大貫妙子を意識してみた「Curtains / 高橋幸宏」譜例動画解説
扨て今回は、YouTubeの方で譜例動画としてアップロードしている「Curtains」という楽曲について詳密に語って行こうと思います。
本曲は、高橋幸宏の3rdソロ・アルバム『ニウロマンティック ロマン神経症』に収録されており、アナログLP時代はB面3曲目に収録されていたもので坂本龍一が楽曲提供(作曲者)となっておりますが、アルバム中本曲と松武秀樹作曲の「New (Red) Roses」の2曲の方がROMAN吉忠もとい「ロマン神経症」という副題に相応しいほどにメランコリックな世界観を醸し出しているのが特徴的であろうと思います。

何より「Curtains」の方はインストゥルメンタルではないので、高橋幸宏の唄が入るという事で、どこか陰鬱なメランコリックな色彩が色濃く反映されているのではなかろうかと思います。
本曲は坂本龍一提供という事もあって、下準備として山下邦彦著『坂本龍一・全仕事』『坂本龍一の音楽』を調べてみた所、どちらも全く触れられていないというのは実に驚きであり意外でありました。
本アルバムのオリジナル・リリースとなる1981年6月はYMO活動期の絶頂期を迎えた頃でもあり、YMOのアルバム『BGM』発売直後のソロアルバムでもあるので相当に力瘤の蓄えられた重要な時期での作品となるのですが、全く記述が見られなかったのは残念でありました。山下の著書は、自身のコード分析は扨措いても坂本龍一本人が提供する原譜などの資料を図版で確認可能な底本となる物ですので、そういう意味では非常に残念な事頻りです。
本曲は楽理的側面でも非常に重要で看過できない点があり、本記事ではあらためて詳らかに述べて行こうかと思いますが前振りとして述べておきたい事が幾つかあるので、それを語ってから本曲の譜例動画解説を進めて行こうと思います。
本曲の特徴として挙げたい点のひとつに、アタマ抜きのベース(※イントロを除く)の八分音符でのフレージングというのがあります。この特徴は坂本龍一のソロ・アルバム『B-2 UNIT』収録「iconic storage」に酷似する物であり、もしかするとこれらは原案として「iconic storage」があって、調性感の強い「Curtains」が別系統のアイデアとして誕生していたのかもしれません。
また、ドラム・サウンドとして808をかなり混ぜているのも特徴的な部分でありましょうか。私の譜例動画のデモは、スネアはあからさまに808のそれを使っておりますが、「Drip Dry Eyes」の様に808のキックを混ぜた音などの反映はさせておりません。
全体としてはギターにリング・モジュレーションを多用している事もアルバム『ニウロマンティック』の特徴でもあり、H949と思しきピッチの揺らいだハーモナイザーとディレイも多用しているという点は譜例動画デモの方に於ても踏襲しております。
茲から本曲の解説を小節順に語る事になりますが、まずはイントロの8小節のみベースは各小節毎の1拍目拍頭は奏しているものの、他は全てアタマ抜きとしているのでご了承願いたいと思います。
本曲のキーは「Am」ですが、過程では脈絡が希薄であって当然の様なコードも出て来るのが非凡な坂本龍一作品ゆえの世界観とも言えるでありましょう。1小節目はトニックとして「Am7」が現れ、2小節目では早々とフィクタ無しの「Ⅴm」としての「Em7」が出現します。
下方「四度進行」(※上方では五度に見える)はプラガル進行でありまして、更に続いて3・4小節目では「B7(♯9)」として、原調のⅡ度が副次ドミナント化したものですが、特徴的な「♯9th」は実質「♭10th」であり、’Synth 3’ パートが拍頭にある上接刺繍音 [e] の直後に奏される [d] を実質的に [cisis] と同義にしているという解釈であります。
ある意味では、イントロの3・4小節目で生じる「 B7(♯9)」というコードを「B△」と「Bm」という凖固有和音および同主調の脈絡に依る併存での「複調」として捉えても、本曲に於てはそうした解釈は非常に役立つ事となるでありましょう。同時に、その後現れるであろうという「複調」の示唆となる呈示とも言えるでしょう。
続いて5小節目のコードは「Dm7」なので原調のⅣ度に進行しているので、先行和音「B7(♯9)」は脈絡のないまま措定されての六度進行になっている事になります。こうした場合に於ける「B7(♯9)」という副次ドミナント和音の存在は、行き場を失って佇立する感が生じますし、六度進行となる部分が少々唐突な転調感を齎す様にも聴こえるであろうと思われます。
短調のⅡ度上の和音が変化和音として機能するという事で読み応えのある本がトゥイレ/ルイの『和声学』(山根銀二・渡鏡子共訳)なのですが、短調Ⅱ度上の和音(=平時はディミニッシュ)の第3音のみ《半音上げて》の硬減和音=hard diminished を作り出すという事を述べている物であり、その場合自ずとジプシー調が視野に入るという事になるのです。
先の「B7(♯9)」は原調Ⅱ度上の和音の第3&5音がそれぞれ半音上がった上で増九度(実質的に短十度)が付与されているという事にもなる為、その時点で唐突感は演出されている状況にあるのですが、「♯9th」が原調との共通音であるコモン・トーン [d] として繋ぎ止めているとも言え、非常に重要な役割でもある訳です。
それを何事も無かったかの様にして5小節目「Dm7」という風に原調のⅣ度にしれっと進行しているという所も、《オイオイ、さっきまで泣いていたのにケロッとしてやがる》かの様な気紛れ感がイントロにて早々と演出されている様に解釈可能な訳です。
そうして6小節目では原調はフィクタを採って「E7」としてドミナントが正体を現し、7・8小節目でトニック「Am9」に解決するという状況になっているのです。茲で「Am9」という風になっている所も、和声的な重々しさが後の世界観を暗示している様に思える所です。
9小節目はAテーマ冒頭となり、サブドミナントである「Dm7」から開始されます。茲からの4小節(9〜12小節目)のコードを次の様に羅列してみると、
9小節目・・・Dm7(Ⅳ度=サブドミナント)
10小節目・・・Fm7(♭Ⅵ度=下中和音であるもののノンダイアトニックである凖固有和音)
11・12小節目・・・Am7(I度=トニック)
という風になっている事になり、全てはマイナー7thコードのパラレル・モーションと同等なのですが、特にノンダイアトニック・コードである「Fm7」は実に曲者で、これは凡庸な人間ではなかなか想起する事のできないコードでありましょう。
それというのも、10小節目の主旋律の流れを見てみれば明らかに「Ⅴ7」(E7)を充てても何らおかしくはない、ドミナントが相応しい線運びなのです。無論、この旋律には [c] 音が明示的に奏されていますが、これは短属九=「Ⅴ7(♭9)」を喚起しているが故の [c] 音として通常は耳にする筈なのです。
そうしたドミナントを叛いて「Fm7」を充てているというのは遉坂本龍一という所でありましょう。然し乍ら私は、この「Fm7」というコードは《実質的に》属音省略の「減属十五」の和音であると解釈します。
減十五度=「♭15th」という和音の取扱いは、通常の機能和声ではまず見掛ける事はありません。半音階を視野に入れた上での ‘minor 23rd’ という半音階の総合である通俗的には「属二十三の和音」として知られる様な状況を視野に入れない限り、「♭15th」という音を視野に入れる事は先ずありません。
ジャズ・フィールドに於てはハービー・ハンコックが多用しますし、バリー・ハリスのメソッドでもドミナントに於ける減十五度の活用は出て来ます。
簡単に考えてもらえればそれほど困る物でもないのですが、つまり「♭15th」とは半音階の世界が少し顔を出した状況として、それが「半音階の断片」であると解釈すると判りやすいかと思います。
機能和声の社会では「全音階」で事足りる訳ですから半音階を見る必要がありません。ですので和声堆積でも13thで充足する。こうした状況で事足りているのが殆どでしょうから「♭15th」やらに触れる機会が無い、唯それだけの事に過ぎないので難しく考える必要はないのです。
こうした事を踏まえた上であらためて「Fm7」とやらを見てみると、本来あるべきドミナント・コードである「E7」上の「♭9th」= [f] に加えて、「♭15th」= [es] という風に解釈すると、あらためてドミナントとの脈絡が見えて来るかと思います。
そして、本来あった筈の「E7」という基底和音の [gis] のみを援用し、結果的に属音が省かれた和音として「Fm7」に異名同音 [as] として取り込まれ [f・as・c・es] となっていると私は解釈しているのです。
何故こうした突拍子も無い想起をするのかというと、後に現れるギター・ソロでの当該箇所でマンザネラが突拍子も無い事をしているからなのですね(笑)。しかもその突拍子の無さは半音階的な視野および複調を視野に入れない限りは説明が付かない程の物なのですが、こうした事を後に詳述すると、それがまさに「そうあるべき」世界観だったという事を思わせる程のアプローチに基づいているという事が繙かれるのであります。
ですので、現時点では突拍子も無い眉唾な理論の様に思われるかもしれませんが、ギター・ソロを語る頃にはストンと腑に落ちる様に順を追って説明しますのでお待ち下さい。
扨て13小節目ではサブドミナント「Dm7」で始まる様に繰り返され、14小節目でも同様に「Fm7」へ進行しますが、15・16小節目では奇を衒うかの様に三全音進行で「Bm7(11)」へ進行するのですから畏れ入るばかりです。
