ジョージ・ベンソンのギター・ソロを採譜(Sunwalk / Fuse One)
今回は、YouTubeでの私のチャンネルにてジョージ・ベンソンのギター・ソロをアップした事もあり、その譜例動画解説をして行こうと思います。
ギター・ソロを採譜する事となった曲はフューズ・ワン(Fuse One)の2ndアルバム『Silk』収録の「Sunwalk」であるのですが、本曲は後年、ビートたけし(北野武)司会のテレビ番組『スーパーJOCKEY』でのテーマ曲に使われていた事もあるので、フューズ・ワンというユニットを知らずとも非常に広く知られている楽曲のひとつでありましょう。
本テーマがトランペットとテナー・サックスに対してトータルなトーキング・モジュレーターを大胆に用いたメロディーである事と、キャッチーなフレーズが親しまれていたのですが、実は各メンバーのソロ部分となると途端に耳にされないという不幸な側面も持ち合わせている曲です。
それというのも、本曲のキャッチーなテーマ以外ではブリッジ部分では強い調性感を向いてしまう人々には少々辛かろう《二度ベースに依る分数コードのパラレル・モーション》を展開し、その後多くのソロが続きます。
それでなくとも本曲収録アルバムの各曲は8分前後となる長尺である事も手伝って、本来最も楽しまれるべきインプロヴィゼーションに耳慣れぬリスナーを飽きさせてしまうという事もあってか、テーマ部のフレーズは広く知れ渡っているにも拘らず各ソロを飛ばして聴いてしまう人も少なくなかった様に思われ、それ故に各ソロが記憶に残っていないという人々も居るという訳です。
スタンリー・タレンタイン、トム・ブラウンとソロが続き、そうして満を持してジョージ・ベンソン(以下GB)のソロが登場するという流れ。GBのソロが始まる頃は楽曲開始から5分30秒を超えているので、イントロすら不要で3分の尺すら長いと言われて久しいZ世代達が主役の20年代の現今社会に於てこうした長尺楽曲は最早蹂躙されている様にすら感ずるかもしれません。
尺が長かろうとも、録音物として記録された素晴らしいプレイの前には時を忘れる程に耳を惹き付けて呉れる事でありましょう。そう表現して已ない程本曲のGBのソロは素晴らしい物です。
そういう訳でGBのギター・ソロ部分の解説をして行こうと思いますが、本曲譜例動画は直前のブリッジから制作しております。このブリッジ部は先述の通り、二度ベースによる分数コードでのパラレル・モーションです。
ブリッジ部分のコード進行は、次の様に全音のパラレル・モーションであり、
[F/G -> G/A -> A/B -> B/C#]
上掲のパラレル・モーションが短三度高く移行されて
[A♭/B♭ -> B♭/C -> C/D -> E/D]
という構造になっております。
上掲のコード進行に於て注意したい点は、ローズ(ロニー・フォスター)の右手パートです。特に譜例1小節目の各拍8分裏で奏される内声には注意を払いたい所です。
1小節目2拍目の8分裏での右手の [g] のみ、人によっては左手で弾こうとする方も居られるでしょうが、左手親指ではなく右手親指の運指であろうと私は解釈したので付隷の様にしております。
扨て、ブリッジ2小節目からアウフタクトを採ってGBのソロが始まるのですが、最初の32分3連はグリッサンドなので、ここまであからさまに符割に拘る事なく、ごく自然に急峻なグリッサンドを心掛ける方がアプローチしやすいかと思います。
フルアコでの弦高が高目となるグリッサンドで、通常のエレキギターよりもゲージも太いので現に引っ掛かり感が強く出るので、ジャンボ・フレットでのエレキギターの様なグリッサンドよりも摩擦感が強い筈ですので、符割としては速く見えますが、実際にはフルアコのグリッサンドは遅めに奏される事でしょう。楽譜の速さとは裏腹な所に注意をしていただきたいと思います。
扨てソロ1小節目ですが、本箇所のコードは次のコード・チェンジまで「D♭△7(on E♭)」という二度ベースである事を念頭に置いていただきたいと思います。同時に、この二度ベースは「Ⅳ on Ⅴ」の型である訳ですが、「Ⅴ」はドミナントとしてではなくモーダル・トニックであり、Ⅴ度を中心音と捉えるべき二度ベースという意味となります。
同小節2拍目にはチョーキングに依る微分音が登場します。実は今回、このクォーター・トーン(=四分音)を紹介したいが為に譜例動画制作をするに至った訳ですが、付与させた「+50」という数値が幹音 [f] からの「50セント上げ」を意味しているのであらためて注意していただきたいと思います。
また、本箇所に於ける微分音のそれは、直前の [f] 音の弦とは異なる弦(異弦同フレット)で出していると思われるので、その辺りも注意して聴くと興味深さが増すのではなかろうかと思います。恐らくGBは、異弦同フレットで低位の弦を奏する際、押弦する指を僅かにベンドさせて四分音を狙っているのであろうと推察します。まあ、何はともあれ綺麗な四分音であります。
尚、同小節4拍目では、本来は32分音符 [3:3:2] という拍節構造を1拍通じて全ての音を連桁で括る事を避けて先行音からの掛留(タイが架かる)となる拍頭の付点16分音符の連桁を切って「旗」を敢えて示した上で、後続音の [3:2] を連桁で区切っている事に注意をしていただきたい部分であり、本曲に限らず私の制作する譜例の多くはこの様な書法を選択しております。
斯様な書法はジャズ/ポピュラー音楽での合理性を重視する様な楽譜では遭遇しないかと思いますが、西洋音楽では能く見受けられる書法です。それは、《拍節構造》を重視する方法なのであり、掛留が架かるそれと、後続の音とは同じ拍内にあろうとも異なる拍節構造であるという事を明示する意図があります。
また、時には連桁を切って音符の「旗」を明示する事が「スタッカート」の様な意味合いを持たせる事もあります。
無論、今回私が用いている書法というのは《拍節構造》を重視する意図を反映させた物なので、慣れない方にとっては面食らう様な書き方かもしれませんが、楽譜としては《重み》がとても加わるので、そこには《熟読させたい》という狙いも加味されています。
同様に2小節目4拍目でも拍節重視で連桁を切る書き方が現れております。こうした書き方に注視するばかりではなく、GB含む多くのジャズメンは本曲の倍以上のテンポを操っているという、カットタイム=アラ・ブレーヴェで書かれる書法の歴時こそが彼等のスタンダードな拍節感である事を留意してほしいと思います。
すなわち、[付点16分+付点16分+16分音符] という [3:3:2] 構造で描かれる楽譜など、楽譜が基準とする歴時が速く見せてしまい仰々しく見せてしまっているだけで、2/2拍子(カットタイム)という状況で慣れている彼等からすれば楽譜に表される半分の速度で操っているので、ジャズにおける真の拍の捉え方をあらためて吟味する必要があろうかと思います。
扨て、GBのソロ冒頭4小節を拔萃してもあらためて判るのですが、基本的には「D♭△7(on E♭)」上で「E♭ミクソリディアン」を充ててはいるものの、ミクソリディアンの第3音(この場合 [g] 音)を変じてイントネーションを付けている事があらためて判る事でしょう。尚、その変じられた [ges] は [g] への上行導音として作用させる様に用いているという事になります。
ソロの3・4小節目を見ても楽譜の上では仰々しい頭抜きの7連符や6連符が混在しておりますが、これらは然して重要ではなく、その上行導音というイントネーションの取扱いに注目する必要があろうかと思います。
そうなると、《ソロ冒頭で使用していた四分音は、E♭ミクソリディアンから見てどの様に変じていたのだろう?》という疑問が沸くかと思います。当該音は [f] より50セント高い音でしたので、E♭ミクソリディアンの第2音が50セント高く変じられていたという事が判ります。
本質的な問題として知りたいのは、ミクソリディアンの第2音を50セント高く変じる事の《脈絡》という根拠でありましょう。結論から言うと、この根拠は《鏡像音程》という脈絡で用いられる物です。一部のジャズの流派では「ミラー・モード」と一括りにされている所もありますが、そのミラー・モードの脈絡自体、どう取扱って好いのかと方法論が整備されていないのが実際ではなかろうかとも思います。
E♭ミクソリディアンのモーダル・トニックとなる基本音から250セント高い所に当該四分音が存在していました。では、その鏡像音程はどこに現れるか!? と問われれば、基本音から250セント低い所に現れる事となります。つまり [des] (D♭)音より50セント低い所に鏡像音程が現れるという事となります。これは、自然七度の脈絡を四分音的に均した解釈であり、《自然七度の鏡像音程》という脈絡を意味するという訳です。
5小節目4拍目では32分音符の連行で括られた一連のチョーキング・アップ&ダウンとなる部分をチョーキング・ビブラートではなく敢えて音符を明示しているのは、その後に続くチョーキング・ビブラートも概ねこれ位の変化量という事を表しています。加えて、そのビブラートが明確な拍節感として現れている状況を私は敢えて音符にして表しているのであり、以降のチョーキング・ビブラートもそうした違いがあります。
尚、チョーキング・ビブラートでの最初の微分音のみ変化量を充てているのは、その後に現れる同様の四分音も 'simile' と同様の意味となる物で、記譜法的に見ればこうした《いちいち表さずとも判るだろう》という状況になると注記を省くのは能くある事です。逐一表さないと気が済まない質の私からすれば相反する様な選択を採っている様に思えるかもしれませんが、西洋音楽の楽譜ではこうした選択は珍しくないかと思います。
6小節目2拍目で生ずる [eses](E♭♭)音は、「E♭」音上の減八度相当となる脈絡と捉えています。バリー・ハリスやプロコフィエフで生ずる音ですので注意をされたし。過去の私のブログ記事では関連する話題を語っているので、ブログ内検索をかけていただければより詳しく解説しておりますのでご参考まで。
7小節目は割愛しますが、8小節目でもE♭ミクソリディアンの第3音を変じて [ges] が多用されています。まあしかし、素晴らしいフレージングであります。
9小節目でコードは二度ベースではあるものの「C△7(on D)」という風に六度進行を採ります。唐突な感じが希薄なのも絶妙ですが、注意すべきは同小節3拍目の5連符の [4:1] 構造のアタマ抜き。これはついつい付点8分のアタマ抜きや6連符 [5:1] のアタマ抜きの様に感ずるかもしれませんが、茲は5連符であります。
