養という基礎が脆弱であると途端に読むのが難しくなる為、そうした前提の知識が読み手の脳内でスキーマ形成がされていない方であるとより一層理解を難しくしてしまう訳ですね。西洋音楽での確かな知識があれば何一つ難しい事を述べている訳ではないので、その辺りはあらためて念頭に置いてもらいたい所であります。
扨て、多くの場合、斯様な撞着(等分/不等分)に遭遇してしまう例として挙げられる最たる物が、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(J. S. バッハ=大バッハ)に依る『平均律クラヴィーア曲集』の名称にある「平均律」であります。
大バッハは等分平均律など使っておらず、本来ならば原義通りの《能く調律された》という語句が充てられるべき所を、「能く調律された音律とは等分平均律なのだ」という風に考えられてしまった謬見から生じた語句が今猶日本の音楽界で付いて回るジレンマなのでありまして、まあ、これについて耳にタコが出来る位に音楽を学べば学ぶほど注意すべき事である問題だと聞かされる事でありましょう。
余談ではありますが、J. S. バッハの子であるカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(C. P. E. バッハ)はソナタ形式を確立した人でありますが、奇しくもC. P. E.バッハは等分平均律を使用し且つ支持していたのであり、親子と雖もこれほどの違いがあるという側面も折角ですから知っておいて損はなかろうかと思います。
そうしたジレンマを持ち来してしまうネーミングはいかがなものか!? という議論は古今東西交わされて来ております。近年では『平均律クラヴィーア』のそれを《適正律》という風に呼び方を変えてリリースされた事実もありますが、音楽教育を正当に学ぶ者にとって好い題材でもあるので、その《平均律クラヴィーア》というネーミングが反面教師の様に取扱われている事もあり、却って正しさが広く彌漫しないという状況が長らく続いているのが現実です。
但し「不等分平均律」という呼び方は、西洋音楽の歴史に於て是認しうる表現なのでこれはこれで有りなのです。撞着する表現かもしれませんが、不等分平均律という各音程が歪つとなる音律は音楽の歴史上実際に存在し使用されて来ました。
西洋音楽の歴史上、最も長らく使用された音律は『中全音律(ミーントーン)』なのでありますが、この中全音律とて『正則中全音律』の他に変則体系の中全音律が後年使われていたのであります。正則と変則がどういう風な変遷を辿って来たかという事も皮相的理解に及ぶ人はそこまで知らないかと思います。
それは扨措き先述した様に、不等分平均律に括られる古典調律のそれは結果的に、
《五度もしくは三度のどちらを優先するか!?》
という点に大別する事が出来、それらの折衷として結果的に「等分平均律」となったのが今日の12EDOである訳です。
それらの逡巡は、純正完全五度と純正長三度のどちらを重視するか!? という事であり、古典音律はどちらかを優勢に採っているのです。そのどちらも優勢にしようとしてしまうと結果的にどちらの純正を棄却せざるを得ず、その結果全てを均一にする《等分》平均律となるという訳です。
ガムランに於けるスレンドロとペロッグの取扱いで見落とされがちなのは、それらの音律を併存させて用いる「ポリテンペラメント」と呼ぶべき状況を前提として用いる所です。これは結果的にポリクロマティックに括られる事になるのですが畢竟するに、五分律を用いるのでなければ七分律を使うのでもなく、両者の折衷から音を任意に選択して奏するというのがガムラン音楽の前提なのです。
こうしたポリクロマティックの状況のメリットというのは例えば、四分音を意識し、そこで新たなる四半音の世界観での超半音階という微分音の世界形成を試みる事よりも、単に《異なる基準ピッチから生ずる音律の併存》で形成される12半音階を用意し、それらをまとめて俯瞰して見た時に偶々四分音の単位微分音として捉える状況を試みる方が微分音の取扱いとして容易なのであり、其々の半音階を駆使して併存させた方が綺麗な響きに容易にアクセス可能であるという所にあります。
ジェイコブ・コリアーの手法のひとつにもこうしたポリクロマティックの脈絡で微分音を出現させたりもしています(※ジェイコブ・コリアーの微分音の使い方はポリクロマティックのみに留まりません)。
加えて、ポリクロマティックな状況で生じさせる和音は、ひとつ音律から生ずる半音階組織から形成するポリコードよりも、複雑かつ色彩に富んだ和音を形成させる事が出来る事もあり、ひとつの音律から見れば全くの埒外となる音が色彩的に溶け込んでいるという状況も容易に形成させる事ができるので、ある意味では半音階社会での凝りに凝ったポリコードよりも興味深い「色彩」の和音を形成する事が可能でありましょう。
重要なのは、ポリクロマティックの状況下でどのような音程関係のポリコードを形成すれば色彩に富んだ和音を駆使できるのか!? という所にあります。無論今回は、そうした例を挙げて行く事となります。
それでは先ず、ポリクロマティックとして、単一の音律が複数存在する状況を俯瞰する様にして結果的に「四分音」を招く状況を念頭に置く事としましょう。
四分音という状況をそれほど難しく捉えずに、2つの異なる基準ピッチによって生じた半音階が併存する状況を考えた時、それぞれの半音階に対して異名同音(※12EDOでの半音階)に固執しないのであるならば、その俯瞰される状況というのは純正完全五度を24回累積させる様に捉える事も可能であります。
純正完全五度を24回積み上げた結果として合計された音程をセント数で表すと「16846.9200207…」セントを生じ、15オクターヴ=16800セントとの差「46.9200207…」セント(※ピタゴラス・コンマの倍の数値である)という近傍値が四分音律で生ずる単位微分音=50セントと近しくなる状況でもあるので、異名同音としての丸め込みをしなければ然程遠くはない音脈であるという事が判ります。
とはいえ、そうした状況でも人によっては《24回も調域を累積させる状況を「近しい音脈」などと強弁できないだろう》と反論の声を挙げる人も存在するかもしれません。
然し乍ら純正な音程を最終的に狙うのであれば、ピタゴラス・コンマでも看過できない程《大きな音程》でありましょう。今回は微分音(四分音)を取り扱おうとしているのです。音痴な音としても実感させる事のない様に。
12等分平均律での半音階を駆使する状況に手慣れた人であるならば、現在地となる調域をわざわざ12回累積させて漸くその世界観にアクセスしている訳ではなく、古典的な全音階の取扱い(ピタゴラス・コンマを累積させてコンマを生むという古典的な状況と比較)を忌避しているからこそ容易にアクセスしているのであるので、調性に靡き乍ら遠回りしてやっとの事で半音階や四半音にアクセスしている状況とは全く異なる訳ですので近しい人には非常に近い音脈であるのです。
異なる半音階音組織同士のそれら──各半音階音組織下で生ずるコード──の形成は、両者が半音階体系であっても少なくとも「コード」という体系で捉える事が可能な構成音で形成されているので、調性的に耳に馴染む構成音に別の系統(主とする側からは埒外)が付与される事で色彩感が増す事になるのですが、全音階的な調性の情感にまで靡く必要はないでしょう。
即ち、異なる半音階音組織がそれぞれの主従関係としてどちらに隷属させるか否かなど無関係(どちらかの支配下にある様に響かせるならば《調》という強い卑近な牽引力に靡く事となる)ではあるものの、どちらか一方に対して主たる基準を設けない限りは説明が冗長となるので主とすべき基準、或いは《原調》としての基準を仮想的に措く事がベターでありましょう。
原調の側に耳に馴染みやすい和音(概して完全八度以外の完全音程を有する和音)を用意した時の別の調では《アヴォイドを有する和音》を置いた方が功を奏する事でしょう。
そのアヴォイドは、ひとつの調域だけで見れば響きを疏外する音が付与されているに過ぎない物なのですが、複数の調性をひとまとめに取扱う状況とでの《アヴォイド》とは在って無い様なものであり、異なる状況での世界観を言い換えるならば新たなる分子構造の為のレセプターとして変容する物です。こうした、調性の世界で腐心していた事を一旦措きつつ、その後の世界観獲得の為の「操作」を前提とする事で、容易に微分音を用いたポリコードを生む事にも繋がるのです。
通常ポリコードは、各和音を単音程の転回位置に還元して配する様に見立てる物です。例えば長三和音(メジャー・トライアド)同士の長二度/短七度音程での配置として [c] を基準にすれば
C△/B♭△ または D△/C△
と表す事が出来る訳です。
R・シュトラウスに依る「エレクトラ和音」などはポリコードの最たる例の一つとも言えますが、興味のある方は私のブログでブログ内検索をかけていただければお判りいただける事でしょう。特にドミナント・シャープナインス・コードを知っている方ならば、もう一歩理解を進めてエレクトラ和音の世界へ到達すべきでありましょう。
加えて、異なる基準ピッチ同士の半音階音組織を想起する事は、それらを俯瞰した時に微分音をも呼び込む状況を容易に用いる事を可能にする方策のひとつであるのですから、そうした異なる基準ピッチでの半音階音組織の併存状況では、12EDOでは見られない音程を視野に入れてのポリコードを形成する必要があろうかと思います。