三全音進行という事はトリトヌス対斜を包含する訳ですが、坂本龍一自身は当該箇所を全音階という世界観の括りで捉えていないので「Fm7」+「Bm7(11)」というふたつの和音のペアこそが「ドミナント」←これは音階上の「Ⅴ度」というよりも単に不協和音という意味で用いているのではなかろうかと思います。
なぜならば「Fm7」と「Bm7(11)」の基底部の和音構成音(=四和音として)をそれぞれ次の様に列挙すると
[f・as・c・es]+ [h・d・fis・a]
という風に、それぞれの構成音を転回位置に還元すると半音同士で寄り添う関係となっている事が一目瞭然であります。こうした半音階の隣接状況が示される事で、クロマティシズムを強化させた音楽観に基づいている事が視覚的にもお判りになろうかと思います。

無論、これら2組の和音を一挙に鳴らしてしまえば「不協和音」の骨頂とも言える耳に厳しい音が出て来るでしょうから、2小節ずつ「分けて」響かせているだけの半音階の世界の断片として受け止めれば、この場合のトリトヌス対斜が実に計算高い調性プランに基づいている事が理解しやすくなるのではないかと思います。
本来ならドミナントに進んでおかしくはない斯様な《遠い脈絡》の関係に見える状況は、実際にはそれほど遠い物ではない事を補足する説明として ‘Tonnetz’(トネッツ)の概念を用いた「ネガティヴ・ハーモニー」を利用して説明する事も可能です。
旋律形成から勘案して、通常ならば属和音である「E7」が現れておかしくはない箇所に「Fm7」が充てられたという状況を取り敢えずは「E7」の基底和音の部分(=トライアド)を抜粋してトネッツ上で確認してみる事にしましょう。
扨て、Aテーマ冒頭の「Dm7」を基底部分の「Dm」としてトネッツ上で確認すると次の様な三角形を描いているのがお判りになる事でしょう。
そこから仮に、予測されうるドミナント「E7」の基底和音「E」へと進んだ場合、トネッツ上の三角形は次の様に示される事となります。
そうして、トニックである「Am」へと解決すると、トネッツ上の三角形は次に示す通りになっているという構造であるのです。
この [A - C - E] という三角形の近傍に位置する三角形は、如何なる向きであろうともそれは [A - C - E] に《近い脈絡》となって存在している事となります。「Dm」も隣接して存在しますし、[g] から [gis] へ変応した属和音も [A - C - E] には [e] という角を接して隣接し合います。
近親性という状況のみで勘案すれば、[c] という角で隣接する三角形を表しても近親性は担保される事になります。そこで、次のトネッツ上で [F - G♯ - C] という三角形を見てみましょう。
茲での新たなる三角形 [F - G♯ - C] の [gis] を異名同音 [as] に変換しさえすれば、コードは「Fm」を導いている事となり、結果的に [E - G♯ - B] という三角形を反転させている形状を確認する事ができます。
つまる所、トネッツ上で識別が容易になるネガティヴ・ハーモニーに依る脈絡を以てしても、あらためて遠い脈絡ではない所に加えて、属和音の代用および属和音の発展という風にして全音階の世界観にはなかったクロマティシズムの側面を垣間見る事ができるのです。
ネガティヴ・ハーモニーという状況に固執する事で、基底和音としてではなく「属七」という四和音の状況で投影させたいのであれば、トネッツ上での属七は次の様な形状で表される物となり、

上掲の構造を反転させれば次の様な構造となるので、四和音を維持した「E7」の純然たる投影は「Fm6」または「Dm7(♭5)」となる筈です。

それら2種のコード「Fm6」または「Dm7(♭5)」は同義音程和音と呼ばれる物でありますが、ベース音が違うだけで和音構成音は同一であるに過ぎません。Aメロ冒頭の下屬和音「Dm7」から進行させると、単に1つの声部が半音下行しているという状況ですので、どちらの同義音程和音を選択しても進行的には変化に乏しく、少なくともベースが [d] を維持するよりも [f] に跳躍した方がダイナミックな動きになるという状況です。
その上で「Fm6」よりも「Fm7」へと更に弾みを付けて《改変》させる事に依って得られる [es] 音は、結果的にイ短調(Key=Am)での属音を半音低く変化させる《ブルー五度》を生じてブルージィーな状況を作る事に貢献しており、手垢の付きまくった方法論のひとつであろう属和音を易々と使うよりも音楽的な揺さぶりがかかるという訳です。
17〜24小節目はAテーマのリフレインとなるなので解説は割愛します。25小節目からは本曲の非常に象徴的な部分となるBテーマが開始されますが、コードは「F♯m7」へと進みます。
この進行から見える事は、先行和音「Bm7(11)」が原調のⅡ度という事をそのまた前にある先行和音「Fm7」が原調を暈しているので、「Bm7(11)」は原調のⅡ度というよりも新調(Key=F♯m)のⅣ度に転じている様にもあらためて感じさせる訳です。
そうして「F♯m7」が一旦のトニックなのかと思いきや、この瞬間に新たなる新調としての平行長調=(Key=E)のⅡ度に転じると解釈します。
26小節目は実質的に新調の「♭Ⅱ度」としての「F△7」として変化し、これが原調(Key=Am)の♭Ⅵ度とのコモン・トーンとして転義しているという訳です。つまり、原調の調域を平行長調側の主権と見做して「Key=C」を見立てると、調域そのものは二全音(Key=E)との間を部分転調を起こしているという解釈になります。
26小節目で、原調との同一のコードとして転義させる事が可能である以上、この時点で姿を原調に戻して解釈する事が可能となります。
27小節目では単なるメジャー・トライアドの3度ベースである「G (on B)」でありますが、調域そのものは原調に戻ってはいても「属七」の体にはしたくなかったのでありましょう。加えて、先行和音「F△7」の根音 [f] からのトリトヌス対斜をベースが執り行う事で調的には希釈化される事に加担するので、こうした3度ベースもその後のクロマティシズムの骨頂を見る事になる為の示唆でもあるのでしょう。
また、27小節目3拍目弱勢で現れるコード「C△7」の時のベースの動きは或る意味で「罠」ですね(笑)。3拍目弱勢→4拍目拍頭こそベースは [c] 音を奏していますが、4拍目弱勢でまた [h] へ下行するのです。これは結構採譜泣かせの箇所であろうかと思います。次の和音ではベースが増二度進行になる事は明らかなのにこれをやるのは凄い事だと思います。
28小節目のコードは「A♭△7」へと進みます。これは、Aテーマで現れていた「Fm7」のコードを全音階的な三度上にあるコード(=カウンター・パラレルと呼ぶ)ですから、「Fm7」が陰を担っていたとするならば「A♭△7」は陽の側である事を指し示す状況でもある訳ですね。
29小節目ではプラガル進行で「E♭△7」へ進んで新たなるトニック・メジャー感の様な感じすら思わせますが、30小節目ではスケール・ワイズ・ステップ進行となっているにも拘らず、それが「♮Ⅶm7(♭5)」ではなく、しかも「マイナー9th」という型での「Dm9」が唐突な程に現れるのですが、この進行には目が覚めるかの様にハッとさせられる物で、素晴らしい進行だと思います。
29小節目3拍目弱勢では「Dm7(on G)」という風に経過和音を挟みますが、この「Dm7」というのはとても曲者で、和音構成音自体は「F6」と同義和音であるという事。同義和音というのは和音構成音は同じであるにも拘らず別のコードとしても呼ばれる和音の総称なのでありますが、私の解釈としてはコード表記こそ「Dm7(on G)」を充ててはいるものの実質的には「G11」に相応しいのではないかと感じております。
坂本龍一の分数コードおよびオンコード(下部付加音)の解釈というのは、表記こそはジャズ/ポピュラー音楽に倣う形で表していても実質的にそれは属和音の断片だと感じられる物として、活動初期あたりの原譜に使われている事があるもので、渡辺香津美のアルバム『KYLYN』収録の「I’ll Be There」の原譜となるコード表記からはそれを犇々と感じる事が出来ます。
属和音以外の和音は総じて副和音である訳ですが、副和音にも和音堆積を連ね、軈ては「副十三の和音」(13thコード)まで積み上げた時の副和音の状態というのは実質的に同一の調域で全音階的に生じている属十三の和音の構成音と全く同じであり、単に両者は根音の採り方が違うだけに過ぎません。
例を挙げれば、[レ・ファ・ラ・ド・ミ・ソ・シ] と [ソ・シ・レ・ファ・ラ・ド・ミ] の両者は和音構成音そのものは同一であり、根音の採り方が違うだけという解釈にもなり、分数コードで生じるそれらは調的因果関係を鑑みれば《重畳しい属和音の断片》に過ぎないという風にも考えられるという訳です。
こうした解釈は、遡ればアルフレッド・デイ ‘Treatise on Harmony’ でのラモーの提唱した「Ⅳ6→Ⅰ」の整合性というのは単に属十一の断片(=属音省略)に過ぎないという事に言及(リンク先PDFの90ページ)するという200年前の解釈に帰着するものでもあり、あらためて分数コードという「調性の希釈化」が齎している作用を先人は早々と気付いていた事に畏怖の念を抱かざるを得ない訳ですが、坂本龍一には、それがコード譜であろうとも音楽的に看過できない和声的に重要な側面を感じる事が出来るものです。
余談ではありますが、「I’ll Be There」でのコード進行は属十一などの原譜での表記を、現在の通俗的な表記にあらためて解釈した物を私なりにアレンジした物が次の譜例動画なのであり、各コードに付与して注釈を付けた音名は「三全音」の包含の分布が判る様に示してあります。
そうして31小節目に於て、本曲に於ける実に特徴的なコード「G♭△7(on A♭)」が生じるという訳です。