10小節目1拍目。タイが架かった直後の [a] より50セント高い微分音はチョーキングですが、このチョーキング直後に下行スウィープを入れているのが難しい所でしょう。チョーキング音が残ってしまったり、チョーキングそのものが下がってしまってスウィープに移ってしまってはならないので、楽譜では平然と音を表しますが、難しさが宿る箇所であろうと思います。余談ではありますが、同小節4拍目の [g] 音ミュートに付与されるクサビ型の記号はジャズ/ポピュラー音楽では見慣れないかもしれませんので敢えて語っておきますが、この記号は「スタッカーティシモ」であります。スタッカートよりも短く切るという物です。
尚、同箇所で奏される [dis・ais] 音というのは、「C△7(on D)」での《三全音調域》=裏モードを想起した併存のアプローチであろうと解釈した為、こうした表記にしております。つまり、「Dミクソリディアン」の調域(Key=G)が原調であるので、自ずとその三全音調域は「G♯ミクソリディアン」を採る事となります。
そうして「G♯ミクソリディアン」を想起し乍ら、[gis] を基本音とした時の上音= [5th・9th] 音である [dis・ais] が視野に入り、それらと原調との併存という事になるという訳です。
11小節目3拍目では、あらかじめチョーキング・アップをしてからの微分音を用いております。楽譜上では [b] より50セント低い(数値は記載漏れ)訳ですが、あらかじめ50セント低い音をギターで出す事は出来ないので、少なくとも「50セント高い」チョーキング・アップで入る事になります。つまり、[a] より50セントあらかじめ高くしなければならず、直後の [b] はハンマリング・オンで出す必要があるという訳です。
また、[b] に続く [h] はスライドという所も見逃せないのでありますが、これはその後に続く [d - a] という跳躍進行がスウィープであろうという事と、そのスウィープを自然にする為の運指であるという判断から「ハンマリング→スライド」という解釈を採っております。加えて、同小節4拍目の短前打音(装飾音)からのチョーキングも見逃せないアーティキュレーションであります。
12小節目では冒頭から [fis - d] までのクロマティック下行が続きますが、本箇所はDミクソリディアンが継続していると思われる中でのこうしたクロマティック・アプローチは、ミクソリディアンに対してオルタード感を出す為のアプローチになっているであろうと推察します。
即ち、Dミクソリディアンの音階外となる [f・es] は「♭10th・♭9th」という構造になっており、クロマティックで揺さぶりをかけてもそうしたクロマティック・アプローチが原調となるミクソリディアンから大きく逸脱しない為の物であろうと思います。
そうして同小節3拍目にはDミクソリディアンの第6音に揺さぶりを掛ける様に [h] の前に [b] が置かれます。これもミクソリディアンに対してオルタードな揺さぶり(♭13thに相当)となっているのが判ります。
18小節目のクロマティック上行アプローチに於ても、「減八度」相当の [des] を介在する様にして基のDミクソリディアンが半音階的に揺さぶりを掛けるというアプローチになっております。
尚、同小節4拍目および次の19小節目2拍目では《連桁を切る》という表記を用いて拍節感を分断している所にもあらためて注意していただきたい箇所であります。
加えて、19小節目2拍目以降に現れるスウィープが連続している過程での音階外の音ですが、これは「C△7(on D)」という「Ⅳ on Ⅴ」の型でのコード上に於て、GBだけが「A7 -> E♭7 -> D7alt」というアプローチを想起しているからであろうと思われます。
無論、この仮想的なコード進行はGBの脳裡にしか現れる物でしかないので、出て来る音の全てが分散和音でない限りは完全に確定する事は本人がアナウンスする以外不可能なのでありますが、それでも「A7 -> E♭7 -> D7alt」に立脚するアプローチであろう事は読み取れるであろうと思われます。
付言すれば、「A7 -> E♭7」という三全音進行は単に「裏コード」として表裏一体の状況として用いているので、終止感を演出する為に和音諸機能を循環させる進行とは明確に異なります。こうした裏コードのアプローチはレンドヴァイの中心軸システムに収斂するひとつのアイデアに過ぎず、「A7 -> E♭7」というコード進行は三全音自体はエンハーモニック的に共有している状況であるに過ぎない「静的」な状況である訳です。
無論、コード進行そのものが静的な構造であろうとも、アヴェイラブル・モード・スケールに変化が現れるので、実質的にはGBひとりが転調するかの様な世界観を誘うアプローチとして解釈する方が判りやすいでしょう。
そうして「A7 -> E♭7」の後に「D7alt」に進行するというアプローチでありますが、この「alt」の根拠は、同小節4拍目の高潮点として現れる [b] が「♭13th」を仄めかす音であるという所にあります。それ以外は「D7」に従属する音並びであるので、紐解けば14小節目の1小節内でひとりA7 -> E♭7 -> D7alt」という風に解釈して揺さぶりをかけているという訳です。
15小節目ではDミクソリディアンを基に「ブルー五度」を明示して来ます。つまり音階の第5音がブルーノートとして半音低められる事を意味するので自ずと [a] は [as] という風になります。同小節4拍目で現れる [es] もDミクソリディアンを基にオルタレーションされる第2音 [es] と見て差し支えないでしょう。
同小節3拍目で現れる連符内連符 [3:2] も衆人の耳目を蒐めるかの様に平然と現れておりますが、16分6連の2パルスが3連符に分割されるという意味ですので、お間違えのない様に。
扨て、16小節目1拍目での [cis] はDミクソリディアンの音階外なのであるのですが、[d] へ揺さぶりをかける為の導音として解釈して [des] ではなく [cis] と書いております。
茲で [des] と表記した方が「減八度」という解釈で丸く収まる筈ですが、そうしない理由があるのです。その理由は、同小節内にてDミクソリディアンのダイアトニック・ノートとしての [c] が現れぬままに [cis] という変化音を生ずる状況である事に依り、私は敢えて [des] とはしていないという所に加え、[cis] は [d] に対して《結果的に》揺さぶりというイントネーションが掛かっているのであって、私は三全音調域で生ずる [cis] が優勢にあると解釈しているのです。
また、本箇所に限らずソロ・アプローチは常に三全音調域を想起していると同時に、ミラー・モード(鏡像音程)も常に視野に入っている事でしょう。
ミラー・モードという状況で詳しく照らし合わせると、本箇所では基となるモードがDミクソリディアンである為、この鏡像音程を形成するモードは自ずとモーダル・トニックを共有するDエオリアンが鏡像音程となります。
Dエオリアンはヘ長調(Key=F)調域で生ずる旋法なので、ヘ長調全音階音組織は自ずとCミクソリディアンを包摂します(E♭ミクソリディアンとは短三度/長六度の調域)。そこで中心軸システムを対照させると、後続の「D♭△7(on E♭)」でのE♭ミクソリディアンへと接続するしているという解釈に至る訳です。
17小節目は、16分音符の移勢(アウフタクト)を採ってタイで結ばれた [cis] が現れておりますが、本来であれば本箇所はコード・チェンジしている為《「D♭△7(on E♭)」での [cis] と書くのはおかしいのではないか!?》と疑問を抱く人は少なくない事でしょう。
この [cis] は先述の通り、16小節目で三全音調域(※Cミクソリディアンに対するF♯ミクソリディアン)として解釈していた [cis] の余薫(名残り)という形で現れる掛留であろうと私は考えております。その上で、17小節目1拍目でオクターヴ上に生ずる [cis] の隣音として現れる音は決して「D♭△7(on E♭)」から生ずる脈絡(=アヴェイラブル・モード・スケール)とは異なる経路でスーパーインポーズ(強行)させている状況であると私は解釈しているのです。
それ故に、[c] と書いて良さそうな音を [his] と書いていたり、[c] より32セント高い自然七度の鏡像音程(※基準とする音は [b] にあり、その自然七度= [as] より32セント低い所に現れる音の鏡像音程)を書いていたりするのは、「D♭△7(on E♭)」からE♭ミクソリディアンを生ずるのと同時に、F♯ミクソリディアンを《引き摺って》それを中心軸システムでの併存とする脈絡として解釈しているが故の表記なのです。
また同小節では、E♭ミクソリディアンの三全音調域としてAミクソリディアンの併存を視野に入れつつ、もう一つの中心軸システムの対蹠軸である [C - F♯] ミクソリディアンも視野に入れる事が可能となります。そこで「F♯ミクソリディアン」を視野に入れた時、F♯ミクソリディアンはロ長調(Key=B)の音組織から生ずるモードとなる事で、その音組織から得られる [cis・ais] として音符に態々明示しているという訳であります。
パッと見では到底「D♭△7(on E♭)」からのアヴェイラブル・モード・スケールとは異なる音として書かれるので《見づらい》とは思うのですが、斯様なスーパーインポーズの脈絡を表す為に敢えて書いているという訳です。パート譜だけで済ませるのであれば、読譜にスムーズな音高変化で書く事もありますが、小難しい背景があっての事と捉えていただきたいと思います。
17小節目1拍目だけで縷々語ってしまいましたが、同小節4拍目でのグリッサンドは1オクターヴ上昇、即ち12フレット分上げるという事を意味しているのですが、1オクターヴ上がった直後に音を切るというイメージで演奏すると、オリジナルの感じに近くなると思います。
18小節目3拍目で生ずる微分音ですが、これらは四分音と八分音とで区別しております。後発の方がチョーキング量としては小さいという事を意味します。セント量が幹音からの相対量なので、絶対値としては後発の八分音の方が変化量が大きく見えるものの、チョーキング量としては逆となり小さい可変量なので注意して欲しいと思います。