そこで四分音律を例にしますが、微分音を積極的または明示的に用いようとしていない楽曲であろうとも、12EDOとは埒外となる音が出現する曲は実際には非常に多く存在するもので、それら全てを茲で列挙する事はできませんが、孰れにせよ微分音が明示的に生ずる四分音律としての音程というのは、12EDOでの半音階音組織とは異なる音程、即ち「中立音程」が生ずる事になります。
一部の英語圏の方では、全音音程よりも広い音程で生ずる微分音的な中立音程を 'macrotonal'(マクロトーナル)という語句を充てて差別化を図っている所もありますが、それは音楽界および学会で広くオーサライズされた言葉ではありません。
結果的にそうした「大きな音程の微分音」は音律由来(オクターヴを跳び越す螺旋音律=直線平均律法も含)へ括られ、先行研究となる小泉文夫の「フォニック」も蔑ろにしてしまいかねないので、一部の団体だけが用いる用語を使用する事は避けます。
全音よりも大きい半音階の基準とは異なる音程のそれを私は「中立音程」として括って述べる事にしますので、その辺りは注意をしていただきたいと思います。
扨て、異なる基準ピッチ、或いは異なる音階体系を併存させるという事を《取扱いには手をこまねく突飛な状況》と思えるかもしれませんが、ガムラン音楽というのは2つの異なる音律からの抜粋で音階が形成されています。五音律のスレンドロと七音律のペロッグ。これら2つを合わせて両者からの抜粋で音階が形成されているのが特徴です。
先述した様に、能くスレンドロとペロッグの其々は特殊な五音階および七音階と称される事もありますが、先の通り、小泉文夫に准えればそうした「五音階・七音階」という表現は不正確であります。なぜならば音階とは音律からの拔萃であるので、音律と音階が一致してしまう状況を音階と称するのは不正確となるからです。あらためて念頭に置いてもらいたいのは、《音律の情緒≠音階の情緒》であるという事です。
全音音階にしろ本来、ドビュッシーは凡ゆる音楽感が音律に吸着されてしまう様な効果を狙っていたのであり、決してドミナントの箇所限定で使う訳でもない物でありましたが、所謂ホールトーン・スケールを用いた楽曲は、それらのほぼ多くがドミナントの箇所にてドミナントの変化音(オルタード)を利用した情緒かトニックの彩りに酩酊感を催す様な効果で使われてしまう例が多く存在するに過ぎぬもので、音階の情緒ではなく音律へ吸着されてしまうという様な状況をドビュッシーが企図していた事を今一度思い返していただければと思います。
また、スレンドロ、ペロッグの両音律は孰れも厳密には「擬似オクターヴ」と称される絶対完全八度を僅かに超える音律で形成されており、W.A.セサレス(以下セサレス)の研究に依るスレンドロは1208セント、ペロッグが1206セントという前提で研究が為されております。
斯様にして、1200セントというオクターヴの5等分・7等分という風に安易に考えてしまう事を避けるべきである事に加えて、スレンドロという五音律は音階としてのペンタトニックなのではなく「ペンタフォニック」と呼ぶのが正確な表現なのであり、同様に七音律のペロッグも「ヘプタフォニック」と呼ぶのが正確な表現なのです。それらのペンタフォニックとヘプタフォニックが併存と成した組織から拔萃される音がガムラン音楽の実際なのです。
異なる基準ピッチの半音階同士で得られるポリコードとやらを、例えば完全四度と増四度の中間となる四分音梯、ヴィシネグラツキー流に言えば「長四度」という550セント(☜中立音程のひとつである)忒いに生ずる長和音のポリコードを想定した場合、原調での長三和音のそれを「Cメジャー」となる時もう一方は「Fセミシャープ・メジャー」を生ずるという訳です。
なぜオクターヴが1200セントではない状況があるのか!? というと、楽器の材質・形状などの要因で、その楽器固有の物理的振動の「協和」という状況が、通常の完全音程の状況とは全く異なる例があるのでして、概して金属を用いた時の材質・形状というのはオクターヴ回帰とは全く別の螺旋律が存在します。
木琴や鉄琴にも螺旋律は併存しておりますが、通常のオクターヴ回帰をする音律として協和する音を《優勢に》響かせる様に作られるので、通常の樂音の使用に耐えうるという訳です。三味線や箏とて螺旋律を包含しています。
しかもピアノですら、第2次倍音(=基音より1オクターヴ上の音である)は本来あるべき絶対完全八度よりも僅かにずれて《安定的振動》を出してしまいます。ピアノ構造の上では安定的振動であるものの、耳には矢張り非常に厳密には僅かに揺らぐ「うなり」を生じます。第24次倍音など相当はぐれた所が鳴っているものです。
前述の「優勢」というのは、実に人間にとって都合の良い物でもあり、楽器の構造的な側面から甘受しかねない状況もあれば、音響測定レベルでの音波を取扱うミクロレベルでの好都合的解釈での状況もあったりします。
兎にも角にも人間とは好都合的解釈で音を丸め込んでいる状況が多々ある物です。それは聴覚器官から入った音を脳が更に「脚色」しているからなのであるのが理由であり、脳は聴取者各人の経験に基づいて耳にする音を実際の姿とは変えて歪める事が多々あるものです。
例えば、音楽に数学や科学的側面を組み込んで考えざるを得ない時、その厳格なまでの数学的取扱いが音の物理的な姿を脳が変えてしまう事はあまりに無力であります。音痴の人が歌う音高は非常に音程跳躍が狭く、自身の発声の都合の好い所で歌っているのですが、彼等が耳にする音高は歪められているのではありません。楽音の音高のみならず、話し言葉での疑問文でのアクセントの変化などもきちんと聴き取っているにも拘らず、発声する音が歪められるのです。
人間が楽音を捉える際、脳の側は《空間認識力》を使って聴こうとしていると言われます。聴覚器官からすれば不要なプロセスなのでありましょうが、脳では最終的にこうしたプロセスを経ると言われます。
実は、音痴の人はこうした空間認識力が乏しい場合に現れると言われています。しかも空間認識力には性差があり、空間認識力に乏しい音痴の人は男性よりも女性の方が多いとも言われます。この空間認識力に加え音高聴取というのは非常に近しい物で、経験差によって大きく変化すると言われている物です。
まあ、判りやすく喩えるならば、現今社会に於けるCPU演算がグラフィックであるGPU演算をも利用して高処理を得ているのと同様であるとも言えるでしょう。
よもや人間の楽音の聴き方というのが、単に聴覚器官での音高知覚のみならず、その後の空間認知が大きく鍵を握っているというのは思いもよらない事であろうと思いますが、'amusia', 'Tone-deaf' などで関連論文を検索すると非常に興味深い研究がある事がお判りになろうかと思います。'Amusia is associated with deficits in spatial processing' (Katie M. Douglas, David K. Bilkey 2007 Nature Neuroscience, DOI: 10.1038/nn1925) は非常に興味深い論文です。
他にも、'Varieties of Musical Disorders: The Montreal Battery of Evaluation of Amusia' (Isabelle Peretz, Anne Sophie Champod and Krista Hyde 2007 Annals of the New York Academy of Sciences 999(1):58-75, DOI:10.1196/annals.1284.006) なども大変興味深い研究ですので参考まで。
扨て、微分音を取扱う上で《協和音程の複音程化》および、その《複音程の等音程分割》という方策はとても重要になります。例えば「完全四度」という、調性の側からすると最も低位に扱われる完全音程の協和音程ですが、12EDOの単音程のサイズである500セントであるそれを複音程へ還元させれば、次点で生ずる複音程の場合は元の音程に1200セントを加えれば良いので「500+1200=1700セント」という複音程を想起する事が可能となります。
次に、1700セントという複音程を《等音程分割》してみる事にしましょう。仮に2分割を想定すると単位音程は850セントとなり、これを《微分音を配する為の分水嶺》として利用する音程とします。
単音程である500セントを得ていた時は、主音と下属音との音程を想定していて得られていた音であり、同様に主音からの音程を見出す事が可能な様にして、原調の主音から上方に対して《短六度と長六度の中間》となる四分音律上に850セントとなる中立音程としての脈絡が定まるので、茲に「Cメジャー」とは別に「Aセミフラット・メジャー」という長三和音を新たに置くと、四分音を視野に入れる事となるポリクロマティック・コードが生まれるという事になるのです。
先の様な「分水嶺」は幾らでも想起する事が可能ですが、最良の手段としては「協和音程の複音程化」という所にあります。
そこでの《協和音程》が意味する事というのは、オクターヴと同度を除いた完全音程(=完全五度および完全四度)を筆頭候補として使用するという事であり、次点で《不完全協和音程》である長・短の三度/六度も想起しても良いでしょう。