※このコード表記「G♭△7(on A♭)」は楽譜の方を見れば明白でありますが、あくまで私のアレンジのキーボード・パート単体で見た両手のヴォイシングがそうであるだけで、オリジナルのコード表記は「G♭△7」で済むものなのでご注意下さい。とりあえず同一箇所も2度ベース前提で語らせていただいております。
この2つ前の和音「Dm9」というものは、或る意味では [d] を根音にして上声部に「F△7」があるとも見立てる事ができます。その根音 [d] が《遊離的》に次の和音では [g] へ進んで、更に [as] へと進んでいるという [d - g - as] という完全四度上行の先にある三全音が存在しているという物であり、この遊離的なベースが結果的に、経過的にあるだけの完全四度上行の後にトリトヌス対斜を目指している訳です。
トリトヌス対斜ではあるものの半音階的社会を見越しており、遊離的なベース音を除けば「F△7」という構成音が「Dm7(on G)」という経過和音の後には結果的に短二度上行を採って「G♭△7」へと短二度(半音)上行をしているという物で、「三全音と半音」という2つの半音階の骨頂ともいえる流れが潜んでいるという訳です。
また、「G♭△7(on A♭)」コードも坂本龍一からすれば「A♭13」の断片として解釈しているであろうと念頭に置く必要があるでしょう。
すると、32小節目1拍目で生じる「A♭6」というのは先行和音の「A♭13」から和音構成音を削ぎ落とした体として見做す事も可能なのです。無論、実際には「G♭△7(on A♭) -> A♭6」というコード進行であるので、弾かれている音に変化が生じている以上は「別の和音」なのでありますが、概念的には「A♭13」であるという事です。
そうして32小節目の「A♭6」という事をデイの言葉を思い出せば、これは《「B♭11」の断片である》という風に「Fメジャー・トライアドとしてのⅠ度」へ行こうとする「B♭11」の断片としても解釈する事が可能となるマジックが現れるという事にもなります。
つまり「A♭6」は、先行和音である「G♭△7(on A♭)」の概念的な「A♭13」という和音から削ぎ落とされた和音の姿であると同時に、付加六の和音が実は属十一の断片(=「B♭11」)というふたつの側面を持ったコードに位置付けられる事となり、概念的な世界の側から和音選択を弄ぶかの様にしてコードが使われている訳です。
概念的な世界から見ればそれほど大胆な変化を起こしてはおらずとも、実際に用いる和音の体はシンプルな姿として形を変えている訳です。無論、全音階の機能和声的世界観のそれを総じて属十三と副十三の和音にしてしまえば、そこでの和音進行というのは実質的に根音を変えただけの「静的」な進行を成しているに過ぎず、新たな「牽引力」が副次ドミナントに伴う半音階的変化というノンダイアトニックな力が新たな世界観として作用している訳でもありますが。
そうして32小節目3拍目弱勢ではコードが更に「Fm/B♭」という風に4度ベースの型になっているものの、これまでの「概念的」な世界観を適用すれば、実質的に和音はそれほど大胆に転じてはいないという事が判るでしょうし、「B♭」音を基軸にしたコードがまだ支配を続けているという事もあらためて理解いただける事でしょう。
実質的に「Fm/B♭」は「B♭9」として概念的に想起する事が可能でしょう。しかもこの概念的な「B♭9」は後続和音へのトライトーン・サブスティテューション(=三全音代理)として《しつこく》ドミナントを2回重ねた物となっているのです。
33小節目。茲から2小節は短いブリッジとして私は解釈しており、Bテーマが10小節という解釈をしてはおりません。Bテーマが8+2小節として感ずるかもしれませんが、私自身は2小節の短いブリッジとして解釈しているので楽譜の方では小節線に二重線を振っているのです。
そこで33小節目拍頭ですが「E7(♯9)」へ進んでいるので、先行和音の「概念的」な姿を「B♭9」と想起した事を踏まえると、三全音代理として「B♭9 -> E7(♯9)」と進行している状況として解釈する事も可能であり、ドミナントを2回しつこく続けていると述べたのはこういう事です。
同小節2拍目からは更にオルタード・テンションが加わり、原曲ではギターのカッティングが「♭13th」を明示的に奏する為この様に表したという訳です。
Bテーマでは坂本龍一の特徴が能く現れている箇所であろうとも言えますが、ドミナントがトニックへ解決せずに保留したまま他調へと転調するというのはYMOの「東風」のサビに顕著な点なのであります。つまり「ツーファイヴ」進行である「Ⅱm7→Ⅴ7」という2つのコード進行を1組のペアとして見立てた場合、このペアが更なる後続となるトニックへ解決する事なく新たなる調域でのツーファイヴを更に重ねればトニックへ解決する前に転調して新たなツーファイブ進行を重ねるというドミナントのしつこさの一端を垣間見る事がお判りになろうかと思います。これは元々がベートーヴェンに着想のヒントを得ているという事にも繋がる技法のひとつを垣間見る事になり、奥深さを感じ取る事が出来るかと思います。
此処までテーマA・Bを取り上げて来ましたが、矢張り坂本龍一の分数コードの捉え方というのは属和音の断片からの拡大解釈が根柢にあると考えて差し支えなかろうと思います。
然るに芸大和声(島岡)と知られる『総合和声 実技・分析・原理』p.154での「第6章 さまざまなS和音」では、山下邦彦著『坂本龍一の音楽』p.334でも取り上げている様に坂本龍一とのインタビューでの「sus♯4」という和音の取扱いに於て援用しております。『総合和声』での「付加6・付加4・5省」などを見ればお判りになる様に和声の歴史として今でこそ「S」はサブドミナントと称されるものの、和声学としては機能和声を優先的に、且つサブドミナントではなく「プレドミナント」という事を実際にはこっぴどく教えている訳でして、「S和音」というのも実質的には副和音でしかない属和音の断片である事が判ればそう難しい物ではないのです。
とはいえ、ジャズ/ポピュラー音楽が先にある人間からすれば突拍子も無いコードとして捉えられかねない訳ですが、実際には属和音の発展と上方倍音列の採り込みに伴った掛留が和声発展に寄与しているのであり、属和音の拡張的な世界観がお判りになれば半音階も視野に入る訳です。なにせ不協和音という立場は属和音の生まれ持った宿命みたいな物ですから。
但し、平均律が不協和音をより協和的にし、協和音をより不協和に変えたというのも和声の歴史から見れば興味深い側面なのでもあり、そうした平均律が跋扈する現今社会に於て「G♭△7(on A♭)」というコードを概念的な音楽観念から対照させれば「属十三」の断片に過ぎないという風にして事態を収斂させる手段は在って当然だろうとあらためて私は思います。
仮に「A♭13」という本位十一度を内含する属十三和音を用意したとして、そこから第3・5音を省略すれば「G♭△7(on A♭)」と同様の和音構成音を得られます。
《基底和音の第3・5音を省略してしまったら基底和音の存在は無いですやんか!?》
と憂い及び腰になる人は少なく無いかと思います。然し乍ら属和音の特権として上方倍音列の随伴があります。属和音を「Ⅴ度の位置の和音」として耳にした時に強化される心理状況です。この特権が属和音にあるからこそ、属十三は臆する事なく第3・5音を省略する事が出来ると言えるでしょう。何故なら、第3・5音は低次の倍音として随伴するからです。
無論、2度ベースのメジャー7thコードを「属和音」と同様の使い方をする人は少ないですし、何れにしても一般的な属七の響きよりは幾らか機能が中和して聴こえる。それゆえに「下部付加音」とも認知される訳ですから、響きこそ同じであろうとも「G♭△7(on A♭)」に見られる2度ベースのメジャー7thの型には、属十三の断片としての響きと下部付加音としての響きのどちらにも感じ取れる様に二義的な解釈を常に持っている方が後々役に立つ事が多かろうと思います。
34〜48小節目はリフレインですので割愛します。49小節目からはCテーマとなる部分で、4小節の循環コードが用いられます。この循環コードは平行長調(Key=C)の姿が露わになっていると思われますが、経過的にノンダイアトニックの対斜をも包含しているのはAテーマで現れたノンダイアトニック・コードの「余薫」=残り香および記憶として対応させているが故の導入でありましょう。
まず49小節目は「C△9」が現れ、50小節目で「F△7」と進みます。51小節目ではノンダイアトニックで対斜となる「Bm7(11)」が現れ、これが余薫を紡ぐ重要なコードでもあるという訳です。「紡ぐ」という理由は、全音階社会には無い半音階的情緒を呼び込む為の物なので、その為に「重要な役割」を担っているという訳です。
51小節目でも「F△7」に進むので、4小節循環の内3小節は対斜を成立させているという所に、《目覚めたけれどもなかなか起き上がれない》という様な逡巡する感じがコード進行に能く現れていると思います。
この4小節循環はもう一度繰り返され、最後の2小節で [h -c] の2音に依る漸強(クレッシェンド)のストリングスが現れますが、私は今回このストリングスにメロトロンを用いました。因みに楽譜での「coll’ 8va」はオクターヴ下のユニゾンを意味する表記です。
57小節目からはマンザネラと思しきギター・ソロが開始されます。コード進行はAメロのそれを踏襲している物でありますが、このギター・ソロは24フレットを備えていないとオリジナル通りに弾く事はできません。1弦の最高音として24フレットの [e] が使われるからですね。57〜60小節の4小節に関しては他に語る事は特にありません。