19小節目2拍目に於ても八分音・四分音が用いられます。セント量と実際のチョーキング量についてはこちらも注意していただきたいのですが、拍頭のスライド直後 [g] から「75セント」のチョーキング・アップを要するそれが、[a] よりも125セント低いという意味ですのであらためて注意をしてほしい所です。
チョーキングそのものの変化量としては、75セント上昇させた所から25セント低める事で、同拍最後の [g] より50セント高い音を奏する様になるという流れを意味しております。
尚、同小節4拍目での拍頭の直後の32分休符が現れた後、連桁が分断されずに一括りになっているそれは、それまでの記譜ルールと何がどう違うのか!? と疑問を抱かれる方も居られるかと思いますので語っておきますが、連桁を分断しない最大の理由は《拍節の一体感》なのでありまして、この《一体感》が表される最大の要素は《音程差が狭い》という点にあります。
音程差が広ければ拍節感に違いが生じて来ます。楽典での語句では三度音程以上の音程差を《跳躍進行》に分類しますが、ヤン・ラルーの言う様にもっと広い跳躍進行を 'leap' と呼んだ様に、更に広い跳躍進行にて拍節感が異なる様に分けても差し支えない状況となる連桁を私は分断していたという訳です。ですので本箇所の場合、拍節感が一体化していると解釈して連行を分断せずに連結させているという訳です。
20小節目は特筆すべき点が無いので割愛しますが、21小節目での32分音符を主体とするフレーズは本ソロの真骨頂とする極点の部分でもありましょう。八分音の僅かなチョーキングを介在させているのも見事です。
22小節目2拍目拍頭で生ずる [eses] =「E♭♭」音は、E♭音を基にした時の減八度由来の音であります。唯、これが下行クロマティックを取らずに逸音となっている所が実に絶妙な減八度の使い方であり、美しい揺さぶりであろうと思います。同拍での後続音では [des - es] と順次進行しているという事を勘案すると、より際立った逸音の使い方であろうと思います。
続いて、同小節3拍目は重音が異なる拍節状況として二声が分離している事で上声部・下声部と分けて書いているのです。下声部の方に目を遣ると、2拍目拍頭で生じていた逸音が八度下で再び逸音として現れます。減八度の使い方を執拗に見せて来ているという訳です。
23小節目2拍目でも微分音を生じ、四分音・八分音が使われる事となります。これは実質的に、チョーキング・ビブラートが6連符という歴時に対してかなり正確に収まるピッチ変化なのでありますが、ピアノ様に階段状の音高変化を生ずる訳ではなく、ビブラートの揺れそのものが歴時に正確であるからこそ音高の「漸次変化」が起きている事を示す為に破線スラーを用いているのです。
24小節目の2〜4拍目ですが、チョーキング・ビブラートを四分音・八分音という風に書き分けているものの、普通の記譜となれば当該箇所を3つの四分音符で表すと思える箇所であります。
然し乍ら、アーティキュレーションの掛かるタイミングや音高変化がその様に均した解釈にはしてくれないのです。仰々しい採譜だとは思いますが、単に視覚的にシンプルな楽譜にしてしまうと、視覚の上から微分音や細かな歴時が消えてしまい、私が語ろうとする微分音やらの側面から遠ざかってしまいかねないのでご容赦の程を。
25小節目。茲からあらためて「C△7(on D)」という風にコード・チェンジとなりますが、ギター・パートはそれまでと打って変わってビブラートで示しています。音高変化という部分ではそれまでと変化量に違いはないのですが、拍節感がそれまでとははっきりしないと解釈したので斯様な表記になっております。また、26小節目3拍目で生ずるビブラートも同様の解釈となっております。
27小節目拍頭 [b] は、Dミクソリディアンの第6音を変じた物であるのはこれまでのアプローチと同様で、同小節3拍目で生ずるグリッサンドは [a] から短三度(3フレット分)上昇させるという事を表しております。
28小節目3拍目では、32分音符によるDミクソリディアンの第3音を変じた [f] がプリング・オフを介して現れています。短い音価ですので、それまでの6音フィギュアのフレージングの繰り返しの様に聴いてしまうかもしれませんが、注意を要する部分であろうと思います。
29小節目の解説は割愛しますが、30小節目2拍目で表している装飾音符は、[g - e] の間に介在する [fis - f] として書かれているものの、装飾音符のそれらが拍節感として明確に現れずに短い音価で生じているだけで、[g - e] という短三度音程全ての音はグリッサンドによる物です。
尚、同小節3拍目でのコード「B7(♭9、♭13)」は、能くもまあ巧いコードを思い付いた物だと感心する事頻りなのでありますが、GBは [d - h] を強行しているので、コード上では「♭10thとルート」を明示してから [g - e] というフレージングが「♭13th、♮11th」となっている訳です。
こうしてあらためてGBのアプローチを見てみると、11thに関しては常に♯11thを採ろうとするのではなく、寧ろ本位十一度(♮11th)を多用している様に思えます。恐らくそれは、コードが「♯11th」を生じておらず、《不完全和音》という体の分数コードが主体となっているが故に11thを本位十一度で用いる事を優先しているのであろうと思います。
付言しておきますが、《不完全和音》とは3度音程で積まれる和音が全て充填されていない状況の和音の事を指します。仮に「G7(11)」というコードがあればこれは《不完全和音》なのであり、「F△/G△」は上下共に三和音という和音構成音が全て充填されていれば《完全和音》であります。同様に、「G11」「G7(9、11)」も完全和音なのであり、「G7(9、13)」は不完全和音なのであります。
本曲は二度ベースを主体とする分数コードおよびオンコードが使われていました。「Dミクソリディアン」が「D11」を想起する事と「C/D」を想起する事とでは大きく異なります。和音も前者は完全和音、後者の分数コードが不完全和音という意味になります。
つまりGBは、不完全和音という状況に於て本位十一度を優先的に採るというアプローチを見せている訳です。
31小節目のコードは「F6/G」ですが、近年では多くの場合「Dm7/G」という四度ベースの型が好まれます。ジャズ/ポピュラー音楽の世界に於て「F6/G」という表記の方がやや《古典的》とも言えるでしょう。私がこう書き分けているのは次の様な理由があるのです。
嘗てジャン゠フィリップ・ラモーは、「Ⅳ6」という状況の付加六度を限定上行進行音として制限し、「F6」の [d] は [e] に進み、「Ⅳ6 -> Ⅰ」という進行を体系化させました。つまり、下属和音は「プレドミナント」という風にドミナントに進む前の和音(※ナポリの和音もプレドミナントである)という従前の体系にあらためて一石を投じる事となり、ラモーは同時に、プレドミナントではなく「サブドミナント」という風に名を変えて和音諸機能を一変させます。
とはいえ後年、アルフレッド・デイが 'Treatise on Harmony' にて《Ⅳ6とは属十一・属十三の断片にすぎない》とします。つまり、下属和音は、根音を欠いた不完全和音の一部に過ぎないという風に解釈します。こうした変遷があり、あからさまなドミナント感を避ける和音の使い方がやがてはジャズ/ポピュラー音楽にも用いられる様になります。
ジャズとて元は13thコードを多用していたものの西洋音楽由来のこうした用法は新たな形で継承され、下部付加音であろうオンコード、不完全和音であろう分数コードという風に使われ、「Ⅴ13ではあまりに重々しい」音が「Ⅳ6 on Ⅴ」になり、限定上行進行音の呪縛が不必要である事で「Ⅳ6」は「Ⅱm7」へと同義音程和音に転じて「Ⅱm7 on Ⅴ」のスタイルが定着する様になっているというのが歴史的な順序なのです。
ドミナントで本位十一度音を含むのはアヴォイド・ノートと斥ける事勿れ、これは古典的でもあり、調を見渡すという点では非常に重要な使い方なのであります。自然倍音列に阿り、「♯11th」へと半音階的に均したスクリャービンのそれの方をバークリー式が採用しただけの事に過ぎず、GBはジョージ・ラッセルのリディアン・クロマティック・コンセプトに則っている訳でもなければ、新たなジャズ・ハーモニーに反旗を翻している訳でもありません。
唯、《調性を感じさせ乍らコードだけは嘯く》という状況がGBには《頭隠して尻隠さず》の様にあざとく映るのでしょう。薄々感じているそれをリディアン系統で嘯く必要はなく、コードの構成音としても省略されている。それこそリディアン系統で埋め尽くされたかの様な方法論よりも本位十一度音を優勢に採る方がよっぽど新鮮味もある。そういう魅力と自身の抱くフレージングの良さが本位十一度を選択させているのであろうと私は感ずるのです。
扨て、本小節でのGBのソロはスライドを多用しております。また、今更語るのも遅過ぎるかもしれませんが、私は《2フレット以上の急滑奏》をグリッサンドと呼んでおり、スライドは自ずと±1フレットの急滑奏という事を意味します。フレット楽器では稀にではありますが、フレットを変えずに運指だけを替えるという状況もあるものの(例:8フレットを小指で押さえ乍ら薬指に替えて掛留を維持)、この場合同一フレット上でスライドをさせているという訳ではありません。私がスライドを明示している時は、±1フレットの範囲であると判断していただければ幸いです。
32小節目のコードは「G7(13)」となります。先行和音である31小節目のコードが「F6/G」だったので《前後のコードも結局はドミナントなのか?》という風に、単にドミナント和音が姿を変えただけという風に捉えてしまう方はもっと重要な部分に気付いていないであろうと思われます。
31小節目の「F6/G」がドミナントの不完全和音であったとしても、32小節目の「G7(13)」との属十三の不完全和音とは決定的な違いがあります。それが《三全音の有無》という事です。無論、前者には三全音 [f・h] を欠いており、後者が初めて三全音を包含します。
三全音の有無となれば、単にコードが姿形を変えただけという風に言う事はできなくなる程の「豹変」ぶりだという事をあらためて念頭に置いて欲しいと思いますし、32小節目1拍目で現れる四分音は [f] よりも50セント高く、これがドミナント・コードの7th音よりも50セント高いという事はどういう脈絡から得ているのか!? と疑問に抱く方も少なくはないであろうと思います。