唯その場合、不完全音程を視野に入れる以前に、用いる音程が不協和音程にはならない純正音程を視野に入れると、非常に多様で響きに富む音脈を呼び込む事が可能となります。そうした例として挙げられるのが自然七度(しぜんしちど)であり、不協和音程であるのに純正的な響きを得られるという単音程の不思議な《純正音程》であります。
自然七度を複音程化すると直近のサイズは自然十四度となります。それは自ずと「969+1200=2169セント」という複音程のサイズを想起する事となり、これを任意の音梯数として等音程分割すると興味深い結果を生ずるので、これに関しては後ほどあらためて詳述します。
扨て、協和音程の複音程化とは異なる興味深い別の脈絡も存在するのであり、完全音程や不完全協和音程に隣接する《微小音程》いうのがそれであり、そうした微小音程を強固な完全音程や不完全協和音と同時に鳴らすと「うなり」というビートを生じるものの、とても「柔和」な揺らぎを得る物であります。
古くから知られる「グレイヴ(grave)」という音程があります。主音から上方に数えた場合680セント付近に生ずる物で、純正完全五度から見るとそれよりも低い方に「ウルフ」として聴こえる音程であり、調性社会では避けられた物です。同様に純正完全五度よりも高位に現れるウルフも存在はするのですが、それについては今回述べる事はしません。
手前味噌ではありますが、以下の私の譜例動画デモでは、グレイヴを複音程に引き伸ばした上で、複音程の等音程分割と共に用いている音を聴く事ができます。これが耳障りなウルフとして聴こえる方が居られる場合、是非とも私にお声がけして下さいます様お願いします。
上掲デモのタイトルには《九全音》という1800セントを明示しているのですが、元は三全音を複音程化してはいるものの、脈絡としては「1200+600セント」と単音程の時の不協和音程を固執して考える必要はなく、もっと柔軟に「1800セント」を捉える方が好いでしょう。
複音程化しよう物ならこれ見よがしに、1800セントを「700+1100(完全五度+長七度)」或いは「969+800セント(自然七度+短六度)=1769セント」という1800セントとの四分音的な近似値へ均されると解釈しても好いでしょう。後者は特に、「協和音程+不完全協和音程」とは異なり「純正音程+不完全協和音程」という脈絡で微分音を使っている訳であります。
こうして、完全音程を純正音程に変えて使うという方策にする事も可能であり、これは《純正さ》を利用して用いているという訳である物です。そうする事で、等分平均律的な脈絡よりも響きがより純正ですので、生硬さが無くなり、より響く音を導く事にも繋がります。
半音階での「短二度」または「増一度」という不協和音程を耳にすると速いビート(うなり)が聴こえますが、その速さ故に鋭さが増しており、生硬な音になる物です。しかし、短二度および増一度よりも狭い微小音程はその鋭さが軽減されるので、柔らかなデチューン効果を生ずる物です。
思えばペンデレツキの『広島の戦没者に捧ぐ哀歌』で用いられる四分音による微分音クラスターは、譜面上では塗り潰される黒い音塊のそれが見かけとは裏腹に、蛍光色かの様な色彩感を伴って柔和で「化学的」な音に聴こえるのが不思議な所です。
実際に、四分音のクラスターというのは非常に電子的・人工的にすら聴こえる物でして、柔和なそれがまるでネオンの様な色彩が音となって表現されている様な感すらあるので微分音の不思議な側面でもあります。
微分音という通常の12EDOという尺度からはぐれた中立音程とやらを、ごく平凡な音楽観しか有さない者にとって必要なものなのか!? と疑問を抱かれる人も居られる事でしょう。通常(=調性社会)ならば「音痴」な音脈であるものの、使い方次第では「虚ろ」「卒倒感」「金属音」「非自然的」「環境音」の様なエフェクティヴな音世界にも聴こえるのであり、その音の最たる魅力的な装飾としては前述の通り《虚ろ》に聴こえる事ではなかろうかと思います。
私の過去のブログ記事でも再三再四かまびすしく語っている様に、マイケル・ブレッカーはマイク・マイニエリのソロ・アルバム収録の「I’m Sorry」でも短六度と長六度の中間に位置する中立音程を明確に用いておりましたし、音階上の主音または当該コードでの根音から上方に数えて850セントの音脈を分水嶺として用いるのは矢張り複音程が視野に入っているからであろうと思われる物です。
両曲に用いられる「850セント」という微分音の脈絡が何らかの複音程からの等音程分割だと仮定しますが(せざるを得ない)、そこで真っ先に想起可能な複音程は1700セントというサイズとなります。
この音程は1200+500セント=完全八度+完全四度という複音程とみなす事が可能(これを恣意的な複音程として見れば「1100+600セント」という事でもあるがその場合、何れの音程も不協和音程同士から得られる脈絡であるので候補から棄却される)な物であり、完全四度という調的な世界の側では最も半音階的社会に寄り添う音程を呼び込んだ上で微分音の材料として持ち来しているという状況が見て取れるものです。
微分音を材料とする先駆者達のそれらの脈絡には、聴き手が直ぐに峻別出来てしまう様な所におめおめ存在させていない所にあらためて畏怖の念を抱かざるを得ません。
中立音程というものを調的な側面から見れば、全てが埒外な音脈であるのですから総じて《取るに足らない音》とも思われる人も居るかもしれません(☜多くて当然)。
とはいえ協和音程の近傍で中立音程を用いるならば、完全五度の近傍で完全五度よりも50セント高い音を用いる状況は協和的な重力として完全五度音程の方が優勢であるのだから、その重力に負けかねない中立音程は矢張り「音痴」にしか聴こえないのではなかろうか!? と思ってしまいかねないでしょう。しかし是亦使い方によっては虚ろで甘美な音に聴こえてしまう訳ですから微分音の不思議な所です。
微分音の捉え方については音楽的素養でも相当変化するもので各人各様なものでもありますが、今回私が提示するポリクロマティック・コードのそれは、素養の有無を問わずして音響的に作用する音として聴こえる様に工夫を凝らしてはいるので、微分音はおろか半音階の感得すらままならない様な人にも不思議かつ美しい新たなる色彩として耳に届く様にはしているので後ほど耳にしていただきたい所です。
扨て《調的な重力》とやらに負けじと存在する中立音程は他にも存在し、特に完全一度または完全八度という絶対完全音程と称される音程の近傍に位置する中立音程の存在というのは、その圧倒的に優勢であろう調的重力に負けてしまう程度の存在にしか過ぎないのではないか!? と皮相的理解におよぶ方も少なくありません。
然し乍ら実際には、調的な重力に負けじと美しく響かせる事は可能であるのです。例えば、長七度と完全八度の間に位置する《主音あるいは和音の根音から上方に数えて1150セントに位置する》中立音程をヴィシネグラツキーは「クォーター・トーナル7th」と呼びますが、トーナルに極めて近い所に位置する七度音と呼び乍らも協和からは逸れる、使い様によってはこれも美しく響く音程です。これも後ほど例示する事にしましょう。
茲でひとつ、誤解して欲しくない事があるので注意喚起として述べておきます。これまでの文中にて私の表現する言葉の《美しい》という表現は単に私の主観でしか無いので、その美しさとやらが他の方が受け止めるそれとは全く異なる筈なのに、私の主観で意思決定をするのは本来なら好ましくない表現です。
私の意図する《美しい》という表現のそれは、通常ならば《音痴》として聴こえかねない音脈ですら固定概念を払拭可能なほどに受け止める事のできるであろうという状況を、聴取者個々人の先入観とは裏腹に心地よく受け止める事が可能という推測の下で《美しい》と表現しているだけに過ぎないので、その辺りは誤解なきようご理解願いたいと思います。
それでは、ポリクロマティック・コードの例として私がYouTubeの方にアップしているふたつの譜例動画を元に解説して行く事に。まずは「12&24EDO」について述べて行く事に。
このデモ曲は雅楽『越天楽』を引用しつつ、冒頭2小節から16分音符のシーケンス・フレーズで始まる「E♭m7(11、13)」という、長九度オミット型の副十三和音──いわゆる不完全和音(※不完全和音とは3度音程で充填されない構成音を生ずる和音)──でもあり、仮にこの不完全和音の和音構成音が満たされていない長九度音が充填されれば完全な「ドリアン・トータル」という、長音階上のⅡ度をルートにした全音階の総合という総和音の型ともみなす事が可能な和音となります。
先の「E♭m7(11、13)」が3小節目では「F♯△/E7sus4」と進み、4小節目では「Fm7(13)」という風に推移しています。中でも3小節目での「F♯△/E7sus4」は12EDOの状況下でも複調状態のポリコードとなっており、複調が更に微分音社会を誘引しようとしている事となります。
ポリコードとしてではない単一の調域に生ずるコードのそれも、属和音以外の「副和音」が三全音の包含を忌憚なく用いているという状況も存在しうる事を勘案すれば、決然と調性に対して靡こうとはしていない強い意志の表れとも解釈しうる状況であるので、その調域でのコードが、複調を視野に入れたり或いは「調性の強い呪縛」を暈滃させる為に微分音組織をも誘っている状況がある事を考えれば、微分音の取扱いを楽に考える事が可能だと思います。