61小節目。ハンマリング・オンから入って長二度下にぶつけて来る重音のセンスがその後の凄さを暗示させているのですが、62小節目4拍目で後打音的に入って来る ‘let ring’ 表記は、そのまま音を延ばしてくれという表記です。つまりアルペジオ「琶音」である訳です。小さいタイが付与されているのはレット・リングを示している表記です。
63小節目4拍目から64小節目にかけても同様のレット・リングで奏する必要があるのですが、64小節目1拍目で奏される最高音および直後のプリング・オフについてはレット・リング表記は避けました。但し、先行のレット・リングはこれらの音の時にも生きている、という事なのでご理解願いたいと思います。
64小節目1拍目拍頭の [e] 音が24フレットを示す最高音です。当時のマンザネラが何のギターを使用していたのかまでは判然としませんが、この音を聴く限り24フレットで間違いないのではないかと思います。
65小節目と66小節目は本曲で最も重要な箇所です。1小節ずつ語る事にしますが、65小節目1拍目拍頭では自然ハーモニクスの重音として、ギターの2弦開放の4フレットおよび3弦開放の3フレット上で得られるナチュラル・ハーモニクスをそのまま掛留に、1拍目弱勢では1弦の1フレットを押弦して2全音上にある第5フレット上の節に現れる第4倍音をアーティフィシャル・ハーモニクスで出しているであろうと推察します。
3弦3フレット近傍(概ね2.9フレット相当)で得られる [g] 音の第8次倍音としてのナチュラル・ハーモニクスを奏して来るというのが凄いプレイです。これらのハーモニクスは単音程で長二度と短二度で犇めき合う事になりますが、ハーモニクスが故の甘美な音響的な作用にも貢献しております。
このプレイは恐らく、誰もが認めるであろうデレク・ベイリーにインスパイアされたプレイであるのは疑いのない所でありましょう。
然し乍ら、そのナチュラル・ハーモニクスのプレイの凄い点はデレク・ベイリーを思わせるプレイにあるのではなく、「Dm7」というコード上で [fis] が拍頭で鳴らされている事に加え、直後の弱勢でadd 4thとしての [g] を弾いているのが凄いのです。
このアプローチについては直後の66小節目で明らかになりますが、結論としてマンザネラは「複調」としての同主調の世界観を想起していると思われます。つまり「Dm7」上では「Dメジャー」も見据えている、と。そこに「add4」も加えている訳ですね。《全音階!? ヘッ、なめんなよ》と言わんばかりです(笑)。この時代、「なめ猫」が流行っておりました。
とはいえマンザネラはなにゆえ同主調の世界観を導引しようと企図するのでしょう!? それはおそらく次の小節である66小節目で生ずる「Fm7」というコードが全てを物語ると思います。
66小節目でのマンザネラは臆する事なく [a] 音を弾き、スライドで [as] を弾いた後に [a] に《戻り》ます。背景の「Fm7」というコードを考えれば、帰着すべきは [as] であるにも拘らず。涯扨て、この [a] は減四度としての [bes] なのか!?
この [a] は同主調として生ずる「Fメジャー」を想起する上での [a] です。つまり、マンザネラは先行小節でも「Dメジャー」を想起し、調域がセスクイトーン(=1全音半)上行進行していると捉えていると思われ、「Fメジャー」を想起しているというのは原調の♭Ⅵ度である世界観を強い余薫=残り香として使って来ているのは明らかなのです。
それほど強く原調の残り香を感じさせるのは、この曲のメランコリックな世界観を勘案しての事であろうというのは判りますが、《Fm7上で [a] って、フツーはアウトでしょ》というのが凡庸な人々の見解であろうかと思います。無論、普通の場所ではやってはいけません。本曲での、本来なら「Ⅴ7」であるべき箇所で「Fm7」を用いたからこそ看過できるアウトな世界なのです。
冒頭でも述べた様に、この「Fm7」が内含する [as] は本来なら属和音上の相当上に聳える「減十五度」であると解釈しております。
仮にこの箇所で、スロニムスキー流の ‘minor 23rd’ 和音=国内では「属二十三の和音」を想起する事にしてみましょう。本曲のキーはAマイナー(イ短調)であるので、この曲の属和音は「E7」を想起するのも良いのですが、短調の諸機能は結果的に平行長調での和音諸機能に隷属しているので、調域として「ハ長調での属和音」を援用するのが相応しいので、まずは [g] 音を根音とする属二十三の和音を見てみる事にします。
上掲の図版に書かれている様に、[g] を根音とする属二十三での「最果て」となる短23度音は [as] です。調的因果関係を勘案すれば二度音程は長二度が優勢になるのは明白でもあり、単音程転回位置に還元した際の「短二度」が最も不協和の位置に置かれる事で、斯様に「最果て」の位置に置かれる所もあらためて深く首肯させられる堆積の姿であります。
長属九と比較して短属九という「Ⅴ7(♭9)」という構造は、属二十三で本来存在しうる9〜21度音を端折った形であるという風にも捉える事が出来ます。そういう意味で短属九というのは、半音階的情緒を喚起し易い和音であろうとも言えます。とはいえ長属九でもメロディック・マイナーのⅣ度上の和音として見る事も可能であり、こちらもまた半音階を別の形で喚起する状況でもあるのです。
属二十三の和音は、調的因果関係を優勢に見乍ら「半音階的情緒」を離れた所に置くので、西洋音楽での属和音上の十一度の取扱いが、本位十一度が優先されるのもあらためて理解におよぶ物です。即ち、ジャズ/ポピュラー音楽で用いられる「♯11th」というのは、基底和音への協和間の阻碍を回避した策であり、実質的に属二十三の側から俯瞰すれば「♭19th」の異名同音なのであるに過ぎない事が判ります。
そもそも属二十三の和音の組成での根音から第13度音までは「全音階」社会の音組織であり、第15〜23度音が「半音階」社会の音組織と成っている訳です。主和音以外の副和音は属十三の断片であるに過ぎないという見方も、先人たちは非常に深く全音階を捉えつつ半音階へ行き着いた事が判ります。
そうした状況を踏まえると、属二十三の和音上で「最果て」の位置に協和から最も縁遠い脈絡となる音が置かれるという事はあらためて腑に落ちる物であり、第15音より高位にある音度こそが半音階の脈絡だと思えば非常に解釈は楽になる事でしょう。
和音という、基底に備わる和音を阻碍する事を避けて「恣意的」に変化された音が、特に「♯11th」音というのは非常に多用されている訳ですが、こうした使用事例の多さを根拠に「♯11th」の脈絡こそ近縁だと盲信してしまうのは愚の骨頂です。全音階組織を無視せずに呼び込むべき脈絡なのであります。
そこで、先の [g] を根音に採った属二十三を再度確認する事にしますが、最果てとなる第23音は自ずと [as] になる訳ですが、これは本曲Aテーマの2小節目で作られた「Fm7」の和音構成音である [as] の根拠として見做しうる事が可能となる訳です。
そもそも私は「Fm7」の [es] は [e] を属音とするドミナントの属音省略での減十五度であると述べてきました。つまり半音階組織の脈絡である以上、この第15音は最果ての第23音とも結び付けるのは容易なのであります。念頭に置くべきは、調域としての「ハ長調」が優勢にあり、そこでの属音 [g] を第一に想起した上で、平行短調としての属音 [e] を二次的に捉えるという所です。
平行長調側での脈絡(=属音 [g] からの属二十三和音形成)では図示した様に、第15・17・19音が「G♭△7」の基底部である「G♭△」を形成した上で、最果ての音 [as] を「最低音」として利用する訳です。上下が逆転するという事で和声的に「倒置」となり、それら4音を元の属和音の7th音に応答させつつ、その7th音も加えて「G♭△7(on A♭)」という、全音階的な見渡しでイ短調からはとても脈絡が思い付きそうもない遠隔的な和音も、属二十三から見れば然程遠くには見えないという訳です。
そこで次は [e] 音を根音に採る属二十三で脈絡を分析してみましょう。
上掲の属二十三の最果てとなる第23音は [f] となります。つまりはこの音が「Fm7」を形成する為の一因でもあるという事なのですが、イ短調から唐突な感じを避けるにはコモン・トーン=共通音が必要となります。
その上で、減十五度となる [es] は自ずと「Fm7」の7th音として採り込まれます。コモン・トーンとして「全音階」側の第13音 [c] が「Fm7」の5th音になります。更に、属二十三の第3音である [gis] を異名同音の [as] にして「Fm7」という脈絡の形成が生ずるという事になるのです。
これらの状況は、半音階を全音階側に呼び込んだ「手招き」として解釈すると判りやすいかもしれません。つまり、イ短調という音組織で同主調のイ長調という音組織を見立てようとするならばイ長調の主和音を呼び込むには [des] を異名同音として [cis] へ読み替える事で実現するという訳でもあるのです。
扨て、マンザネラは「Dm7」というコード上で「Dメジャー」を呼び込んでおりました。これは結果的に、イ短調という強い残り香を常に感じ取っているが故の情緒なのであり、それはサブドミナント・コードである「Dm7」でも強烈に余薫を忘れないという事を意味します。そこで活用するのが [e] を根音とする属二十三和音での見渡しです。
前掲の様に [e] を根音に採る属二十三では長九度として [fis] を包含しており、第7・9・11音で「D△」を形成しているという事がお判りになろうかと思います。add 4としても使われていたナチュラル・ハーモニクスの [g] 音は、半音階社会側としての第17音がそうした脈絡となる状況を満たしているのです。
特筆すべきマンザネラのプレイである66小節目でのプレイは、背景のコードが「Fm7」であるにも拘らず [a] 音を忌憚無く奏している事であり、私はそれに対して「Fメジャー」を想起していると語っていた事を思い出していただければ自ずとお判りいだけるかと思います。