その脈絡は、《根音から1050セント上方》にあるという事が既に答を仄めかしているのですが、「1050」は3で割り切れると言えばヒントになりますかね!? 1050÷3=350セントという事になりますが、これは不正解です。実際は複音程に還元します。1オクターヴ+850セント=2050セントというのが大雑把な脈絡であり、850セント(実際には840.528セント)とは自然十三度であります。
2040.528セントを6等分すると「340.088セント」を導くのであり、これが四半音階的に均され「350セント」を生ずる。奇しくも根音の350セント上方は「ブルー三度」を確認する事が可能となる訳で、2040.528セントを6等分した時は次の様に
340.088【ブルー三度 (39/32)】
680.176【40/27】
1020.264【65/36 or 64/35】
160.352(+1200が本来の複音程サイズ=1360.352)【800/729=(2^5)*(5^2)/(27^2)】
500.44(+1200)【(3^52)/(2^89)】
840.528(+1200)【13/8】
という純正音程比からの脈絡が半音階的に均されていると解釈する事が可能です。
特に、自然十三度は実質的に四分音的に均される事も多いので、その脈絡は根音の「850セント」と解釈しても誹りを受けませんし、根音から1020セント上方も実質的には四分音的に「1050セント」と解釈しても誹りを受ける事の無いものです。
こうした脈絡から判る様に、自然十三度の等音程構造からの脈絡でありますし、自然七度を複音程へ還元(1200+969)した音程を6等分した単位音程も四分音的に均せば同様の音脈を得る事となります。つまり、自然七度と自然十三度からの脈絡を四分音的に均した経路である事で、脈絡という点ではかなり強い因果関係を持つ物と言える訳です。
更に、「G7(13)」上で [f] より50セント高い=中立七度を使う事の出来る根拠は!? と言うとそれは、ブルー三度の五度上(四度下)なのであり、上掲の6等分した等音程のブルー三度に対して「四度下=500.44」を採ろうと「五度上=680.176」を採ろうと中立七度の近傍を生ずるのであり、また、等音程の「160.352(+1200)」という中立二度の鏡像音程が結果的に四分音的に1050セントという中立七度近傍を得るので、こうした脈絡で中立七度が使えるという事をも意味します。
尚、「680.176セント」となる音程は、結果的に四分音的に「五度」に均されるだけの事であり、調性音楽に於てこの音程=「40/27」という音程はグレイヴと呼ばれ、純正完全五度よりもシントニック・コンマ分低くウルフを生ずる音程として忌避される物であります。
等音程分割に依る単位音程で偶々忌避される音程が生じようと、調性音楽では忌避される音程も使い方次第なのであり、手前味噌ではありますが私が制作した微分音の使用例では、根音から数えて転回位置でグレイヴを生ずる(=十分音由来である) [h] より20セント低い音を四分音と併存させて用いている例がありますのでご参考まで。
話を戻して、同小節4拍目の [ais] は「♯9th」という脈絡で生ずる表記なのであり [b] なのではありません。
そうしてソロは短前打音 [ais] から上行導音を採って「C△9」上でのメジャー7th音で終えるという訳でありますが、一連のGBのお手本の様なスウィープ・ピッキングはおろか微分音も含むフレージングはとても参考になるのではないかと思います。
こうして「Sunwalk」に於けるGBソロについて語って来ましたが、本曲はキャッチーなテーマで知られているにも拘らず、ギター・ソロには微分音も含む非常に参考になるアプローチが存在するという点をあらためて注目していただければと思います。
フューズ・ワンというバンドはアルバムを3枚残しておりますが、1stアルバム『Fuse One』がTDKカセット・テープ「AD」1980年のCMソングで使われ、クロスオーバー・ブームが残っていた国内の地盤でインストゥルメンタル楽曲と雖もそこそこ売れた事で続いたユニットであります。
TDK「AD」のCMも、マイルス・デイヴィス、スティーヴィー・ワンダーと続いてのフューズ・ワンの「Double Steal」は、YMOが最も売れていた時のインストゥルメンタル楽曲で、オーバーハイムのリードとスタンリー・クラークに依るテナー・ベースとのオクターヴ・ユニゾンのメロディーは衆人の耳目を惹いた物でした。テレビから明確に聴こえる(当時のテレビの再生音など知れたモノ)ウィル・リーのベース音も実に良かった物でした。
私個人としては、同アルバムでは「To Whom All Things Concern(ジョン・マクラフリン作)」「Friendship(トニー・ウィリアムス作)」の2曲が好きでして、前者はコード・ワークも素晴らしくスタンリー・クラークのアコベが絶妙であります。
後者はトニー・ウィリアムス作で、ジョー・ファレルのアンブシュアを利かせた微分音も絶妙ですし、何より素晴らしいコード・ワークです。ジェフ・ベックの『ブロウ・バイ・ブロウ』『ワイアード』の少々くぐもった世界観が好きな人にはピッタリの曲調であろうかと思います。
そうして2ndアルバム『Silk』が1981年にリリースされる訳ですが、今を思えば80年代に差し掛かっているというのに《この音》というのがあらためて素晴らしい世界観であろうと思います。アナログ・シンセのポリ数は増え、ドラム・マシンもリリースされて世はデジタル・サウンドへの移行期であったにも拘らず、そうした世界観に侵食されずにリリースされていた事で、何年経っても色褪せない世界観になったのでありましょう。
尚、アルバム『Silk』ではジョージ・デュークのアルバム『Reach For It』収録の「Hot Fire」のカヴァーが収録されています。本曲はクレジット通りヌドゥーグ(レオン・ヌドゥーグ・チャンクラー)作曲であるので、ジョージ・デュークの曲ではありません。
然し乍ら、テレビドラマ『大都会 PARTⅢ』のテーマとして使用された『大都会 PARTⅢのテーマ』は高橋達也と東京ユニオンの荒川達彦が堂々と引用した為、当時を知る人の多くは『大都会 PARTⅢのテーマ』だと認識する人が多いと思われます。
まあ、荒川達彦に助け舟を出すとすれば、ブリッジ部の引用以外の本テーマはオリジナルには無い素晴らしい強力な線運びとなるメロディーなのでありますが、ヌドゥーグ本人が本テーマのそれを聴けば屈服してしまうかもしれない位にクオリティーの高いメロディーだとは思いますし、ヌドゥーグ本人も黙認しているのかもしれません。それが《強編曲》として扱われているかどうかは定かではありません(JASRACコード:029-7488-6に於けるクレジットは荒川達彦本人のみ)。
私がヌドゥーグを最初に知ったのはディー・ディー・ブリッジウォーターのアルバム『Just Familiy』やジェイ・グレイドン參加のフローラ・プリムのアルバム『Nothing Will Be As It Was...Tomorrow』で立て続けに耳にしたのが最初であり、その後ジョージ・デューク絡みで多く知る事になるのですが、艶かしいドラムのチューニングが好きで今猶音作りのお手本とさせていただいているドラマーのひとりです。
そうして1984年にフューズ・ワンは3枚目のアルバム『Ice』をリリースする事となるのですが、本アルバムは失敗だったと言えるでしょう。デイヴ・マシューズがプロデュースしているのですが、一部の楽曲ではメロディーが統率されておらずブルージィーな線運び(モード選択)でのプレイヤー任せという、曲作りに於けるプロットも明確になっていない(B面1曲目の「Just Funkin' Around」)など酷い内容でした。
まあそれでも、「Requiem For Marvin」はお涙頂戴的な程のメロディアスなバラードで、FMでは結構流れていたのですが、一番良い作品は「Groovin' Song」でしょうか。それでもジェレミー・ウォールがヴォイシングをミスってしまいそのまま録音されているという状況であるのですが、ヴォイシングを間違えてしまった為に、次小節の別の和音でも同様の倚音をわざと入れて誤魔化す(2度同じ過ちを繰り返せばミスではない)というマイルスの言を利用した誤魔化しと言えるでしょう。
今あらためてフューズ・ワンの3作を振り返ると、矢張り最も良かったのは1stアルバムではなかろうかと思います。そこには、日本国内に於けるクロスオーバー・ブームが基盤となっていたというのが重要な側面なのでもありますが、元々日本国内では映画音楽が後押しする様な形で、西洋音楽とは異なるイージー・リスニングやその他のインストゥルメンタル音楽に対して一定以上の評価を得ていたであろうと思われます。
そうして音楽が多様化していき、R&Bやビッチェズ・ブリュー以降のマイルス・デイヴィスが後押しして「クロスオーバー化」が進んで行く事となります。
テレビで最も後押しする事に貢献していたのは慶應学閥で固められた日本テレビの楽才溢れる貢献でありましょう。そうして『11PM』『ゲバゲバ90分』『ルックルックこんにちは』『ルパン三世(大野雄二)』『ウイークエンダー』『目方でドーン!』『アメリカ横断ウルトラクイズ』などに受け継がれて行ったので、クロスオーバーの到来を知っていたかの様にジャズ心がある音楽を流していた物です。
TBSでも『刑事コジャック』『ムー』『ムー一族』の辺りがクロスオーバー流行を見せていた物でしたが、日本国内では76〜80年位がブームであり、最盛期が78〜79年辺りであったろうと思います。
それを思えばフューズ・ワンの登場が80年というのはかなり遅い物であり、《そろそろ古臭くなって来たか!?》などとも囁かれる様な時に登場した訳ですが、矢張り当時を知る者からすれば親しみやすいインストゥルメンタル音楽であった訳でもあります。
そうした名残りが1983年になって再び回帰するかの様に、TDKカセットテープの新銘柄「AD-S」のCM曲にシャカタクの「Night Birds」が使用され、多くの学校での吹奏楽に使用されていた位ですから、クロスオーバー/フュージョンの地盤は侮る事勿れ。
とはいえ、主メロディーに耳目を惹かれるだけの耳であっては到底クロスオーバーの醍醐味を堪能する事はできないので、インプロヴィゼーションが炸裂するソロ・フレーズにあらためて傾聴する事が音楽の深みにアクセスできるという訳で、そこに今回のGBの様なソロ、しかも微分音まで使ってくれるという例に肖る事ができるという訳です。そういう意味でもクロスオーバーを軽んじる事なく耳にしていただければ之幸いであります。