所謂「○○トータル」と呼ばれる全音階の総合という和音は、[ドレミファソラシ] の全ての音が和音構成音として充填されている状態なので、機能的にはトニックもドミナントもサブドミナントも全部混ざっている状況でもあります。
そこに如何なる全音階上の音度= [I, Ⅱ, Ⅲ, Ⅳ, Ⅴ, Ⅵ, Ⅶのいずれか] をルートとするコードとした所で、それは必ず三全音を包含する構造となっております。
そうした構造に於ける調的社会観を強く押し出す側からすれば、全音階の総合となる和音は結果的に、属十三和音の転回形として根音を取り違えただけと判断する事もあるものですが、これは調性という強い呪縛に靡いた時の見渡しでしかありませんので紋切り型で遵守する必要もないでしょう。
全音階の総和音の中で最も調的な呪縛から解放されやすい型は、下属音をルートとする時のリディアン・トータルであります。この和音にはアヴォイドとする音が現れないので和声的には安定したまま三全音の包含をするだけの状態である訳です。
同様に、全音階の総合を下属音を基準にした時は、中心軸システムを視野に入れ乍ら「等音程」という音程分割を12EDOの世界でも用いる事が出来ます。
これは、ハ長調の下属音から基準にした時の例を参考にすればお判りになる様に、[ファ・ラ・ド・ミ・ソ・シ・レ] に内含される三全音 [ファ・シ] は自ずと《複音程》へ引き伸ばされる因果関係に依り、全音階の総合としてその地位をぎりぎり保ってはいるですが、12EDOどころか微分音社会にも影響を及ぼす因果関係に近付くという意味でもあるのです。
12EDOに於てセリー(=十二音技法)とは異なる操作で半音階もしくは超半音階(微分音)を誘引しようとするのであるならば、三全音を大前提として積極的に用いる事になりますが、調的に三全音を利用しようとするとドミナント・コード感を強くしてしまう為、ドミナント・コード体系とは異なる誘引材料で半音階組織を呼び込もうとする為には何らかの恣意的な操作が必要となります。そうした事から下属音を基準にした全音階の総合を措定する場合、
●三全音を念頭に置く
●中心軸システムを視野に入れオクターヴの等音程=すなわち短三度等音程を念頭に置く
●1オクターヴを「完全五度音程×12」として見做す。完全五度を「V」とした時の「12V」を念頭に置いた時、「12V÷4」=「3V」=「1オクターヴ+長六度」というサイズの単位音程を考慮に入れる
●単位音程は3・6・9・12Vという風に12EDOの中で考慮に入れる事が出来るので、これらが中心軸システムに合致しているのは自明
これらの前提を念頭に置いた時、下属音から「6V」となる音程は三全音ですから、長音階基準では導音の位置になる事を示し、これを新たな基準として「V」或いは「1/V」という音程を堆積(※「1/V」は自ずと陰影分割となるので完全四度である)させて半音階の脈絡を得るという訳です。
更に約言すれば、[c] を基準とした下属音 [f] の三全音 [h] を新たなる基準とみなして、そこから完全四度を「1/V」として用いれば [h・fis・cis・gis・dis・ais・eis (f)・his (c)・fisis (g)・cisis (d)・gisis (a)・disis (e)] を生むという事を意味します。
即ち、12EDOの世界でクロマティシズムを強化するには「12V」という音程を完全四度で砕く事が半音階的社会を呼び込む材料となりうるので、完全四度堆積のクォータル・ハーモニーが半音階的社会と近しい関係になるのはこうした因果関係が備わっているからであります。
そうした方策から《導音》の位置を全音階と半音階との分水嶺と見立て、更には導音から完全四度を体積させたクォータル・ハーモニーを得るという脈絡を用いる事ができる様になるのですが、私は導音を基準にクォータル・ハーモニーを形成する時は、完全四度を上方ばかりに積むのではなく下方にも累積させます。これについては以前にもブログで語って来ている事なので、完全四度をキーワードにブログ内検索をかけていただければ当該記事を見付けて来れるでありましょう。
更に、微分音という社会にまで視野を拡大させた時、先の「12V」という完全五度音程を12回堆積させたオクターヴを等分割させる単位音程「3V」を例に挙げれば、その「3V」を更に2等分すれば「2100÷2=1050」という風に、短七度と長七度の間の中立音程を分水嶺として見てコードを充てる音脈を得る事にも繋がる事にもなるのです。
勿論、等分割の数は任意に用いる事が可能なのでありますが、その数が多過ぎても机上の空論になりかねないので、概ね「2〜9」以内に分割する位に留めておいた方が使いやすかろうと思います。私の場合は「5等分」以内で使う事が多いですが、色々試されると好いでしょう。
斯様な《オクターヴ》或いは《任意の協和音程・不完全協和音程》を複音程化して還元する方策というのは日本語では上手い事言い表す事ができないのですが、セサレスは更に進んでおり、「12V」を700セントという平均律完全五度の12回の累積と捉えず《純正完全五度を12回累積》させた──即ちシントニック・コンマを備えた──構造を《擬似オクターヴ》と呼んで解釈した上で、それを1200セントの近傍と扱い乍ら、1オクターヴのサイズを1224セントとして還元した上で、擬似オクターヴを音程分割の為の基準として用いる方策についても述べております。
結果的に1224セントを54等分すればトルコの九分音を生むのであります。余談ではありますがトルコの53平均律という53単位音程は「53」単位音程=《コンマ》が現代社会のオクターヴに位置するに過ぎず、実際には54コンマを標榜しているので、オクターヴを超越する訳です。
シントニック・コンマよりもピタゴラス・コンマよりも僅かに広いホルドリアン・コンマと呼ばれますが、トルコの九分音はそうした背景があるという事を知っていただきたいと思います。彼らの場合、オクターヴを跳越しても問題はないのであり、音律という分類が本来標榜する54単位音程を53単位音程というサイズに狭めて分類した方が合理的な分類となる、という風にされているだけだという事です。
これまで述べている《複音程への還元》という言葉も、不完全協和音程を含む純正音程或いはオクターヴ=1200セントという所を1224セントという値へ変換すれば、更に面白い微分音の音脈を得られるという訳です。
無論、私個人としては微分音の導引については色々な方策を試みており、今回はあくまで一般的にも解りやすい様に、オクターヴを跳び越す擬似オクターヴではなく、1200セントという完全音程を基準に微分音やらの複音程還元を語っているので、あらためてその辺りは誤解なく理解していただきたいと思います。
扨て、ドリアン・トータルはリディアン・トータルの次点として調性の呪縛が弱い総和音であると言えるでしょう。ドリアン・トータルという、全音階上では [レ・ファ・ラ・ド・ミ・ソ・シ] を形成する和音もリディアン・トータル同様に三全音が複音程へと引き伸ばされている構造となります。3度音程を堆積させる他の全音階上の総和音ではこうした三全音の複音程化は起こり得ません。
加えて、ドリアン・トータル上で生ずるマイナー・コード上での「♮13th」音は、そのコード自身の3rd音と三全音を成立させる事により、重畳しい和音の堆積はジャズを標榜し乍らもその実、機能和声を基本としてアヴォイド扱いとする撞着を招くのは滑稽な体系でありますが、真に調性に靡いての判断であるならば短和音というのは全音階的(ダイアトニック)に三度上方にある長和音の機能を代理するという所まで視野を広げなくてはいけません(※Ⅱ度上に生ずる和音は、その三度上方=Ⅳ度の和音機能を代理=カウンター・パラレルというのが調的な原則)。
即ち、リディアン・トータルが包含していた三全音が和音構成の上からアヴォイドを形成せずに安定的な所から調的な呪縛から「ほぼ」解放される振る舞いを見せている事に隷属している状況でもあるので、リディアン・トータルの次点としてドリアン・トータルで持ち来たされる「♮13th」という物は調的な意味でもアヴォイドを希釈させると判断可能な物なのです。
過去の私のブログ記事でも書いておりますが、リディアン・トータルとドリアン・トータルの両者が包含する三全音のそれに対してそれほど強く忌避する必要がないという理由は、和音の基本形の状態に於て三全音は複音程化されるからです。
つまり三全音ではなく「九全音」という「1オクターヴ+三全音」という音程の姿へ「希釈化」され、上音に3つの長三和音( [ファ・ラ・ド] [ド・ミ・ソ] [ソ・シ・レ] = [4・6・8] [7・9・11] [11・13・15] を連鎖させている構造なので、上音の存在も際立つからでもあります。
そうした《希釈化》という言葉にピンと来ない方も居られるのは重々承知なのですが、音程比として何某かの因果関係を念頭に置いた上で生ずる「高次」の数値というのは、それよりも低次となる数を内包する状態に晒されていると考えてほしいのです。