先の [e] を根音に採った属二十三では「Fm7」の脈絡を見ておりましたが、同時に「Fメジャー」を想起するには [a] を見付ければ済むのです。第11音の本位十一度音にありますね。
属二十三という和音が半音階の総合である以上、同主調の脈絡を包摂するという状況も取り込まれている事となります。それに加えて、坂本龍一が作り出していた非凡なコード進行。これらが原調の余薫と半音階の喚起という事となって、マンザネラの同主調を見越したアプローチという根拠が解決するという訳です。
仮にマンザネラが、楽理的側面は一切無視した上で感性だけで手繰り寄せたアプローチだとしても、茲で生まれた《心地良い溷濁》は楽理的には手繰り寄せる事が可能な脈絡であり、凡庸な連中が《Fマイナーで [a] 弾くってナメてんのか!?》という事を言い出しかねない状況ではあっても、それが妙に説得力ある音で棄却する訳には行かない程の心地良さがある訳です。
その心地良さの源泉を探るには、楽理的に分析する必要がある訳です。マンザネラが楽理的に無知であるプレイヤーだとは到底思っておりません。然し乍ら斯様なアプローチを忌憚無く行える格好良さというのは、矢張りデレク・ベイリーに相当倣っているのであろうなという事が窺い知れるのであります。
そうと割り切らない限り説明しようの無い脈絡ですからね。でも、能くOKを出したと思います。加えて、これを「謬り」と指摘するのは早計でありましょう。天才と莫迦の紙一重に等しい音ですから恐懼の念に堪えません。
こうした状況をあらためて念頭に置いた上で、66小節目でのギター・ソロの採譜で [a] から [as] として表記しているのは、その [as] が決してイ短調での導音 [gis] ではないという解釈であるからなのです。[a] に戻っているので、原調に基づけば [gis] が相応しいのではなかろうか!? と思われる方も居られるかもしれませんが、もう一度思い返して下さい。この箇所のコードは「Fm7」なのです(笑)。
ですので、原調をどれほど鑑みようとも [a] というのは通常ならばこの場合 [bes] =「B♭♭」として見立てた方が《まだマシ》なのですが、それでも解答としては「△」なのですね。茲は複調なのです。「Fm7」というコード上ではありますが [a] で良いのです。
複調であろうが、楽理無関係に奏していようともスーパーインポーズには変わりありません。複調の示唆というものが楽曲のコード進行には潜んではいようとも、複調が併存されるという状況は、マンザネラの当該部分2小節のアプローチ以外には現れる事の無い脈絡なのですから。
マンザネラのそうした「強行」が、思わぬ方向で良い結果が得られているという事を深掘りすると、複調が潜んでいるという事に行き当たるという、そういうお話なんです。
音作りの方の話題を少し挙げますと、今回の譜例動画デモに於てマンザネラのパートではWavesのMondo ModとMeldaProductionのMTremoloは大活躍しました。シンセの方ではEventideのH949のディレイおよびハーモナイザーを多用しているので、音像がエンボス加工の様に浮き立っている類の音はH949が齎している効果です。
尚、マンザネラはカンタベリー系でも知られるクワイエット・サンに参加しており、アルバム冒頭の「Sol Caliente」はマンザネラの『801 Live』冒頭でも聴かれる曲ですので、マンザネラのディストーションや調性の見渡し(スケール感)やリング・モジュレーションを好むギター音色はあらためてお判りいただけるかと思います。
私個人としては、801というマンザネラのプロジェクトは、その後のKYLYNも影響を受けているのではなかろうかと思っております。YMO自体はソフト・マシーンっぽい所がありますが。
そういう訳で、譜例動画の方はリフレインとなるので他の部分と同様の解説となるので、これにて終える事にしますが、まあそれにしてもマンザネラのデレク・ベイリー風のプレイからの複調アプローチは実に見事な物です。坂本龍一のコード進行である調性プランが実に巧く作用したという好例ではなかろうかと思います。
2021年12月14日追記
Aパターンで生ずるオリジナルのコード「Fm7」の私の解釈は、《属音 [e] 音を省略する減属15の和音》と説明していましたが、それを実際どういう音になって聴こえるのか!? という事を体現していただく為に、今回あらためてジャズ・フレージングのアプローチで試してみる事にし、新たな譜例動画をYouTubeにアップをしました。
このジャズ・アプローチとしてアレンジする際、オリジナルAパターンで使われるコードの「Dm7 -> Fm7」というコード進行を「Dm9 -> Fm9」という風に、より重畳しい和音の響きに変えました。
このコード変更の意図は、背景の和声が乏しくならない備えでもありますが、仮にインプロヴァイジングの側が原調(想起されうるモード)から大きく逸脱しても、伴奏部分は原曲を毀損する事なく且つ和声的な重々しさが添加される様に配慮したものであります。
譜例1小節目1番は下属音 [d] 音の近傍を微分音的イントネーションで揺さぶりをかけているものです。尚、こちらの譜例画像は譜例動画とは異なり実音表記にしておりますので、各人確認しやすい譜例の方で追っていただければと思います。
2小節目は「減属15」すなわち「E7(♭15)」を想起すべき箇所となる小節です。dim15thまでを充填する [9・11・13] 度のテンション群は適宜オルタレーションを採る扱いとなります。2拍目拍頭で現れる [e] は「Fm9」からすればアヴォイドなのですが、想起しうる「E7何某」としては充分な脈絡なのであり前後との整合性も相俟って存在感が際立つ様になります。
同小節4拍目拍頭 [des] は「E7何某」から見た「♭13th」というオルタレーションであり、4拍目最後の微分音 [eit] は先行音 [f] からイントネーション的に下がった微分音です。
扨て「Fm9」の箇所を「E7何某(※減15度を具備)」を見立てつつも、減15度を見渡した途端その世界は半音階の世界観を見る事になるのですので、コード本体「E7何某」は常に半音階の音組織を随伴しているとみなしうる事も可能となります。なぜならば、ドミナント7thコードの [1・3・5・7・9・11・13] 度という世界は全音階の音組織であり、半音階は [15・17・19・21・23] 度に現れるからです。
ジャズのオルタード・テンションというのは、半音階側にある音組織を全音階にある音がオルタレーションされたという風に解釈して呼び込んでいるだけに過ぎず、実質的には [15・17・19・21・23] 度に存在する音を呼び込んでいると解釈した方が、アウトサイド・フレーズなども視野に入って来た時にはこうした解釈を念頭に置いた方が役に立つ事もあるでしょう。
即ち、ドミナント・コードでなかろうとも副和音が半音階を随伴させるという状況が念頭に置かれていると、マイナー・コード上で「♯11th」を随伴させるという世界観が非常に重要になって来るのです。
ところが、「♯11th」は「♭5th」の異名同音とばかりに誤って理解してしまう愚者が多いのはおろか、ジャズの世界であろうともマイナー・コードで《♮5thと♯11thの併存》というコードを見る機会が極めて少ない事もあって、こうした世界観は等閑になってしまう事が非常に多く、取り上げる側もあまりにレアケースである為、及び腰になりかねない事も多々あるものです。
マイナー・コード上の「♯11th」は、アーサー・イーグルフィールド・ハル著『近代和声の説明と応用』やヒンデミット著『作曲の手引』には、副和音に内在する三全音として体系化されている物でして、次の動画の埋め込み当該箇所ではジェフ・バーリンが「Cm△7(♯11)」とレコメンドしている物です。
マイナー・コードの七度音は短七度のみならず長七度があり、その他の付加音として長六度が使われたりする物です。加えて、ジェフ・バーリンのレコメンドするマイナー・コードでの「♯11th」はマイナー・メジャー7thコード限定なのでは決してなく、マイナー7thコードでも本来ならば使われるコードであります。一般的にまだまだ使用例が少ないだけであり、非常に耳の鋭い方はジャズ/ポピュラー音楽でも使用者は既におります。
副和音が三全音を包含しているという事は、コード自身が半音階の世界観を既に視野に入れているという姿なのでもあるので、こうしたコードの場合常に半音階が随伴していると考える事が可能なのです。それが時代を経てポリコードの発想まで解釈を拡大する様になると、中心軸システムも既に体系に入る事となり、三全音同士のポリコードが生じたりするという訳です。こうした呼び込みが結果的に半音階的フレーズを強化するという事になるのです。
先のジェフ・バーリンの動画の0:15〜では早々と ‘major 7, dominant 7, minor 7, minor 7 ♭5, and diminish 7’ という風に紹介しており、特に「ディミニッシュ7」と態々明言している所に、「dim表記はdim7と同等」と古い仕来りに固執している連中が如何に雁字搦めになっているかが判るという物です。《dimをdim7として》使って来たであろうという世代の人が現今社会ではそれを直して「dim7」と言っているのですから、あらためて柔軟な姿勢の重要さがお判りになるのではないかと思います。