ギター・ソロを採譜する事となった曲はフューズ・ワン(Fuse One)の2ndアルバム『Silk』収録の「Sunwalk」であるのですが、本曲は後年、ビートたけし(北野武)司会のテレビ番組『スーパーJOCKEY』でのテーマ曲に使われていた事もあるので、フューズ・ワンというユニットを知らずとも非常に広く知られている楽曲のひとつでありましょう。
本テーマがトランペットとテナー・サックスに対してトータルなトーキング・モジュレーターを大胆に用いたメロディーである事と、キャッチーなフレーズが親しまれていたのですが、実は各メンバーのソロ部分となると途端に耳にされないという不幸な側面も持ち合わせている曲です。
それというのも、本曲のキャッチーなテーマ以外ではブリッジ部分では強い調性感を向いてしまう人々には少々辛かろう《二度ベースに依る分数コードのパラレル・モーション》を展開し、その後多くのソロが続きます。
それでなくとも本曲収録アルバムの各曲は8分前後となる長尺である事も手伝って、本来最も楽しまれるべきインプロヴィゼーションに耳慣れぬリスナーを飽きさせてしまうという事もあってか、テーマ部のフレーズは広く知れ渡っているにも拘らず各ソロを飛ばして聴いてしまう人も少なくなかった様に思われ、それ故に各ソロが記憶に残っていないという人々も居るという訳です。
スタンリー・タレンタイン、トム・ブラウンとソロが続き、そうして満を持してジョージ・ベンソン(以下GB)のソロが登場するという流れ。GBのソロが始まる頃は楽曲開始から5分30秒を超えているので、イントロすら不要で3分の尺すら長いと言われて久しいZ世代達が主役の20年代の現今社会に於てこうした長尺楽曲は最早蹂躙されている様にすら感ずるかもしれません。
尺が長かろうとも、録音物として記録された素晴らしいプレイの前には時を忘れる程に耳を惹き付けて呉れる事でありましょう。そう表現して已ない程本曲のGBのソロは素晴らしい物です。
そういう訳でGBのギター・ソロ部分の解説をして行こうと思いますが、本曲譜例動画は直前のブリッジから制作しております。このブリッジ部は先述の通り、二度ベースによる分数コードでのパラレル・モーションです。
ブリッジ部分のコード進行は、次の様に全音のパラレル・モーションであり、
[F/G -> G/A -> A/B -> B/C#]
上掲のパラレル・モーションが短三度高く移行されて
[A♭/B♭ -> B♭/C -> C/D -> E/D]
という構造になっております。
上掲のコード進行に於て注意したい点は、ローズ(ロニー・フォスター)の右手パートです。特に譜例1小節目の各拍8分裏で奏される内声には注意を払いたい所です。
1小節目2拍目の8分裏での右手の [g] のみ、人によっては左手で弾こうとする方も居られるでしょうが、左手親指ではなく右手親指の運指であろうと私は解釈したので付隷の様にしております。
扨て、ブリッジ2小節目からアウフタクトを採ってGBのソロが始まるのですが、最初の32分3連はグリッサンドなので、ここまであからさまに符割に拘る事なく、ごく自然に急峻なグリッサンドを心掛ける方がアプローチしやすいかと思います。
フルアコでの弦高が高目となるグリッサンドで、通常のエレキギターよりもゲージも太いので現に引っ掛かり感が強く出るので、ジャンボ・フレットでのエレキギターの様なグリッサンドよりも摩擦感が強い筈ですので、符割としては速く見えますが、実際にはフルアコのグリッサンドは遅めに奏される事でしょう。楽譜の速さとは裏腹な所に注意をしていただきたいと思います。
扨てソロ1小節目ですが、本箇所のコードは次のコード・チェンジまで「D♭△7(on E♭)」という二度ベースである事を念頭に置いていただきたいと思います。同時に、この二度ベースは「Ⅳ on Ⅴ」の型である訳ですが、「Ⅴ」はドミナントとしてではなくモーダル・トニックであり、Ⅴ度を中心音と捉えるべき二度ベースという意味となります。
同小節2拍目にはチョーキングに依る微分音が登場します。実は今回、このクォーター・トーン(=四分音)を紹介したいが為に譜例動画制作をするに至った訳ですが、付与させた「+50」という数値が幹音 [f] からの「50セント上げ」を意味しているのであらためて注意していただきたいと思います。
また、本箇所に於ける微分音のそれは、直前の [f] 音の弦とは異なる弦(異弦同フレット)で出していると思われるので、その辺りも注意して聴くと興味深さが増すのではなかろうかと思います。恐らくGBは、異弦同フレットで低位の弦を奏する際、押弦する指を僅かにベンドさせて四分音を狙っているのであろうと推察します。まあ、何はともあれ綺麗な四分音であります。
尚、同小節4拍目では、本来は32分音符 [3:3:2] という拍節構造を1拍通じて全ての音を連桁で括る事を避けて先行音からの掛留(タイが架かる)となる拍頭の付点16分音符の連桁を切って「旗」を敢えて示した上で、後続音の [3:2] を連桁で区切っている事に注意をしていただきたい部分であり、本曲に限らず私の制作する譜例の多くはこの様な書法を選択しております。
斯様な書法はジャズ/ポピュラー音楽での合理性を重視する様な楽譜では遭遇しないかと思いますが、西洋音楽では能く見受けられる書法です。それは、《拍節構造》を重視する方法なのであり、掛留が架かるそれと、後続の音とは同じ拍内にあろうとも異なる拍節構造であるという事を明示する意図があります。
また、時には連桁を切って音符の「旗」を明示する事が「スタッカート」の様な意味合いを持たせる事もあります。
無論、今回私が用いている書法というのは《拍節構造》を重視する意図を反映させた物なので、慣れない方にとっては面食らう様な書き方かもしれませんが、楽譜としては《重み》がとても加わるので、そこには《熟読させたい》という狙いも加味されています。
同様に2小節目4拍目でも拍節重視で連桁を切る書き方が現れております。こうした書き方に注視するばかりではなく、GB含む多くのジャズメンは本曲の倍以上のテンポを操っているという、カットタイム=アラ・ブレーヴェで書かれる書法の歴時こそが彼等のスタンダードな拍節感である事を留意してほしいと思います。
すなわち、[付点16分+付点16分+16分音符] という [3:3:2] 構造で描かれる楽譜など、楽譜が基準とする歴時が速く見せてしまい仰々しく見せてしまっているだけで、2/2拍子(カットタイム)という状況で慣れている彼等からすれば楽譜に表される半分の速度で操っているので、ジャズにおける真の拍の捉え方をあらためて吟味する必要があろうかと思います。
扨て、GBのソロ冒頭4小節を拔萃してもあらためて判るのですが、基本的には「D♭△7(on E♭)」上で「E♭ミクソリディアン」を充ててはいるものの、ミクソリディアンの第3音(この場合 [g] 音)を変じてイントネーションを付けている事があらためて判る事でしょう。尚、その変じられた [ges] は [g] への上行導音として作用させる様に用いているという事になります。
ソロの3・4小節目を見ても楽譜の上では仰々しい頭抜きの7連符や6連符が混在しておりますが、これらは然して重要ではなく、その上行導音というイントネーションの取扱いに注目する必要があろうかと思います。
そうなると、《ソロ冒頭で使用していた四分音は、E♭ミクソリディアンから見てどの様に変じていたのだろう?》という疑問が沸くかと思います。当該音は [f] より50セント高い音でしたので、E♭ミクソリディアンの第2音が50セント高く変じられていたという事が判ります。
本質的な問題として知りたいのは、ミクソリディアンの第2音を50セント高く変じる事の《脈絡》という根拠でありましょう。結論から言うと、この根拠は《鏡像音程》という脈絡で用いられる物です。一部のジャズの流派では「ミラー・モード」と一括りにされている所もありますが、そのミラー・モードの脈絡自体、どう取扱って好いのかと方法論が整備されていないのが実際ではなかろうかとも思います。
E♭ミクソリディアンのモーダル・トニックとなる基本音から250セント高い所に当該四分音が存在していました。では、その鏡像音程はどこに現れるか!? と問われれば、基本音から250セント低い所に現れる事となります。つまり [des] (D♭)音より50セント低い所に鏡像音程が現れるという事となります。これは、自然七度の脈絡を四分音的に均した解釈であり、《自然七度の鏡像音程》という脈絡を意味するという訳です。
5小節目4拍目では32分音符の連行で括られた一連のチョーキング・アップ&ダウンとなる部分をチョーキング・ビブラートではなく敢えて音符を明示しているのは、その後に続くチョーキング・ビブラートも概ねこれ位の変化量という事を表しています。加えて、そのビブラートが明確な拍節感として現れている状況を私は敢えて音符にして表しているのであり、以降のチョーキング・ビブラートもそうした違いがあります。
尚、チョーキング・ビブラートでの最初の微分音のみ変化量を充てているのは、その後に現れる同様の四分音も 'simile' と同様の意味となる物で、記譜法的に見ればこうした《いちいち表さずとも判るだろう》という状況になると注記を省くのは能くある事です。逐一表さないと気が済まない質の私からすれば相反する様な選択を採っている様に思えるかもしれませんが、西洋音楽の楽譜ではこうした選択は珍しくないかと思います。
6小節目2拍目で生ずる [eses](E♭♭)音は、「E♭」音上の減八度相当となる脈絡と捉えています。バリー・ハリスやプロコフィエフで生ずる音ですので注意をされたし。過去の私のブログ記事では関連する話題を語っているので、ブログ内検索をかけていただければより詳しく解説しておりますのでご参考まで。
7小節目は割愛しますが、8小節目でもE♭ミクソリディアンの第3音を変じて [ges] が多用されています。まあしかし、素晴らしいフレージングであります。
9小節目でコードは二度ベースではあるものの「C△7(on D)」という風に六度進行を採ります。唐突な感じが希薄なのも絶妙ですが、注意すべきは同小節3拍目の5連符の [4:1] 構造のアタマ抜き。これはついつい付点8分のアタマ抜きや6連符 [5:1] のアタマ抜きの様に感ずるかもしれませんが、茲は5連符であります。