例えば、音程比として生じた「9」という数の音があったとします。音程「8」はオクターヴの相貌の繰り返しとなる姿のひとつですから、それより大きい音程は自ずと「1・2・4」から見た複音程となり、その上で「9」を更にオクターブ相を複ねた「18」という数に置換したと仮定してみましょう。
この複音程化は、もうお判りの様に微分音を成立させる為の分水嶺として導出させた《複音程の等音程分割》のそれに投影しうる複音程化としての姿なのです。
仮に「18」という自然数の値を等しく4分割、或いは5・7分割した時のそれらの音程比として自然数を導いておらずとも、最終的に導く解は小数点で表される「非整数次」となる状況を生み出すという事はお判りいただけるかと思います。
三全音という調性の呪縛として君臨する音程が複音程として引き延ばされる状況は、等音程分割という状況に晒されやすい運命を持つと考えれば判りやすいでしょう。
そうした事から調的な呪縛が希薄となる状況をみるに、一部の全音階の総和音(リディアン&ドリアン・トータル)は半音階的音楽観は固より微分音社会をも視野に入れた脈絡を感じ取る事になんら違和を覚える必要はないという事です。無論、半音階社会に対して一定以上の素養を身に付ける事が第一に必要となるのが前提ではありますが。
とはいえ、私が最初にブログで総和音を語った段階では、とてもじゃありませんがまだ微分音を視野に入れて語る様な順序で話を進めていない訳です。微分音を話題にしようとも楽譜でそれを明示できるのはNovemberフォントくらいしか存在しなかった位です。あとはせいぜい、嘗て愛知県芸大でも教鞭を執られた豪州の現代音楽家アンドリアン・パートゥー氏が独自に制作していた 'Microtonal Accidentals' フォント位しか存在しなかった物です。
そうしてSibeliusの 'Opus' フォントが微分音表記を強化し、Novemberフォントの開発者ロベール・ピエショー氏の功績もあり、Novemberのフォント・グリフ・スロットに倣う形でSteinbergがSMuFL開発を表明し、その後リリースされた 'Bravura' フォントで微分音変化記号は一気に拓けたのであります。そこで待ってましたとばかりにフランスのSymétrie社からパスカーレ・クリトン氏が編纂したヴィシネグラツキーの 'Libération du son' が上梓され、刊行物として微分音変化記号が大手を振って日の目を見る様になったのが2014年の事です。
SMuFLフォントが使われた刊行物を目にしたのは私が知る限りでは最初の書籍であったのですが、ネット(画面)で見るよりも印刷物として見る 'Bravura' フォントの存在感には、印刷物としての視認性が非常に高いと当時から感じたものでしたが、そうした微分音にまつわる背景などをまとめて語る為には順序と時間が必要でもあったのであり、今ではこうして過去を遡って俯瞰して語る事が可能なのでまとめて話題にのぼらせる事が出来るのであります。
扨て本題に戻り、1つ目のコード「E♭m7(11、13)」に異なる基準ピッチの体系の側が四分音律としてみなしうるコードとしてスーパーインポーズされる状況を「原調」の側から照らし合わせてみましょう。
茲でスーパーインポーズされるコードは「Aセスクイフラット△7(♭9、♯11)」という風に四分音律で見る事の出来るコードとなります。
音度を無視して考えれば《メジャー7thコードに♭9thと♯11th音が付与》という6音の和音が、[es] をルートとするコードから見て450セント上方に新たなルートを採るコードがスーパーインポーズされているポリコードという風に見る事が出来るという訳です。
450セントという音程はヴィシネグラツキー流に倣えば「短四度」とも呼べるものですし、他の呼び方としては「スーパーメジャー(supermajor)」という呼び方もあります。後者の場合はハリー・パーチらに倣う呼称でありますが、何れにしても嘗ての「不等分十二平均律」という古典調律が有していた「減四度」の音脈に等しい物です。
ヴィシネグラツキーの呼ぶ「長四度」「短五度」というそれらの名称は、《完全音程からの増減を正しく表していないのではないか!?》と疑問を抱く方も少なくないかと思われます。
然し乍らケプラー以前の時代にまで遡ると、完全音程である完全五度でも「長五度」などという名称が使われていた位ですので、現在の楽典だけの視点で全てを見てしまうのは危険でもあります。とはいえ、これが音楽学の試験であるならば、現代の楽典に則って理解すべきものではありますが、過去の史実も私のブログ記事も試験ではありませんので、その辺りの《幅》を持って音楽の歴史を俯瞰していただければ之幸であります。
先行研究を重んじるからこそ現代がある訳で、先行研究や過去を詳らかにする事で新たなる発見は固より《伝統の異化=defamiliarization / dissimilation》という風にして、先蹤に敬意を払い(=先蹤拝戴)乍ら、現今社会に新たな先鞭をつける研究はあるもので、それは、先行研究の出典を自説の補強の為に使う際に多くの分野でも見られる手法であるので、決して誤りではないのです。
12EDOの社会でも、短調(マイナー・キー或いはドリアン・モード)を基に高次なハーモニーを企図している人々は、主音を規準に音階外で生ずるメジャー3rd音(上方400セントの音)相当の音を「減四度」として用いる事も珍しくありませんが、過去の私のブログ記事でもスティーリー・ダンの「Black Friday」やYMOの「Stairs」での減四度の使用例を示した事があるので興味のある方はそちらを確認していただきたいと思います。
孰れにしても、短調にて減四度という音の出現は突拍子もない音と思われるかもしれませんが、半音階を追求した世界観を巧みに演出するとマイナー上に現れる「恰もメジャー」の音は決して変な音ではないのです。
斯様な例もあり、そうした「マイナー上のメジャー」よりも更に高い所に位置する主音から上方450セントという脈絡は、ある意味で「真なる減四度」という状況でもあり、この450セントという音度が分水嶺と成している時のもうひとつの音組織の脈絡となり、そこで全体を俯瞰するとポリクロマティックとなるコードが多彩な色彩を生じているという状況であるのです。
極言すれば、原調となる12EDOから逸(はぐ)れた音度を基準に新たなる音組織による12EDOでのコードをスーパーインポーズさせれば、不思議な音響効果を生じさせるには十分な響きを得る事と思います。その不思議な響きを「強化」させるという点で重要な要素は、通常の調的な世界観からはアヴォイド・ノートとなる音を添加するのはとても重要な選択となります。
例えば2つの異なる基準ピッチの12EDOを用意したとして、各々の音律の上でどちらか或いは双方にてアヴォイド・ノートを持つコードを鳴らした場合、それらを俯瞰すると異なる次数で生じている倍音としてみなさない限りはそうした音脈を倍音由来の音として判断はできない複雑な響きになるという訳です。
とはいえ、通り一遍のコード構造が何某かの上方倍音由来から整備されている事を鑑みれば、上音との因果関係が無い様な音でも何某かの倍音に近似する様にはなるでしょう。そうした脈絡が低次ではなく高次倍音の脈絡として見られるとは思いますが。
その他の脈絡の場合は非整数次倍音として処理せざるを得ない脈絡であるのですが、オクターヴ内或いは協和的な音程内に生ずる「非整数次」的な脈絡は、その経路が等音程でない限りは、オクターヴをも跳び越す体系に於て生ずる非整数次としての姿として遭遇する事が多かろうと思います。
扨て、茲から四分音の話題が多くなる為、その前提知識のために四分音のドイツ語音名を例示してみようと思いますが、私は過去にゲオルギー・リムスキー゠コルサコフの音名を挙げた事もありましたが、今回はEkmelosフォントを頒布するEkmelic Musicが提示する音名を利用しようと思います。
今一度、先の譜例動画での「E♭m7(11、13)」にスーパーインポーズされる音を詳らかに見ていこうと思いますが、因みに [es] から見た [deh] というのは主音から上方に950セントの音脈であり、この音程は長六度と短七度の間の四分音梯として現れるものです。
それは自然七度≒969セントの近傍として多用される四分音でもあります。ヴィシネグラツキーも24EDOに於てはこうして丸め込みで自然七度を解釈しているので、私の好悪で判断している脈絡なのではありません。この950セントというサイズを複音程に還元して、1900セント「完全八度+完全五度」を得つつ当該音程を等音程分割しているという脈絡という風に見立てるという訳です。
同様の等音程分割の脈絡は他にも見られ、[es] から見た [gesih] は長三度と短三度の間にある350セント相当の位置するもので、これは一般的に中立三度と呼ばれる物です。この脈絡を詳らかにすると、態々そこに複音程を還元する必要はない程の協和音程である完全五度が2等分されている音脈であります。純正音程的に捉えても、自然七度(969セント)+純正長三度(386セント)を4等分した時の近傍でもあります。
更に、[es] から見たAセスクイフラット= [aseh] は、減四度相当にあるヴィシネグラツキー流に言う所の「短四度」であり、これも先述の通りです。同様に [c] よりも50セント低い事を示すCセミフラットである [ceh] は、[es] から上方に850セントとなる音脈であり、複音程1700セントを視野に入れた時の等音程分割(2等分)の音脈である事は明らかです。