まあ、覚える側からすれば覚える事が少ない方がラクではありますが、多義的であるにも拘らず一義的な理解に固執したくなる理由など所詮その程度の物でしょう。《多義的ならばどんな言葉を使っても良いじゃないか!》と強弁する輩も居りますが、ある一方の呼称を使うと方々で語弊を生じてしまう状況になっているので各所で改めているという状況でも固執する愚者が居るとすればどうでしょう!? 新たに覚える事がそこまで労劬を伴うものでしかないのであれば覚える事などやめちまえ! と言いたい所ですが(笑)。
3番はAリディアン・ディミニッシュト・スケールをスーパーインポーズしております。[dis] 音が明示的に使用しているのは先述にある通り、三全音の随伴=半音階の誘引であるからです。この [dis] 音は正当な解釈では下接刺繍音という和音外音となります。ただ、下接刺繍音という括りはジャズ・フィールドからすれば旨味の少ない判断かと思います。
刺繍音に限らず西洋音楽界での和音外音というのは、線的牽引力の材料としての反発材として好意的に用いられます。リニア・モーター・カーでの磁力の反発力の様な物と思っていただければ解りやすいでしょう。
実は旋律とは、和音構成音ばかりで構成させた場合(=分散和音)は線的な力というのは弱くなる物です。そこで、和声的には侵食しない音価の短い和音外音が姿を表し、それが次に現れうるであろう和音構成音に取り込まれる為の牽引力になっているという訳です。
ジャズ・インプロヴァイズを分析する場合、殆どのケースではアヴェイラブル・モード・スケールとコードの側からアナライズしますが、それらを用いても説明が付かないケースに遭遇した事があろうかと思います。説明のつきやすい和音外音は概して先行音(アンティシペーション)や経過音(パッシング・ノート)であるのですが、それらでも説明のつかない音となると刺繍音やその他の和音外音(逸行音など)になる訳ですね。
楽聖ベートーヴェンの「エリーゼのために」の冒頭に現れる属音の半音下の [dis] 音はドミナントの箇所で現れるⅤ度の半音下の音です。涯扨てジャズはその音をどう説明しますかね!? それがお判りになれば、私が今回用いた下接刺繍音が刺繍音だけではなくクロマティシズムを呼び込む為の起因材料としているのはお判りいただけるかと思います。
4小節目の4番はコードこそ3小節目と同様ですが、アプローチとしては「Am7+E♭m7」という減五度調域でのマイナー・コードを複調的にスーパーインポーズしています。こうしたアプローチが活きるのは、先行小節での「下接刺繍音」を異名同音での誘引材料としているのであり、そうした調域を使うのであれば [gis] ではなく [as] を使ってもよかろうにと思われる箇所では、リディアン・ディミニッシュト或いは「Am」に対する導音(※最初は主音に解決しない)として表しています。
4小節目の1拍目で生ずる [fis] は前小節からの流れを引き継いでドリアンの風味を誘っているのですが1拍目最後では [f] に戻り、茲が減五度調域のスーパーインポーズのスイッチとなっているのです。そうして [b] まで下行し、[b] が恰も [a] に対してのフリジアン・スーパートニック(♭Ⅱ度)の様に聴かせた瞬間が移旋でもあり複調の終わりでもある訳です。
5小節目の5番で括った音形は [d・e・f] という [全音・半音] という音程構造となっているトライコルドであり、このトライコルドをダイトーン(ditone=二全音)上行させる訳ですね。ジャズ/ポピュラー系ならスロニムスキー流なのですが、こうした音形の移置はトルコ音楽やイスラム圏でも能く知られる物です。
※「移置」という語句はGoogle検索の世界では非常に稀であるのか「死体遺棄」やらの「遺棄」の用法ばかりをヒットさせますが、音楽用語としては頻出する程ではないもののきちんと使用されます。私が最初に触れたのはプリーベルク著『電気技術時代の音楽』での入野義朗の訳で、「移動」および「移高」というトランスポーズも含めた意味が音楽的な意味での使用となるでしょう。
そもそも「Dm何某」というコード上で、マイナーを示唆する音形を二全音上行させれば、自ずとDメジャーを喚起してしまう音は生じます。とはいえ、副和音(=属和音以外の和音の総称)でも半音階を標榜するという世界観であるならば、こうした逸脱した音の使用は是認される物です。それをおかしくしない為には先行して提示する音形と、後に続く同形のフレーズの音程構造がノンダイアトニックであろうと同一である事が重要となります。こうしたトライコルドの移置のアプローチでジャズ/ポピュラー音楽界隈で顕著なのが故アラン・ホールズワースですね。
ギターであれば、ある音形の音程構造が移高するだけの状況こそがこうした移置として現れるのであり、それはアラブ地域でのウードでも同様でありましょう。或る一定の運指の流れをそのままにフレットを移動して行き乍らもそこではアヴェイラブル・モード・スケールを逸脱する様なフレージングなど、遊び心のあるギタリストならばジャズを知らなくもやった事のある人は多いのではないでしょうか。そうした状況を楽理的に説明する場合こうした側面に収斂しているアプローチだという事が判るのです。
加えて、トライコルドの移置に依って結果的に「Dm9」の三全音調域である「G♯m何某」をも誘引している事にもなっているのです。同小節3拍目から生ずる7番もセスクイトーン(=一全音半)の移置である為、[d・h] -> [cis・b] -> [c・a] として移置されているアプローチである訳です。
畢竟するに、[d・e・f] という [全音・半音] という音程構造のトライコルドの移置は、異なるトライコルド同士が半音ディスジャンクトという連結で新たなるトライコルド [fis・gis・a] に連結している姿である為、そこで《線の在り方》の側を強行する事に依り和音体系の中に括られるべきアヴェイラブル・モード・スケールを容易に跳越するアウトサイドのアプローチに転化するという事なのです。《線を強行する》という語句は過去の私のブログ記事でも数多く見受けられると思いますが、こういう意味を持っている言葉ですのであらためてご理解いただければと思います。
そうして同小節4拍目では、帰着する [a] 音から半音階的下行で [gis - g] と剥離して行き、後続の小節の音脈に繋げるというアプローチとなっているのです。
6小節目の「Fm9」もアプローチとしては「E7何某」という風に減十五度を具備するドミナント・コードを想定しているという前提になっております。8番の箇所である [h・gis] を見てもらえれば、それらが「E7何某」からの和音構成音=第5・3音という順に現れている事があらためてお判りになる事でしょう。
同小節2拍目拍頭での [as] は、コードの「Fm9」に阿る現れ方であり、[es] を極点にした以降の音は「E7何某」という想起する側の音が顔を出すという事になっているのです。
チャーリー・パーカー風のアプローチであれば [h・gis] と続いた音形の後に [e] に帰着しても良さそうですが、増二度を利用して一旦「Fm9」の側の [f] に帰着します。こうする事に依り、「Fm9」が喚起するクロマティシズム≒三全音調域として「Bm9」という仮想的な世界の側のコードが中心軸システムの援用により誘引材料ともなっており、「Bm9」から想定されるアヴェイラブル・モード・スケールとしての [h・gis] でもあるのです。
同小節3拍目の9番の [ges] は、元のコード「Fm9」への「♭Ⅱ度」である事を明示した音であり、この音を「E7何某」からみた長九度という風にはしませんでした。但し、同小節4拍目での10番は「E7何某」からの音脈である [h・g] を明示し乍ら複調的に「Fm9」での [es] をも織り交ぜて使っているという訳です。
扨て8小節目のコードはノン・ダイアトニックである「Bm7(11)」というコードになりまして、曲想も唐突感が顕著になる箇所ではありますが、今回私はこのコードを素直に見る事はせずにクォータル・ハーモニー=四度和音という風に想起してアプローチを採る事にしました。
例えば「Bm7(11)」の和音構成音を [fis・h・e・a・d] という完全四度堆積構造として見れば、あらためてそれが四度和音の構造であると理解に及びますが、通常の三度堆積と四度堆積では何が違うのか!? という事を先ずは説明しておかなくてはならないでしょう。
通常の三度堆積型の和音というのは、実際には五度の連鎖からの誘引となって三度堆積の形成へと発展した物です。旋法的な和声としての「五度和音」というのもあるのですが、こちらの「五度和音」は軈て転回して「四度和音」の方で語られる物となります。
五度の連鎖から三度堆積へと進化したのは上方倍音列に従属したからであります。倍音列の低次の音程比の中には [3・5] という音程比があります。[3] は純正完全五度、[5] は純正長三度へ転回位置(単音程)へと還元され、基音= [1] とそれらが組み合わさって [1・3・5] は長三和音=メジャー・トライアドを得るという事に収斂するシステム。茲から和音体系は発展して三度堆積が主になっているという訳です。
加えて、旋律論も「協和」という観念に従属している為、何某かの音は脳裡に映ずる和声感に依って、その和声の「五度音」を一旦の極点と位置づけます。極点という山の頂上を目指したら矢張り家に帰ろうとする物です。家=主音、極点=属音という風に考えれば、旋律論としては和声が持って居る第五音を一旦の極点とし乍ら「家」に帰れば良いというのが調性に於ける「終止」=カデンツというシステムとなり、これが機能和声な訳です。
機能和声はトニック、サブドミナント(※厳密にはプレドミナント)、ドミナントという機能に括られまして、各機能は先行する機能の和音の主音を自身の「上音」に取り込みます。上音とは和音の根音以外の音ですから、トライアドを基礎とした場合上音は自ずと和音の第3 or 5音という事になります。