10小節目1拍目。タイが架かった直後の [a] より50セント高い微分音はチョーキングですが、このチョーキング直後に下行スウィープを入れているのが難しい所でしょう。チョーキング音が残ってしまったり、チョーキングそのものが下がってしまってスウィープに移ってしまってはならないので、楽譜では平然と音を表しますが、難しさが宿る箇所であろうと思います。余談ではありますが、同小節4拍目の [g] 音ミュートに付与されるクサビ型の記号はジャズ/ポピュラー音楽では見慣れないかもしれませんので敢えて語っておきますが、この記号は「スタッカーティシモ」であります。スタッカートよりも短く切るという物です。
尚、同箇所で奏される [dis・ais] 音というのは、「C△7(on D)」での《三全音調域》=裏モードを想起した併存のアプローチであろうと解釈した為、こうした表記にしております。つまり、「Dミクソリディアン」の調域(Key=G)が原調であるので、自ずとその三全音調域は「G♯ミクソリディアン」を採る事となります。
そうして「G♯ミクソリディアン」を想起し乍ら、[gis] を基本音とした時の上音= [5th・9th] 音である [dis・ais] が視野に入り、それらと原調との併存という事になるという訳です。
11小節目3拍目では、あらかじめチョーキング・アップをしてからの微分音を用いております。楽譜上では [b] より50セント低い(数値は記載漏れ)訳ですが、あらかじめ50セント低い音をギターで出す事は出来ないので、少なくとも「50セント高い」チョーキング・アップで入る事になります。つまり、[a] より50セントあらかじめ高くしなければならず、直後の [b] はハンマリング・オンで出す必要があるという訳です。
また、[b] に続く [h] はスライドという所も見逃せないのでありますが、これはその後に続く [d - a] という跳躍進行がスウィープであろうという事と、そのスウィープを自然にする為の運指であるという判断から「ハンマリング→スライド」という解釈を採っております。加えて、同小節4拍目の短前打音(装飾音)からのチョーキングも見逃せないアーティキュレーションであります。
12小節目では冒頭から [fis - d] までのクロマティック下行が続きますが、本箇所はDミクソリディアンが継続していると思われる中でのこうしたクロマティック・アプローチは、ミクソリディアンに対してオルタード感を出す為のアプローチになっているであろうと推察します。
即ち、Dミクソリディアンの音階外となる [f・es] は「♭10th・♭9th」という構造になっており、クロマティックで揺さぶりをかけてもそうしたクロマティック・アプローチが原調となるミクソリディアンから大きく逸脱しない為の物であろうと思います。
そうして同小節3拍目にはDミクソリディアンの第6音に揺さぶりを掛ける様に [h] の前に [b] が置かれます。これもミクソリディアンに対してオルタードな揺さぶり(♭13thに相当)となっているのが判ります。
18小節目のクロマティック上行アプローチに於ても、「減八度」相当の [des] を介在する様にして基のDミクソリディアンが半音階的に揺さぶりを掛けるというアプローチになっております。
尚、同小節4拍目および次の19小節目2拍目では《連桁を切る》という表記を用いて拍節感を分断している所にもあらためて注意していただきたい箇所であります。
加えて、19小節目2拍目以降に現れるスウィープが連続している過程での音階外の音ですが、これは「C△7(on D)」という「Ⅳ on Ⅴ」の型でのコード上に於て、GBだけが「A7 -> E♭7 -> D7alt」というアプローチを想起しているからであろうと思われます。
無論、この仮想的なコード進行はGBの脳裡にしか現れる物でしかないので、出て来る音の全てが分散和音でない限りは完全に確定する事は本人がアナウンスする以外不可能なのでありますが、それでも「A7 -> E♭7 -> D7alt」に立脚するアプローチであろう事は読み取れるであろうと思われます。
付言すれば、「A7 -> E♭7」という三全音進行は単に「裏コード」として表裏一体の状況として用いているので、終止感を演出する為に和音諸機能を循環させる進行とは明確に異なります。こうした裏コードのアプローチはレンドヴァイの中心軸システムに収斂するひとつのアイデアに過ぎず、「A7 -> E♭7」というコード進行は三全音自体はエンハーモニック的に共有している状況であるに過ぎない「静的」な状況である訳です。
無論、コード進行そのものが静的な構造であろうとも、アヴェイラブル・モード・スケールに変化が現れるので、実質的にはGBひとりが転調するかの様な世界観を誘うアプローチとして解釈する方が判りやすいでしょう。
そうして「A7 -> E♭7」の後に「D7alt」に進行するというアプローチでありますが、この「alt」の根拠は、同小節4拍目の高潮点として現れる [b] が「♭13th」を仄めかす音であるという所にあります。それ以外は「D7」に従属する音並びであるので、紐解けば14小節目の1小節内でひとりA7 -> E♭7 -> D7alt」という風に解釈して揺さぶりをかけているという訳です。
15小節目ではDミクソリディアンを基に「ブルー五度」を明示して来ます。つまり音階の第5音がブルーノートとして半音低められる事を意味するので自ずと [a] は [as] という風になります。同小節4拍目で現れる [es] もDミクソリディアンを基にオルタレーションされる第2音 [es] と見て差し支えないでしょう。
同小節3拍目で現れる連符内連符 [3:2] も衆人の耳目を蒐めるかの様に平然と現れておりますが、16分6連の2パルスが3連符に分割されるという意味ですので、お間違えのない様に。
扨て、16小節目1拍目での [cis] はDミクソリディアンの音階外なのであるのですが、[d] へ揺さぶりをかける為の導音として解釈して [des] ではなく [cis] と書いております。
茲で [des] と表記した方が「減八度」という解釈で丸く収まる筈ですが、そうしない理由があるのです。その理由は、同小節内にてDミクソリディアンのダイアトニック・ノートとしての [c] が現れぬままに [cis] という変化音を生ずる状況である事に依り、私は敢えて [des] とはしていないという所に加え、[cis] は [d] に対して《結果的に》揺さぶりというイントネーションが掛かっているのであって、私は三全音調域で生ずる [cis] が優勢にあると解釈しているのです。
また、本箇所に限らずソロ・アプローチは常に三全音調域を想起していると同時に、ミラー・モード(鏡像音程)も常に視野に入っている事でしょう。
ミラー・モードという状況で詳しく照らし合わせると、本箇所では基となるモードがDミクソリディアンである為、この鏡像音程を形成するモードは自ずとモーダル・トニックを共有するDエオリアンが鏡像音程となります。
Dエオリアンはヘ長調(Key=F)調域で生ずる旋法なので、ヘ長調全音階音組織は自ずとCミクソリディアンを包摂します(E♭ミクソリディアンとは短三度/長六度の調域)。そこで中心軸システムを対照させると、後続の「D♭△7(on E♭)」でのE♭ミクソリディアンへと接続するしているという解釈に至る訳です。
17小節目は、16分音符の移勢(アウフタクト)を採ってタイで結ばれた [cis] が現れておりますが、本来であれば本箇所はコード・チェンジしている為《「D♭△7(on E♭)」での [cis] と書くのはおかしいのではないか!?》と疑問を抱く人は少なくない事でしょう。
この [cis] は先述の通り、16小節目で三全音調域(※Cミクソリディアンに対するF♯ミクソリディアン)として解釈していた [cis] の余薫(名残り)という形で現れる掛留であろうと私は考えております。その上で、17小節目1拍目でオクターヴ上に生ずる [cis] の隣音として現れる音は決して「D♭△7(on E♭)」から生ずる脈絡(=アヴェイラブル・モード・スケール)とは異なる経路でスーパーインポーズ(強行)させている状況であると私は解釈しているのです。
それ故に、[c] と書いて良さそうな音を [his] と書いていたり、[c] より32セント高い自然七度の鏡像音程(※基準とする音は [b] にあり、その自然七度= [as] より32セント低い所に現れる音の鏡像音程)を書いていたりするのは、「D♭△7(on E♭)」からE♭ミクソリディアンを生ずるのと同時に、F♯ミクソリディアンを《引き摺って》それを中心軸システムでの併存とする脈絡として解釈しているが故の表記なのです。
また同小節では、E♭ミクソリディアンの三全音調域としてAミクソリディアンの併存を視野に入れつつ、もう一つの中心軸システムの対蹠軸である [C - F♯] ミクソリディアンも視野に入れる事が可能となります。そこで「F♯ミクソリディアン」を視野に入れた時、F♯ミクソリディアンはロ長調(Key=B)の音組織から生ずるモードとなる事で、その音組織から得られる [cis・ais] として音符に態々明示しているという訳であります。
パッと見では到底「D♭△7(on E♭)」からのアヴェイラブル・モード・スケールとは異なる音として書かれるので《見づらい》とは思うのですが、斯様なスーパーインポーズの脈絡を表す為に敢えて書いているという訳です。パート譜だけで済ませるのであれば、読譜にスムーズな音高変化で書く事もありますが、小難しい背景があっての事と捉えていただきたいと思います。
17小節目1拍目だけで縷々語ってしまいましたが、同小節4拍目でのグリッサンドは1オクターヴ上昇、即ち12フレット分上げるという事を意味しているのですが、1オクターヴ上がった直後に音を切るというイメージで演奏すると、オリジナルの感じに近くなると思います。
18小節目3拍目で生ずる微分音ですが、これらは四分音と八分音とで区別しております。後発の方がチョーキング量としては小さいという事を意味します。セント量が幹音からの相対量なので、絶対値としては後発の八分音の方が変化量が大きく見えるものの、チョーキング量としては逆となり小さい可変量なので注意して欲しいと思います。
19小節目2拍目に於ても八分音・四分音が用いられます。セント量と実際のチョーキング量についてはこちらも注意していただきたいのですが、拍頭のスライド直後 [g] から「75セント」のチョーキング・アップを要するそれが、[a] よりも125セント低いという意味ですのであらためて注意をしてほしい所です。