加えて、更に上方にはBセスクイフラットである [heseh] とDセミシャープである [diseh] を生じています。前者は [es] より650セントという音脈であり、謂わば真のブルー五度となる音脈でもあります。後者の [diseh] は [es] よりも上方1150セント/下方50セントという音脈であり、長七度と完全八度の中間に位置する中立音程クォーター・トーナル7thと呼ばれる大変重要な音脈であります。
無論、茲での《重要》という意味は、ポリクロマティックな状況下に於て特に色彩感が増すであろうという音脈でもあり、とても強い協和音程(=絶対完全音程)の近傍であるという所も拍車をかけた状況ですので声高に語っているという訳です。
斯様にして、元のコード「E♭m7(11、13)」の根音から上方350セントを別系統の音脈が生ずる分水嶺として見立てて「別体系」となるコードをスーパーインポーズさせているのですが、四分音的なポリコードとして成立させている事に依り12EDOとは全く異なる色彩として聴こえるのでありまして、そうしたポリコードが相互に上手い事作用するにはアヴォイド・ノートを散りばめる事で、調的な響きに寄らずに色彩感を強める事ができるという訳です。
更に付言すれば、原調側となる音組織で現れるコードのそれが「長九度音オミット型」とは雖も、それは単に、副十三和音のひとつであるドリアン・トータルとしての断片の姿であります。
また、調的な世界観から対照させればマイナー・コード上の♮13th音とマイナー・コードの♭3rd音とは単音程に還元・転回した時に三全音となる為に回避され易い音程で、機能和声的にはアヴォイドとされる音でもあるというのはこれまでも過去の記事でも何度も述べて来ている物ではあります。
とはいえ、ドリアン・トータルが内含する三全音というのも実際には九全音という複音程に引き延ばされている関連性でしかないので、複音程という状況は調的に眺めさえしなければ様々な方角からの音脈に晒される物となります。複音程を導いた事により強固な協和=調的な重力の関与が和らぐと解釈すれば伝わりやすいでしょうか。
なんとなれば、自然七度という自然数の音程比となる4:7となる、不協和音程であり乍ら《純正音程》という状況というものがオクターヴ高くなれば、4:14という複音程となり、奇数の音程比から偶数の比率となるので、オクターヴという累乗が介在する事によって、その「奇数」という強固な個性が倍音の世界から見つめた時の次数からは弱まる因果関係となる訳です。
そうした関係から複音程化された音は、他の外的要因=音程分割に晒されやすい状況となるのですが、多くの「従順」な人々は調的に靡いたり、或いは12EDOとは異なる音律体系を用いようとしないので、複音程化された音も新たな音脈を掘り起こされる事のないままに等閑にされているのが多くの音楽の実際なのであります。
然し乍ら、そうした状況に目敏く微分音の体系や不協和を臆する事なく使おうとする輩がひとたび複音程を見つけると、12EDOに当てはまらない音程分割を企図する訳です。この音程分割は古くは不均等でもあり、純正音程の綻びを許さない人は「不等分」に分割する訳ですが、純正音程そのものに拘泥する事なく「均齊」に目を向ける人は音程分割も等分割するという訳です。
純正音程に注力し過ぎても軈ては等分割が視野に入り、均齊の側も純正に寄ろうとする志向性を発揮しようとする事もあります。これらの中庸は結果的に均齊であるので、私は均齊を最初から念頭に置いているというアプローチに過ぎないのです。
加えて、「E♭」から上方に350セントという音脈は先述の通り「自然七度+純正長三度(1400セントの近傍)」を4等分した単位音程のひとつとしての1単位音程なのであり、中立音程を視野に入れた単位音程を利用するならば3単位=1050/1400という音程に音脈を見付けても構わないのです。
今回の私の例は、複音程からの複数の音程分割として容易く得られる最小の微分音を「1単位」という音梯となる中立音程を生じさせているに過ぎず、その音梯のみ(=1単位音程のみ)を例にデモを作っているだけなので、微分音に用いるべき単位音程は必ずしも1単位で無くてはならないという訳ではありません。
但し、1400セントを4等分した時に得られる2単位音程=700セントは、平均律完全五度の音脈でしかないので、微分音を視野に入れた状況下で手垢の付きまくった五度音程に分水嶺を見出そうとするのは莫迦気た行為でしかないでしょう。単位音程がどういう中立音程を生ずるのか!? という事を念頭に置いた上で取り扱うのならば1単位音程に拘る必要は無いのです。
例えば、九全音=1800セントを5等分させた場合、2単位音程=720セントは調的には不快なウルフを純正完全五度よりも高位に得る減六度に近しいものですが、複音程へ還元し乍ら「原調」の側の《調的な》和音構成音との間で著しく不快なウルフを生じさせない工夫ともなり、それもまた乙な材料となる事でしょう。
ややもすれば、《微分音を得る為の「近似値」とやらは、それほどまでにざっくりとした捉え方で好いのか!?》と疑問を抱かれる人も居られるでしょうが、古代ギリシャから大家達が見付けて導引した微小音程(微分音)というのも史実的には《大ディエシス》と呼ばれる音程の解釈からマルケット・カーラの五分音に始まり、正則中全音律が生まれ(※31EDOは中全音律に靡いている)、ジュゼッペ・タルティーニが六分音(三分音)として解釈したり、後人が六分音を自然七度に均して解釈したりと、西洋音楽では斯様な《伝統の異化》が今猶続いて用いられているという訳であります。
扨て「トリターヴ/トライテイヴ(tritave)」という音程は、複音程である純正完全十二度音程の事でありますが、ボーレン・ピアース音階を視野に入れずとも、完全十二度音程というのは古くは対位法書法でも重要な音程でありましたし、何より隣接し合わない自然数の音程比としての「1:3」は、隣接し合う自然数「2:3」という音程比よりも明澄度が高い=協和度が高いという事を発見したのはオイラーの功績の一つでもあります。
近年でもラミ・シャヒン氏はトリターヴの事をオーバー・トーナル5th(over tonal fifth)と称しており、とりわけ複音程化した音程構造というのは注目される物です。
涯扨て、何故注目されるのか!? というと、例えば奇数次倍音だけを拔萃した場合、それら各々の部分音(=パーシャル)は偶数次倍音とは何ら因果関係が無い物です。換言すれば、オクターヴとは埒外となっている相関関係である訳です。オクターヴの相貌は自然数として1から2:4:8:16:32:64…… という風に累乗していく訳ですが、奇数次倍音の群がそれらに合致する事が無いのはお判りであろうと思います。
ところが、奇数次倍音を複音程化=つまり倍化させれば途端に偶数となるので、オクターヴの相貌に合致せずとも、奇数ではなくなる事でその音程比は「新たなる基準」となるサイズの物として元の体系に寄り添い乍ら存在する事にもなる訳です。
例えば、音程比「7」という物を拔萃した時、それを「14」に倍化(複音程化である)させるとこれは偶数に転じ、元の体系での奇数という存在で刺々しく存在していたそれとは確実に変わります。同時に、この偶数へ転じた《複音程》は「何らかの」音程分割の為の存在として新たなる基準を生む事にも貢献しうる材料となりうる物なのです。更に「14」という音程比を4等分してみた時、そこには自然数ではない単位音程「3.5」を得ますが、非整数次の音脈を得たという事は判るかと思います。
そのような、元の体系から対照させた音程が非整数次であろうとも、この新たなる音程比が元の体系とは異なる体系での《新たなる基準》であるに過ぎず、それぞれの基準は調的な意味では則っている訳です。
そうした基準での《元の体系》に加え《新たなる体系が併存》したそれらで齎される世界観となる音が著しく世界観を乱す様な併存とはならなければ、これはもう微分音の世界観として《あるべき姿》へと変容した訳で、異なる音律やらの併存で得られる「音響的」な音の成立はひとまず成功したという事になるでしょう。
もう少し附言するならば、新たな体系を元の体系での尺度で見た時の「3.5」は、新たなる体系での「1」であるかもしれません。3リミットや5リミットなどの世界観を思い出して下さい。その 'nリミット' となる数値は「3」「5」など幾らでもその基準を当てはめる事は可能でしょう。この様に喩えれば、異なる体系の併存の妙味があらためて理解しやすいだろうと思います。
或る単音程の複音程化は、アイメルト、エンケル、バイエル、ウェルナー・マイヤー゠エップラーというケルン派で知られる錚々たる顔ぶれがシュトックハウゼンと共に1950年には既に研究・検証が為され、その後の『習作Ⅱ』での音程比1:15の25等分という単位音程で形成された様に、複音程の分割は既存の調性から逃れる新たな体系を生み出す源泉となっている物でもあります。プリーベルクの著書『電気技術時代の音楽』では、入野義朗が著者を凌駕する程の脚注を加筆して訳しており、非常に参考になる事が多いので一読される事をお奨めします。