先行和音がトニックで、これが「C」であったとしましょう。この根音 [c] は次のサブドミナント和音「F」では上音に取り込まれているのがお判りでしょう。「Dm7」に於ても同様です。
次に、先行和音が「F」の根音 [f] というのは次に現れるドミナント和音「G7」の上音に取り込まれているのがあらためてお判りになる事でしょう。斯くして「G7」の根音 [g] は次の解決先のトニック [c] の上音に取り込まれるという訳です。
つまり、主和音以降の和音に付随する上音としての「第五音」は自ずと、その都度の一旦の極点としても存在している事になり、この極点の連鎖を「動かす」事でメロディーは多彩になり、終止感も随伴するという事です。
童謡「蝶々」は、和音諸機能から見るとそのメロディーは一切コードの根音がありません。所が、線的形成に根音を映ずる様に工夫されている為、[ソミミ] という節を耳にすると脳裡には根音 [ド] が聴こえ、[ファレレ] では根音 [ソ] を脳裡に映ずるのであります。Ⅰ -> Ⅴ7 という流れが冒頭で現れるという訳です。先行する [ソ] が残像になっている事のお陰なのです。この残像の原因は差音(※厳密にはミッシング・ファンダメンタル)も因果関係になっております。
という訳で「三度堆積」のメカニズムがお判りになっていただけたでしょうが、五度の連鎖が三度へと収斂した事と同様に、四度堆積は二度へ収斂して行きます。
四度堆積を進めて、それらを単音程に転回位置に還元すれば軈ては「二度の房」を作る様になります。これは十二等分平均律であれば四度和音の連鎖は11個の連鎖で終わりますが、微小音程=微分音が視野に入る不等四度などの組織では、四度堆積は二度音程はもっと狭い二度へ収斂する事も意味するのです。
そういう意味に於ても四度堆積は可能性を秘めた構造である訳ですが、そうした特性を好意的に用いるからこそ7小節目冒頭では四分音をあからさまに呈示しているのです。
尚、7小節目冒頭の [dist] はヴィシネグラツキー流に言う所の「短四度」であり、[e] の後に現れる [eit] が「長四度」と呼ばれる音となり、直後の [fit] は「短五度」という事です。微分音的に元のコードの四度と五度を蹂躙する様に揺さぶりをかけているのです。
そうして同小節3拍目からは原コードを念頭に置きつつセスクイトーン(=一全音半)上にある「Dm7(11)」を想起したアプローチを採っています。半音階の喚起であると共に中心軸システムでのセスクイトーン域でもあります。この想起によって「Dm7(11)」か導かれる [c] が呼び込まれ、「Bm7(11)」ではアヴェイラブル・ノートである [cis] を揺さぶるのであります。
8小節目では私の解釈として、ひとりだけ「Em9(♭5)-> A7」というアプローチを採っています。同小節2拍目の [f] 音が現れる所で「A7」を想起し、[f] は「A7」上の「♭13th」という事になり、[b] は「♭9th」という事になります。半音階的に揺さぶりをかけた上でツーファイブを強行する事で、更なる後続の「Dm何某」に繋げる為のアプローチであります。元々「Bm7(11)」は佇立した感があるので、進行感を加えて次の「Dm何某」に弾みを付けようと企図しているのです。
こうして今回のジャズ・アプローチがお判りになっていただけたかと思いますが、ジャズ・フレージングに慣れた人であればこの手のフレーズなど瞬時に真砂の数程脳裡に映ずる事ができます。私自身、今回のフレーズは頭を振り絞って漸く絞り出して周到に用意したという物ではなく、インプロヴァイズを執行するイメージで湧き出たフレーズを採譜した物をこうして詳らかに説明しているに過ぎません。
半音階や微分音に慣れた場合、こうした音脈は常に脳裡に映ずる事が可能なのでありまして、このフレーズが浮かんだら後は頭ん中空っぽになる、という訳ではありません(笑)。
原曲としてノン・ダイアトニック・コードが顕著な箇所はあるものの、調性感は強い薫りを持っていると思います。それを払拭してこそのジャズ・フレーズであるのでトコトン調性に刃向かう方が功を奏すると思います。
何れにしても、原曲がこうまで変貌するのだという事を実感していただければと思います。
本曲は、高橋幸宏の3rdソロ・アルバム『ニウロマンティック ロマン神経症』に収録されており、アナログLP時代はB面3曲目に収録されていたもので坂本龍一が楽曲提供(作曲者)となっておりますが、アルバム中本曲と松武秀樹作曲の「New (Red) Roses」の2曲の方がROMAN吉忠もとい「ロマン神経症」という副題に相応しいほどにメランコリックな世界観を醸し出しているのが特徴的であろうと思います。

何より「Curtains」の方はインストゥルメンタルではないので、高橋幸宏の唄が入るという事で、どこか陰鬱なメランコリックな色彩が色濃く反映されているのではなかろうかと思います。
本曲は坂本龍一提供という事もあって、下準備として山下邦彦著『坂本龍一・全仕事』『坂本龍一の音楽』を調べてみた所、どちらも全く触れられていないというのは実に驚きであり意外でありました。
本アルバムのオリジナル・リリースとなる1981年6月はYMO活動期の絶頂期を迎えた頃でもあり、YMOのアルバム『BGM』発売直後のソロアルバムでもあるので相当に力瘤の蓄えられた重要な時期での作品となるのですが、全く記述が見られなかったのは残念でありました。山下の著書は、自身のコード分析は扨措いても坂本龍一本人が提供する原譜などの資料を図版で確認可能な底本となる物ですので、そういう意味では非常に残念な事頻りです。
本曲は楽理的側面でも非常に重要で看過できない点があり、本記事ではあらためて詳らかに述べて行こうかと思いますが前振りとして述べておきたい事が幾つかあるので、それを語ってから本曲の譜例動画解説を進めて行こうと思います。
本曲の特徴として挙げたい点のひとつに、アタマ抜きのベース(※イントロを除く)の八分音符でのフレージングというのがあります。この特徴は坂本龍一のソロ・アルバム『B-2 UNIT』収録「iconic storage」に酷似する物であり、もしかするとこれらは原案として「iconic storage」があって、調性感の強い「Curtains」が別系統のアイデアとして誕生していたのかもしれません。
また、ドラム・サウンドとして808をかなり混ぜているのも特徴的な部分でありましょうか。私の譜例動画のデモは、スネアはあからさまに808のそれを使っておりますが、「Drip Dry Eyes」の様に808のキックを混ぜた音などの反映はさせておりません。
全体としてはギターにリング・モジュレーションを多用している事もアルバム『ニウロマンティック』の特徴でもあり、H949と思しきピッチの揺らいだハーモナイザーとディレイも多用しているという点は譜例動画デモの方に於ても踏襲しております。
茲から本曲の解説を小節順に語る事になりますが、まずはイントロの8小節のみベースは各小節毎の1拍目拍頭は奏しているものの、他は全てアタマ抜きとしているのでご了承願いたいと思います。
本曲のキーは「Am」ですが、過程では脈絡が希薄であって当然の様なコードも出て来るのが非凡な坂本龍一作品ゆえの世界観とも言えるでありましょう。1小節目はトニックとして「Am7」が現れ、2小節目では早々とフィクタ無しの「Ⅴm」としての「Em7」が出現します。
下方「四度進行」(※上方では五度に見える)はプラガル進行でありまして、更に続いて3・4小節目では「B7(♯9)」として、原調のⅡ度が副次ドミナント化したものですが、特徴的な「♯9th」は実質「♭10th」であり、’Synth 3’ パートが拍頭にある上接刺繍音 [e] の直後に奏される [d] を実質的に [cisis] と同義にしているという解釈であります。
ある意味では、イントロの3・4小節目で生じる「 B7(♯9)」というコードを「B△」と「Bm」という凖固有和音および同主調の脈絡に依る併存での「複調」として捉えても、本曲に於てはそうした解釈は非常に役立つ事となるでありましょう。同時に、その後現れるであろうという「複調」の示唆となる呈示とも言えるでしょう。
続いて5小節目のコードは「Dm7」なので原調のⅣ度に進行しているので、先行和音「B7(♯9)」は脈絡のないまま措定されての六度進行になっている事になります。こうした場合に於ける「B7(♯9)」という副次ドミナント和音の存在は、行き場を失って佇立する感が生じますし、六度進行となる部分が少々唐突な転調感を齎す様にも聴こえるであろうと思われます。
短調のⅡ度上の和音が変化和音として機能するという事で読み応えのある本がトゥイレ/ルイの『和声学』(山根銀二・渡鏡子共訳)なのですが、短調Ⅱ度上の和音(=平時はディミニッシュ)の第3音のみ《半音上げて》の硬減和音=hard diminished を作り出すという事を述べている物であり、その場合自ずとジプシー調が視野に入るという事になるのです。
先の「B7(♯9)」は原調Ⅱ度上の和音の第3&5音がそれぞれ半音上がった上で増九度(実質的に短十度)が付与されているという事にもなる為、その時点で唐突感は演出されている状況にあるのですが、「♯9th」が原調との共通音であるコモン・トーン [d] として繋ぎ止めているとも言え、非常に重要な役割でもある訳です。
それを何事も無かったかの様にして5小節目「Dm7」という風に原調のⅣ度にしれっと進行しているという所も、《オイオイ、さっきまで泣いていたのにケロッとしてやがる》かの様な気紛れ感がイントロにて早々と演出されている様に解釈可能な訳です。
そうして6小節目では原調はフィクタを採って「E7」としてドミナントが正体を現し、7・8小節目でトニック「Am9」に解決するという状況になっているのです。茲で「Am9」という風になっている所も、和声的な重々しさが後の世界観を暗示している様に思える所です。