チョーキングそのものの変化量としては、75セント上昇させた所から25セント低める事で、同拍最後の [g] より50セント高い音を奏する様になるという流れを意味しております。
尚、同小節4拍目での拍頭の直後の32分休符が現れた後、連桁が分断されずに一括りになっているそれは、それまでの記譜ルールと何がどう違うのか!? と疑問を抱かれる方も居られるかと思いますので語っておきますが、連桁を分断しない最大の理由は《拍節の一体感》なのでありまして、この《一体感》が表される最大の要素は《音程差が狭い》という点にあります。
音程差が広ければ拍節感に違いが生じて来ます。楽典での語句では三度音程以上の音程差を《跳躍進行》に分類しますが、ヤン・ラルーの言う様にもっと広い跳躍進行を 'leap' と呼んだ様に、更に広い跳躍進行にて拍節感が異なる様に分けても差し支えない状況となる連桁を私は分断していたという訳です。ですので本箇所の場合、拍節感が一体化していると解釈して連行を分断せずに連結させているという訳です。
20小節目は特筆すべき点が無いので割愛しますが、21小節目での32分音符を主体とするフレーズは本ソロの真骨頂とする極点の部分でもありましょう。八分音の僅かなチョーキングを介在させているのも見事です。
22小節目2拍目拍頭で生ずる [eses] =「E♭♭」音は、E♭音を基にした時の減八度由来の音であります。唯、これが下行クロマティックを取らずに逸音となっている所が実に絶妙な減八度の使い方であり、美しい揺さぶりであろうと思います。同拍での後続音では [des - es] と順次進行しているという事を勘案すると、より際立った逸音の使い方であろうと思います。
続いて、同小節3拍目は重音が異なる拍節状況として二声が分離している事で上声部・下声部と分けて書いているのです。下声部の方に目を遣ると、2拍目拍頭で生じていた逸音が八度下で再び逸音として現れます。減八度の使い方を執拗に見せて来ているという訳です。
23小節目2拍目でも微分音を生じ、四分音・八分音が使われる事となります。これは実質的に、チョーキング・ビブラートが6連符という歴時に対してかなり正確に収まるピッチ変化なのでありますが、ピアノ様に階段状の音高変化を生ずる訳ではなく、ビブラートの揺れそのものが歴時に正確であるからこそ音高の「漸次変化」が起きている事を示す為に破線スラーを用いているのです。
24小節目の2〜4拍目ですが、チョーキング・ビブラートを四分音・八分音という風に書き分けているものの、普通の記譜となれば当該箇所を3つの四分音符で表すと思える箇所であります。
然し乍ら、アーティキュレーションの掛かるタイミングや音高変化がその様に均した解釈にはしてくれないのです。仰々しい採譜だとは思いますが、単に視覚的にシンプルな楽譜にしてしまうと、視覚の上から微分音や細かな歴時が消えてしまい、私が語ろうとする微分音やらの側面から遠ざかってしまいかねないのでご容赦の程を。
25小節目。茲からあらためて「C△7(on D)」という風にコード・チェンジとなりますが、ギター・パートはそれまでと打って変わってビブラートで示しています。音高変化という部分ではそれまでと変化量に違いはないのですが、拍節感がそれまでとははっきりしないと解釈したので斯様な表記になっております。また、26小節目3拍目で生ずるビブラートも同様の解釈となっております。
27小節目拍頭 [b] は、Dミクソリディアンの第6音を変じた物であるのはこれまでのアプローチと同様で、同小節3拍目で生ずるグリッサンドは [a] から短三度(3フレット分)上昇させるという事を表しております。
28小節目3拍目では、32分音符によるDミクソリディアンの第3音を変じた [f] がプリング・オフを介して現れています。短い音価ですので、それまでの6音フィギュアのフレージングの繰り返しの様に聴いてしまうかもしれませんが、注意を要する部分であろうと思います。
29小節目の解説は割愛しますが、30小節目2拍目で表している装飾音符は、[g - e] の間に介在する [fis - f] として書かれているものの、装飾音符のそれらが拍節感として明確に現れずに短い音価で生じているだけで、[g - e] という短三度音程全ての音はグリッサンドによる物です。
尚、同小節3拍目でのコード「B7(♭9、♭13)」は、能くもまあ巧いコードを思い付いた物だと感心する事頻りなのでありますが、GBは [d - h] を強行しているので、コード上では「♭10thとルート」を明示してから [g - e] というフレージングが「♭13th、♮11th」となっている訳です。
こうしてあらためてGBのアプローチを見てみると、11thに関しては常に♯11thを採ろうとするのではなく、寧ろ本位十一度(♮11th)を多用している様に思えます。恐らくそれは、コードが「♯11th」を生じておらず、《不完全和音》という体の分数コードが主体となっているが故に11thを本位十一度で用いる事を優先しているのであろうと思います。
付言しておきますが、《不完全和音》とは3度音程で積まれる和音が全て充填されていない状況の和音の事を指します。仮に「G7(11)」というコードがあればこれは《不完全和音》なのであり、「F△/G△」は上下共に三和音という和音構成音が全て充填されていれば《完全和音》であります。同様に、「G11」「G7(9、11)」も完全和音なのであり、「G7(9、13)」は不完全和音なのであります。
本曲は二度ベースを主体とする分数コードおよびオンコードが使われていました。「Dミクソリディアン」が「D11」を想起する事と「C/D」を想起する事とでは大きく異なります。和音も前者は完全和音、後者の分数コードが不完全和音という意味になります。
つまりGBは、不完全和音という状況に於て本位十一度を優先的に採るというアプローチを見せている訳です。
31小節目のコードは「F6/G」ですが、近年では多くの場合「Dm7/G」という四度ベースの型が好まれます。ジャズ/ポピュラー音楽の世界に於て「F6/G」という表記の方がやや《古典的》とも言えるでしょう。私がこう書き分けているのは次の様な理由があるのです。
嘗てジャン゠フィリップ・ラモーは、「Ⅳ6」という状況の付加六度を限定上行進行音として制限し、「F6」の [d] は [e] に進み、「Ⅳ6 -> Ⅰ」という進行を体系化させました。つまり、下属和音は「プレドミナント」という風にドミナントに進む前の和音(※ナポリの和音もプレドミナントである)という従前の体系にあらためて一石を投じる事となり、ラモーは同時に、プレドミナントではなく「サブドミナント」という風に名を変えて和音諸機能を一変させます。
とはいえ後年、アルフレッド・デイが 'Treatise on Harmony' にて《Ⅳ6とは属十一・属十三の断片にすぎない》とします。つまり、下属和音は、根音を欠いた不完全和音の一部に過ぎないという風に解釈します。こうした変遷があり、あからさまなドミナント感を避ける和音の使い方がやがてはジャズ/ポピュラー音楽にも用いられる様になります。
ジャズとて元は13thコードを多用していたものの西洋音楽由来のこうした用法は新たな形で継承され、下部付加音であろうオンコード、不完全和音であろう分数コードという風に使われ、「Ⅴ13ではあまりに重々しい」音が「Ⅳ6 on Ⅴ」になり、限定上行進行音の呪縛が不必要である事で「Ⅳ6」は「Ⅱm7」へと同義音程和音に転じて「Ⅱm7 on Ⅴ」のスタイルが定着する様になっているというのが歴史的な順序なのです。
ドミナントで本位十一度音を含むのはアヴォイド・ノートと斥ける事勿れ、これは古典的でもあり、調を見渡すという点では非常に重要な使い方なのであります。自然倍音列に阿り、「♯11th」へと半音階的に均したスクリャービンのそれの方をバークリー式が採用しただけの事に過ぎず、GBはジョージ・ラッセルのリディアン・クロマティック・コンセプトに則っている訳でもなければ、新たなジャズ・ハーモニーに反旗を翻している訳でもありません。
唯、《調性を感じさせ乍らコードだけは嘯く》という状況がGBには《頭隠して尻隠さず》の様にあざとく映るのでしょう。薄々感じているそれをリディアン系統で嘯く必要はなく、コードの構成音としても省略されている。それこそリディアン系統で埋め尽くされたかの様な方法論よりも本位十一度音を優勢に採る方がよっぽど新鮮味もある。そういう魅力と自身の抱くフレージングの良さが本位十一度を選択させているのであろうと私は感ずるのです。
扨て、本小節でのGBのソロはスライドを多用しております。また、今更語るのも遅過ぎるかもしれませんが、私は《2フレット以上の急滑奏》をグリッサンドと呼んでおり、スライドは自ずと±1フレットの急滑奏という事を意味します。フレット楽器では稀にではありますが、フレットを変えずに運指だけを替えるという状況もあるものの(例:8フレットを小指で押さえ乍ら薬指に替えて掛留を維持)、この場合同一フレット上でスライドをさせているという訳ではありません。私がスライドを明示している時は、±1フレットの範囲であると判断していただければ幸いです。
32小節目のコードは「G7(13)」となります。先行和音である31小節目のコードが「F6/G」だったので《前後のコードも結局はドミナントなのか?》という風に、単にドミナント和音が姿を変えただけという風に捉えてしまう方はもっと重要な部分に気付いていないであろうと思われます。
31小節目の「F6/G」がドミナントの不完全和音であったとしても、32小節目の「G7(13)」との属十三の不完全和音とは決定的な違いがあります。それが《三全音の有無》という事です。無論、前者には三全音 [f・h] を欠いており、後者が初めて三全音を包含します。
三全音の有無となれば、単にコードが姿形を変えただけという風に言う事はできなくなる程の「豹変」ぶりだという事をあらためて念頭に置いて欲しいと思いますし、32小節目1拍目で現れる四分音は [f] よりも50セント高く、これがドミナント・コードの7th音よりも50セント高いという事はどういう脈絡から得ているのか!? と疑問に抱く方も少なくはないであろうと思います。