音律を取扱う時、我々は屡々「3リミット」「5リミット」やらの語句を能く見かけますが、この「nリミット」という言葉が意味するその数字はn次倍音を意味しており、その倍音を「規準(数式上の底)」とした体系であるという事を示した物なのです。
3リミットと言えば第3次倍音を規準とする体系ですから、自ずと純正完全五度の連鎖が規準となる体系を意味するのであり、5リミットと言えば第5次倍音=純正長三度を規準とする体系であるという訳です。同様にして7リミットの場合は自然七度を基とし、13リミットとなると第13次倍音を基とするという事なのです。
十二等分平均律の場合は、3リミットと5リミットの中庸となる平均化であるので、偶数時倍音すなわちオクターヴしか純正音程は存在しません。こうした例を引き合いに出すというのも、重要な示唆があるからなのであります。
古典調律および不等分平均律というのは、五度音程 or 三度音程のどちらかを重視する様にして形成されて来た歴史がある物なので、これらを等しく丸め込んでオクターヴ以外の純正を棄却したのが12EDOという訳です。
思弁的な意味に於て12EDOという「平均律」の音律は5リミット側の世界観に押し込められますが、3リミット寄りという風に判断する事が不文律であり前提でもあります。何となれば、12EDOという平均律は長三度・完全五度音程のどちらも慮らずに平均化させた音律であるからです。
然し乍ら多くの演奏の現実としての三度音程の採り方《特に長三度》は、純正長三度という低めの純正を採るよりも、大全音×2および純正完全五度≒702セントを「V」とした時の「4V」の単音程転回・還元での408セント(※これも整数比なので純正音程)の方が多用されます。
ソリストに依る無伴奏となれば長三度も純正長三度が現れるケースもありますが、多くの実態に即した例から対照させても、12EDO社会というのは実際には5リミットではなく3リミットを優位にしている体系でありましょう。然し、その3リミット基準の純正完全五度音程の累積でコンマを縮めている以上は3リミットが完全な地位を得ている訳でもないので、その辺りは誤解なきよう理解されたいところです。
扨てボーレン・ピアース音律(音階)は、'tritave' (トライテイヴ/トリターヴ)という純正完全十二度音程を13分割させた音律がそのまま同数字の音梯数というフォニックとしても用いられるものなので、音律の分割数と音梯数という音階の姿が一致する類の物です。この音律・音階はオクターヴを跳び越す単位音程を含んでいる為、オクターヴ回帰する普通の音律とは全く異なる体系となります。
オクターヴを跳び越す音律は大まかに分類すると「直線平均律法(Linear temperament)」という音律に分類され、オクターヴ回帰をしない螺旋音律として括られます。これに関しては田邉尚雄に詳しいでしょう。
小泉文夫を例にした時と重なってしまいますが、5EDOや7EDOというのも往々にして音律の分割数と音階としての数が同列に扱われるしまいかねない物ですが、こうした音律での音階は先述の通り前者をペンタフォニックと呼びます。ペンタトニックではないのです。同様に後者もヘプタフォニックと呼ばれるのであります。
ボーレン・ピアース音階は3:5:7の音程比およびその自乗を視野に入れているのですが、整数次による純正音程比で音梯数が割り振られているので、直線平均律法での不等分平均律というものに分類する事となります。
直線平均律法というのはオクターヴを超越する螺旋音律などに適用される音律の総称ですが、完全十二度音程というのも厳密にはオクターヴ回帰はしない物となるのです。直線平均律=リニア・テンペラメントとも称され、セサレスはこうしたオクターヴ回帰しないリニア・テンペラメントの類を ’n Cents Equal Temperament’ =(CET)という略称を充てております。
CETのひとつとして知られる物で「833cents temperament」という物があります。単位音程が833centsというオクターヴを跳び越す物ですが、黄金比が視野に入っている物で、黄金比スケールなどとも呼ばれる事があります。メキシコの現代音楽家ガブリエル・パレヨンが参考になる事でありましょう。氏はオーケストレーションから電話のベルまで、様々な「音」の状態をスペクトログラムで分析し、その「紋様」が人間にとっての協和との関わり合いを研究していたりするので大変興味深い物です。
扨て、クラリネットは閉管楽器でありますが、円筒菅の一方は自由端であり、もう片方は固定端であるという所が閉管楽器構造の最たる特徴を持っている楽器であります。片方の側が振動の自由を遮断される事により、固定端での音波は「節」としてゼロクロスを生ずる事になります。
『楽器の物理学』(Springer)p.490では、フレッチャーに依るクラリネットのスペクトルの図版が数点載せられておりますが、厳密な奇数次倍音のみが現れているのではなく、偶数次倍音も随伴させている事が判ります。
偶数次倍音を随伴させてしまう理由として、閉管楽器での奇数次倍音はその構造体の中でこそ奇数次のみ音波が振動するのであり、ひとたびその「気柱」という構造体から音が自由に放射されれば新たに偶数次倍音が生じる事になり、加えて、最も大きな要因はクラリネットの筐体自身が振動するので、これが外部に伝わり偶数次の振動を生んでしまう。とはいえ全体の音響は奇数次倍音が優勢に響きますけれども偶数次が現れないという事など決して起こり得ません。これがクラリネットのスペクトルの実態なのです。
偶数次倍音を生成したくないのであれば、音波の「全周期」を消失してやればいいので、機械的に「半周期」のみの音波を生成し、例えば矩形波(=方形波)の半周期のみの波形を使用してやれば厳密な奇数次倍音を生成する為の素材を《電気信号上》で得る事は可能です(※矩形波は奇数次の正弦波の集合とも見做しうる)。音波として野に放たれた時点で理想的な半周期構造は壊れてしまいますが、気柱という構造体では奇数次の音波は確かに厳密に生成されて運動しています。
スピーカーの振動に例えてみるとしましょう。静止している状況から始めると振動は、前方に迫り出すか後方に引っ込むかという動きになります。半周期をスピーカーで再現する事は出来ません。なぜなら、どちらかの「迫り出し/引っ込み」だけを振動させる状況となるので物理的に不可能となります。
嘗てヤマハからTX-81Zがリリースされた時は、半周期の正弦波などが豊富に用意された事もあり色々と試す事ができたものでありまして、現在ではDAWアプリケーションの中でそうした事に操作可能となったのですから隔世の感すらあります。
然し乍ら、そうして「理想的」に生成した奇数次のみの音も、DAWアプリケーション或いは機械回路内部で信号を確認する上では確かに厳密な奇数次倍音を生成するので、GUIが発達した現今社会に於ては、耳に届く《外界》の状況よりもついついコンピューター内の情報を重視してしまいかねない陥穽に嵌る可能性が高まります。
これが誰かの「耳」に伝わるまでの自由空間を媒介した時点で、厳密な奇数次倍音は偶数次も生成する事になるのですから、DAWアプリケーション上でスペクトルのそれが奇数次しか生成されない事を喜んだとしても耳で聴いた瞬間に、気柱を離れて放射される音波は実際には偶数次を随伴させ乍ら自由空間を音波は媒介する事に過ぎず、真の意味での厳密な奇数次の生成というのは理想的な幻として収斂してしまうのです。
鼓膜を振動させるそれも、都合良く半周期だけ抽出して振動する訳にもいかず、マイクの収音とて同様です。即ち、音という振動を電気信号に変換する時も電気信号から物理的振動に変換する時も全周期を随伴させてしまうという訳です。
無論、閉管楽器であるクラリネットも、随伴する偶数次倍音よりも奇数次倍音によるエネルギーの方が「優勢」な分布となる事で音色キャラクターを疏外する程の変化は起こさない、ただそれだけの事であって偶数次倍音は生ずるのです。
ボーレン・ピアース音律(または音階)の [3:5:7] という振動比が結果的に机上の空論となりかねないもうひとつの理由が、ミッシング・ファンダメンタルを視野に入れた時の属七への回帰。各振動数同士による差音は偶数次 [2・4] の連鎖を作る様になります。つまり結合差音が偶数次を暗々裡に得てしまうという事は、本来敢えて視野に入れる事を避けた偶数次の関連性を見付けてしまう事となり、[2:3:4:5:7] は転回位置にて [ド・ソ・ド・ミ・シ♭] を見る様な物なので、自然七度である属七の成分に収斂してしまう訳です。
音程比 [3:5:7] の差音の音程要素は以下の通り
第一次結合音 [5-3=2] [7-5=2] [7-3=4]
第二次結合音 [3-2=1] [5-2=3] [7-2=5] [7-2=4]
第三次結合音 [3-1=2] [5-3=2] [5-4=1] [5-3=2] [4-1=3]
結果的にこれらの結合差音は元の振動比を含み乍ら偶数次の差音を得てしまい、西洋音楽(島岡和声など)で顕著な「属和音の属音省略」の状況で差音を感じる事が暗々裡に属和音の機能を得ている事と同等となり、ボーレン・ピアースは茲に収斂してしまうという訳です。つまり、属和音の属音省略状態を極力「非機能和声」として無理強いする事には、音律・音階の音程を機能和声とは異なる単位音程を形成する事で初めて叛かれるに過ぎないという事を意味する.