その脈絡は、《根音から1050セント上方》にあるという事が既に答を仄めかしているのですが、「1050」は3で割り切れると言えばヒントになりますかね!? 1050÷3=350セントという事になりますが、これは不正解です。実際は複音程に還元します。1オクターヴ+850セント=2050セントというのが大雑把な脈絡であり、850セント(実際には840.528セント)とは自然十三度であります。
2040.528セントを6等分すると「340.088セント」を導くのであり、これが四半音階的に均され「350セント」を生ずる。奇しくも根音の350セント上方は「ブルー三度」を確認する事が可能となる訳で、2040.528セントを6等分した時は次の様に
340.088【ブルー三度 (39/32)】
680.176【40/27】
1020.264【65/36 or 64/35】
160.352(+1200が本来の複音程サイズ=1360.352)【800/729=(2^5)*(5^2)/(27^2)】
500.44(+1200)【(3^52)/(2^89)】
840.528(+1200)【13/8】
という純正音程比からの脈絡が半音階的に均されていると解釈する事が可能です。
特に、自然十三度は実質的に四分音的に均される事も多いので、その脈絡は根音の「850セント」と解釈しても誹りを受けませんし、根音から1020セント上方も実質的には四分音的に「1050セント」と解釈しても誹りを受ける事の無いものです。
こうした脈絡から判る様に、自然十三度の等音程構造からの脈絡でありますし、自然七度を複音程へ還元(1200+969)した音程を6等分した単位音程も四分音的に均せば同様の音脈を得る事となります。つまり、自然七度と自然十三度からの脈絡を四分音的に均した経路である事で、脈絡という点ではかなり強い因果関係を持つ物と言える訳です。
更に、「G7(13)」上で [f] より50セント高い=中立七度を使う事の出来る根拠は!? と言うとそれは、ブルー三度の五度上(四度下)なのであり、上掲の6等分した等音程のブルー三度に対して「四度下=500.44」を採ろうと「五度上=680.176」を採ろうと中立七度の近傍を生ずるのであり、また、等音程の「160.352(+1200)」という中立二度の鏡像音程が結果的に四分音的に1050セントという中立七度近傍を得るので、こうした脈絡で中立七度が使えるという事をも意味します。
尚、「680.176セント」となる音程は、結果的に四分音的に「五度」に均されるだけの事であり、調性音楽に於てこの音程=「40/27」という音程はグレイヴと呼ばれ、純正完全五度よりもシントニック・コンマ分低くウルフを生ずる音程として忌避される物であります。
等音程分割に依る単位音程で偶々忌避される音程が生じようと、調性音楽では忌避される音程も使い方次第なのであり、手前味噌ではありますが私が制作した微分音の使用例では、根音から数えて転回位置でグレイヴを生ずる(=十分音由来である) [h] より20セント低い音を四分音と併存させて用いている例がありますのでご参考まで。
話を戻して、同小節4拍目の [ais] は「♯9th」という脈絡で生ずる表記なのであり [b] なのではありません。
そうしてソロは短前打音 [ais] から上行導音を採って「C△9」上でのメジャー7th音で終えるという訳でありますが、一連のGBのお手本の様なスウィープ・ピッキングはおろか微分音も含むフレージングはとても参考になるのではないかと思います。
こうして「Sunwalk」に於けるGBソロについて語って来ましたが、本曲はキャッチーなテーマで知られているにも拘らず、ギター・ソロには微分音も含む非常に参考になるアプローチが存在するという点をあらためて注目していただければと思います。
フューズ・ワンというバンドはアルバムを3枚残しておりますが、1stアルバム『Fuse One』がTDKカセット・テープ「AD」1980年のCMソングで使われ、クロスオーバー・ブームが残っていた国内の地盤でインストゥルメンタル楽曲と雖もそこそこ売れた事で続いたユニットであります。
TDK「AD」のCMも、マイルス・デイヴィス、スティーヴィー・ワンダーと続いてのフューズ・ワンの「Double Steal」は、YMOが最も売れていた時のインストゥルメンタル楽曲で、オーバーハイムのリードとスタンリー・クラークに依るテナー・ベースとのオクターヴ・ユニゾンのメロディーは衆人の耳目を惹いた物でした。テレビから明確に聴こえる(当時のテレビの再生音など知れたモノ)ウィル・リーのベース音も実に良かった物でした。
私個人としては、同アルバムでは「To Whom All Things Concern(ジョン・マクラフリン作)」「Friendship(トニー・ウィリアムス作)」の2曲が好きでして、前者はコード・ワークも素晴らしくスタンリー・クラークのアコベが絶妙であります。
後者はトニー・ウィリアムス作で、ジョー・ファレルのアンブシュアを利かせた微分音も絶妙ですし、何より素晴らしいコード・ワークです。ジェフ・ベックの『ブロウ・バイ・ブロウ』『ワイアード』の少々くぐもった世界観が好きな人にはピッタリの曲調であろうかと思います。
そうして2ndアルバム『Silk』が1981年にリリースされる訳ですが、今を思えば80年代に差し掛かっているというのに《この音》というのがあらためて素晴らしい世界観であろうと思います。アナログ・シンセのポリ数は増え、ドラム・マシンもリリースされて世はデジタル・サウンドへの移行期であったにも拘らず、そうした世界観に侵食されずにリリースされていた事で、何年経っても色褪せない世界観になったのでありましょう。
尚、アルバム『Silk』ではジョージ・デュークのアルバム『Reach For It』収録の「Hot Fire」のカヴァーが収録されています。本曲はクレジット通りヌドゥーグ(レオン・ヌドゥーグ・チャンクラー)作曲であるので、ジョージ・デュークの曲ではありません。
然し乍ら、テレビドラマ『大都会 PARTⅢ』のテーマとして使用された『大都会 PARTⅢのテーマ』は高橋達也と東京ユニオンの荒川達彦が堂々と引用した為、当時を知る人の多くは『大都会 PARTⅢのテーマ』だと認識する人が多いと思われます。
まあ、荒川達彦に助け舟を出すとすれば、ブリッジ部の引用以外の本テーマはオリジナルには無い素晴らしい強力な線運びとなるメロディーなのでありますが、ヌドゥーグ本人が本テーマのそれを聴けば屈服してしまうかもしれない位にクオリティーの高いメロディーだとは思いますし、ヌドゥーグ本人も黙認しているのかもしれません。それが《強編曲》として扱われているかどうかは定かではありません(JASRACコード:029-7488-6に於けるクレジットは荒川達彦本人のみ)。
私がヌドゥーグを最初に知ったのはディー・ディー・ブリッジウォーターのアルバム『Just Familiy』やジェイ・グレイドン參加のフローラ・プリムのアルバム『Nothing Will Be As It Was...Tomorrow』で立て続けに耳にしたのが最初であり、その後ジョージ・デューク絡みで多く知る事になるのですが、艶かしいドラムのチューニングが好きで今猶音作りのお手本とさせていただいているドラマーのひとりです。
そうして1984年にフューズ・ワンは3枚目のアルバム『Ice』をリリースする事となるのですが、本アルバムは失敗だったと言えるでしょう。デイヴ・マシューズがプロデュースしているのですが、一部の楽曲ではメロディーが統率されておらずブルージィーな線運び(モード選択)でのプレイヤー任せという、曲作りに於けるプロットも明確になっていない(B面1曲目の「Just Funkin' Around」)など酷い内容でした。
まあそれでも、「Requiem For Marvin」はお涙頂戴的な程のメロディアスなバラードで、FMでは結構流れていたのですが、一番良い作品は「Groovin' Song」でしょうか。それでもジェレミー・ウォールがヴォイシングをミスってしまいそのまま録音されているという状況であるのですが、ヴォイシングを間違えてしまった為に、次小節の別の和音でも同様の倚音をわざと入れて誤魔化す(2度同じ過ちを繰り返せばミスではない)というマイルスの言を利用した誤魔化しと言えるでしょう。
今あらためてフューズ・ワンの3作を振り返ると、矢張り最も良かったのは1stアルバムではなかろうかと思います。そこには、日本国内に於けるクロスオーバー・ブームが基盤となっていたというのが重要な側面なのでもありますが、元々日本国内では映画音楽が後押しする様な形で、西洋音楽とは異なるイージー・リスニングやその他のインストゥルメンタル音楽に対して一定以上の評価を得ていたであろうと思われます。
そうして音楽が多様化していき、R&Bやビッチェズ・ブリュー以降のマイルス・デイヴィスが後押しして「クロスオーバー化」が進んで行く事となります。
テレビで最も後押しする事に貢献していたのは慶應学閥で固められた日本テレビの楽才溢れる貢献でありましょう。そうして『11PM』『ゲバゲバ90分』『ルックルックこんにちは』『ルパン三世(大野雄二)』『ウイークエンダー』『目方でドーン!』『アメリカ横断ウルトラクイズ』などに受け継がれて行ったので、クロスオーバーの到来を知っていたかの様にジャズ心がある音楽を流していた物です。
TBSでも『刑事コジャック』『ムー』『ムー一族』の辺りがクロスオーバー流行を見せていた物でしたが、日本国内では76〜80年位がブームであり、最盛期が78〜79年辺りであったろうと思います。
それを思えばフューズ・ワンの登場が80年というのはかなり遅い物であり、《そろそろ古臭くなって来たか!?》などとも囁かれる様な時に登場した訳ですが、矢張り当時を知る者からすれば親しみやすいインストゥルメンタル音楽であった訳でもあります。
そうした名残りが1983年になって再び回帰するかの様に、TDKカセットテープの新銘柄「AD-S」のCM曲にシャカタクの「Night Birds」が使用され、多くの学校での吹奏楽に使用されていた位ですから、クロスオーバー/フュージョンの地盤は侮る事勿れ。
とはいえ、主メロディーに耳目を惹かれるだけの耳であっては到底クロスオーバーの醍醐味を堪能する事はできないので、インプロヴィゼーションが炸裂するソロ・フレーズにあらためて傾聴する事が音楽の深みにアクセスできるという訳で、そこに今回のGBの様なソロ、しかも微分音まで使ってくれるという例に肖る事ができるという訳です。そういう意味でもクロスオーバーを軽んじる事なく耳にしていただければ之幸いであります。