また、そうした差音の成分は第一次結合音以外にも第二・第三…という風に連鎖して発生する物でありますが、結合音の位相が反転して逆相として励起する様な状況が体内で起こる事は有り得ません。この辺りの副次的な差音の発生は音楽分野ではヒンデミットの著書『作曲の手引』に詳しく述べられておりますので参考まで。
扨て、差音の逆相を無理矢理にでも励起させようとして非線形的な音響やらを人体に浴びせても逆相が生ずる事がありません。仮に人体が逆相を作り出してしまうのであれば、カリウムイオンの電位差に端を発する心拍のパルスなど、怖くてペースメーカーなど作れなくなってしまうでしょう(笑)。人体で逆相を生成せずに認識しないのは音波も同様です。
唯、音響心理学の分野に於て「逆相」が興味深く取扱われるシーンはあります。例えば片耳で正相信号を聽き、同時にもう片方の耳で逆相信号を聴くという場合です。
この場合、最終的に知覚されるのは「無音」でありますが、位相反転されている状況はそのままに両耳にホワイトノイズを混ぜると当初の位相反転されていた音は聴き取れる様になり、同時にホワイトノイズも聴かれます。こうした興味深い事実があるのは確かですが、位相反転という状況を体内で作り出してしまう事はできないので、電気要らずで逆相が生ずるという事も有り得ないという事は重ねて述べておきましょう。
差音というのは虚像とも言えますが、振動数的には実際にエネルギーは「ファンダメンタル」領域として発生するのであり、こうした差分が視覚領域であればモアレなどにも見る事ができ、電波を取り扱う際には実際の放送にて「ヘテロダイン変調」という現実に遭遇する物で、虚像と思えるそれも実際に取扱っているのが実情です。
また矩形波ひとつを取って見ても、矩形波を形成させるには先述の様に正弦波の振動数が奇数次となる部分音を累積させれば形成可能であるのですが、理想的な矩形波を得る為に整数次のヘテロダインを濾波するのが外部には見えない事が殆どである為、こうした工夫が為されて矩形波が成形されている状況を知らぬままに矩形波を取扱ったり或いはボーレン・ピアース音律などを皮相的に理解してしまうと陥穽に嵌るという訳です。多くの一丁噛みは前提知識に乏しい事が多く、新奇性のあるボーレン・ピアース音律などを近視眼的に見てしまうものです。
世の中は広いものでボーレン・ピアース音律で生ずる音程を転回還元《純正完全十二度音程回帰》型の音階に配列し直したボーレン・ピアース音階で調律されているボーレン・ピアース・クラリネット(BPクラリネット)というのも現実に存在(CDなどもリリース済)しますが、先述の様に、クラリネット本体の振動が偶数次を生ずる事に加えて、奇数次の振動数を重畳させてもファンダメンタル領域を無視できない事を思えば《ボーレン・ピアース調》を優勢にした音だけに過ぎない物なのです。
ボーレン・ピアース音律のそれは方法論と音組織が奇異である事を除けば、それほど大それた体系でしかありません。また、BP調を積極的に用いたエレーヌ・ウォーカーやSevishが偶数次倍音を伴わせているなどという風には捉えないでいただきたいと思います。その批判は現実を全く視野に入れていない愚かな判断で、あらためて今語っておきましょう。
固定端から解放された音波の運動が判っていれば、ボーレン・ピアース音律を単なる別系統の音楽的語法のひとつとして割り切っているだけに過ぎない事に気付いた上で彼らは演奏したり作品を発表しているのであり、それすら考えに及ばずにボーレン・ピアースの数学的な魔力だけの方面から礼賛する様な者に、こうした奇異な音階を使える訳がありません。
MeldaProductionのMMultiAnalyzerのパラメータには「Deharmonizer」というツマミがありまして、それは差音の成分としてのエネルギー分布を視覚的判断できる非常に便利な物です。DAWアプリケーションのクライアント・ソフトによっては、ヘテロダインに於ける差分のそれを使用者に意識させる事なくカットする様に設計されている物もあったりします。
ボーレン・ピアース音律は元来、純正音程を標榜し乍ら各音程が歪つな構造となっている物でした。その後等分平均律化される様になり、旋法化も齎す様に変化して来ましたが、私感ではありますが、策に溺れた体系の様にしか思えないのが実際の所です。衆人の耳目を惹くには十分な新奇性を備えているとは思いますが。
ボーレン・ピアース音律でポリクロマティックを形成した場合、ボーレン・ピアース以外の音律が完全音程を有する音律であった場合、どちらも良さを相殺してしまう事でしょう。片方はオクターヴ跳越であるのに、もう一方が協和に阿る訳ですから足を引っ張り合う事となる訳です。つまり、[2・4] という振動比がボーレン・ピアースを阻碍する事になるという皮肉な結果を得てしまう訳です。
これは、ボーレン・ピアースを用いる時、オクターヴ概念を持ち来してしまえば直ぐに崩壊してしまう事になります。それだけ「脆い」構造に立脚している訳ですので、ボーレン・ピアースでのポリクロマティックは、少なくともBP同士か、オクターヴを避けるべきなのでありましょう。
そうなると、ガムランの誕生というのは矢張り偶然ではなく、スレンドロやペロッグも複音程からの等音程の脈絡(概念的)なのであろうという事が推察されるのであります。尚、スレンドロやペロッグに関してはブログ内検索をかけていただければより詳しいブログ記事を引っ張って来れるので、興味のある方はそちらもお読みいただければと思います。
そういう訳で、ポリクロマティックのエフェクティヴな状況とやらを縷述して来ましたが、調的な世界に身を置く方からすれば、これまで述べて来た方策など全く埒外の脈絡で実感すら湧かない方も居られるかもしれません。シンセやプラグラミングなどではなければ、容易に再現が覚束ないからです。
シンセなどの電子的な助力がかなりのウェイトを占めて来ますが、DAW全盛の時代、置いてきぼりを喰らう方も珍しいのではないかと思うので、微分音に興味のある方は一旦《調的な耳》をリセットさせてエフェクティヴに捉えてみては!? と思う所であります。