9小節目はAテーマ冒頭となり、サブドミナントである「Dm7」から開始されます。茲からの4小節(9〜12小節目)のコードを次の様に羅列してみると、
9小節目・・・Dm7(Ⅳ度=サブドミナント)
10小節目・・・Fm7(♭Ⅵ度=下中和音であるもののノンダイアトニックである凖固有和音)
11・12小節目・・・Am7(I度=トニック)
という風になっている事になり、全てはマイナー7thコードのパラレル・モーションと同等なのですが、特にノンダイアトニック・コードである「Fm7」は実に曲者で、これは凡庸な人間ではなかなか想起する事のできないコードでありましょう。
それというのも、10小節目の主旋律の流れを見てみれば明らかに「Ⅴ7」(E7)を充てても何らおかしくはない、ドミナントが相応しい線運びなのです。無論、この旋律には [c] 音が明示的に奏されていますが、これは短属九=「Ⅴ7(♭9)」を喚起しているが故の [c] 音として通常は耳にする筈なのです。
そうしたドミナントを叛いて「Fm7」を充てているというのは遉坂本龍一という所でありましょう。然し乍ら私は、この「Fm7」というコードは《実質的に》属音省略の「減属十五」の和音であると解釈します。
減十五度=「♭15th」という和音の取扱いは、通常の機能和声ではまず見掛ける事はありません。半音階を視野に入れた上での ‘minor 23rd’ という半音階の総合である通俗的には「属二十三の和音」として知られる様な状況を視野に入れない限り、「♭15th」という音を視野に入れる事は先ずありません。
ジャズ・フィールドに於てはハービー・ハンコックが多用しますし、バリー・ハリスのメソッドでもドミナントに於ける減十五度の活用は出て来ます。
簡単に考えてもらえればそれほど困る物でもないのですが、つまり「♭15th」とは半音階の世界が少し顔を出した状況として、それが「半音階の断片」であると解釈すると判りやすいかと思います。
機能和声の社会では「全音階」で事足りる訳ですから半音階を見る必要がありません。ですので和声堆積でも13thで充足する。こうした状況で事足りているのが殆どでしょうから「♭15th」やらに触れる機会が無い、唯それだけの事に過ぎないので難しく考える必要はないのです。
こうした事を踏まえた上であらためて「Fm7」とやらを見てみると、本来あるべきドミナント・コードである「E7」上の「♭9th」= [f] に加えて、「♭15th」= [es] という風に解釈すると、あらためてドミナントとの脈絡が見えて来るかと思います。
そして、本来あった筈の「E7」という基底和音の [gis] のみを援用し、結果的に属音が省かれた和音として「Fm7」に異名同音 [as] として取り込まれ [f・as・c・es] となっていると私は解釈しているのです。
何故こうした突拍子も無い想起をするのかというと、後に現れるギター・ソロでの当該箇所でマンザネラが突拍子も無い事をしているからなのですね(笑)。しかもその突拍子の無さは半音階的な視野および複調を視野に入れない限りは説明が付かない程の物なのですが、こうした事を後に詳述すると、それがまさに「そうあるべき」世界観だったという事を思わせる程のアプローチに基づいているという事が繙かれるのであります。
ですので、現時点では突拍子も無い眉唾な理論の様に思われるかもしれませんが、ギター・ソロを語る頃にはストンと腑に落ちる様に順を追って説明しますのでお待ち下さい。
扨て13小節目ではサブドミナント「Dm7」で始まる様に繰り返され、14小節目でも同様に「Fm7」へ進行しますが、15・16小節目では奇を衒うかの様に三全音進行で「Bm7(11)」へ進行するのですから畏れ入るばかりです。
三全音進行という事はトリトヌス対斜を包含する訳ですが、坂本龍一自身は当該箇所を全音階という世界観の括りで捉えていないので「Fm7」+「Bm7(11)」というふたつの和音のペアこそが「ドミナント」←これは音階上の「Ⅴ度」というよりも単に不協和音という意味で用いているのではなかろうかと思います。
なぜならば「Fm7」と「Bm7(11)」の基底部の和音構成音(=四和音として)をそれぞれ次の様に列挙すると
[f・as・c・es]+ [h・d・fis・a]
という風に、それぞれの構成音を転回位置に還元すると半音同士で寄り添う関係となっている事が一目瞭然であります。こうした半音階の隣接状況が示される事で、クロマティシズムを強化させた音楽観に基づいている事が視覚的にもお判りになろうかと思います。

無論、これら2組の和音を一挙に鳴らしてしまえば「不協和音」の骨頂とも言える耳に厳しい音が出て来るでしょうから、2小節ずつ「分けて」響かせているだけの半音階の世界の断片として受け止めれば、この場合のトリトヌス対斜が実に計算高い調性プランに基づいている事が理解しやすくなるのではないかと思います。
本来ならドミナントに進んでおかしくはない斯様な《遠い脈絡》の関係に見える状況は、実際にはそれほど遠い物ではない事を補足する説明として ‘Tonnetz’(トネッツ)の概念を用いた「ネガティヴ・ハーモニー」を利用して説明する事も可能です。
旋律形成から勘案して、通常ならば属和音である「E7」が現れておかしくはない箇所に「Fm7」が充てられたという状況を取り敢えずは「E7」の基底和音の部分(=トライアド)を抜粋してトネッツ上で確認してみる事にしましょう。
扨て、Aテーマ冒頭の「Dm7」を基底部分の「Dm」としてトネッツ上で確認すると次の様な三角形を描いているのがお判りになる事でしょう。
そこから仮に、予測されうるドミナント「E7」の基底和音「E」へと進んだ場合、トネッツ上の三角形は次の様に示される事となります。
そうして、トニックである「Am」へと解決すると、トネッツ上の三角形は次に示す通りになっているという構造であるのです。
この [A - C - E] という三角形の近傍に位置する三角形は、如何なる向きであろうともそれは [A - C - E] に《近い脈絡》となって存在している事となります。「Dm」も隣接して存在しますし、[g] から [gis] へ変応した属和音も [A - C - E] には [e] という角を接して隣接し合います。
近親性という状況のみで勘案すれば、[c] という角で隣接する三角形を表しても近親性は担保される事になります。そこで、次のトネッツ上で [F - G♯ - C] という三角形を見てみましょう。
茲での新たなる三角形 [F - G♯ - C] の [gis] を異名同音 [as] に変換しさえすれば、コードは「Fm」を導いている事となり、結果的に [E - G♯ - B] という三角形を反転させている形状を確認する事ができます。
つまる所、トネッツ上で識別が容易になるネガティヴ・ハーモニーに依る脈絡を以てしても、あらためて遠い脈絡ではない所に加えて、属和音の代用および属和音の発展という風にして全音階の世界観にはなかったクロマティシズムの側面を垣間見る事ができるのです。
ネガティヴ・ハーモニーという状況に固執する事で、基底和音としてではなく「属七」という四和音の状況で投影させたいのであれば、トネッツ上での属七は次の様な形状で表される物となり、

上掲の構造を反転させれば次の様な構造となるので、四和音を維持した「E7」の純然たる投影は「Fm6」または「Dm7(♭5)」となる筈です。

それら2種のコード「Fm6」または「Dm7(♭5)」は同義音程和音と呼ばれる物でありますが、ベース音が違うだけで和音構成音は同一であるに過ぎません。Aメロ冒頭の下屬和音「Dm7」から進行させると、単に1つの声部が半音下行しているという状況ですので、どちらの同義音程和音を選択しても進行的には変化に乏しく、少なくともベースが [d] を維持するよりも [f] に跳躍した方がダイナミックな動きになるという状況です。
その上で「Fm6」よりも「Fm7」へと更に弾みを付けて《改変》させる事に依って得られる [es] 音は、結果的にイ短調(Key=Am)での属音を半音低く変化させる《ブルー五度》を生じてブルージィーな状況を作る事に貢献しており、手垢の付きまくった方法論のひとつであろう属和音を易々と使うよりも音楽的な揺さぶりがかかるという訳です。
17〜24小節目はAテーマのリフレインとなるなので解説は割愛します。25小節目からは本曲の非常に象徴的な部分となるBテーマが開始されますが、コードは「F♯m7」へと進みます。
この進行から見える事は、先行和音「Bm7(11)」が原調のⅡ度という事をそのまた前にある先行和音「Fm7」が原調を暈しているので、「Bm7(11)」は原調のⅡ度というよりも新調(Key=F♯m)のⅣ度に転じている様にもあらためて感じさせる訳です。
そうして「F♯m7」が一旦のトニックなのかと思いきや、この瞬間に新たなる新調としての平行長調=(Key=E)のⅡ度に転じると解釈します。
26小節目は実質的に新調の「♭Ⅱ度」としての「F△7」として変化し、これが原調(Key=Am)の♭Ⅵ度とのコモン・トーンとして転義しているという訳です。つまり、原調の調域を平行長調側の主権と見做して「Key=C」を見立てると、調域そのものは二全音(Key=E)との間を部分転調を起こしているという解釈になります。
26小節目で、原調との同一のコードとして転義させる事が可能である以上、この時点で姿を原調に戻して解釈する事が可能となります。
27小節目では単なるメジャー・トライアドの3度ベースである「G (on B)」でありますが、調域そのものは原調に戻ってはいても「属七」の体にはしたくなかったのでありましょう。加えて、先行和音「F△7」の根音 [f] からのトリトヌス対斜をベースが執り行う事で調的には希釈化される事に加担するので、こうした3度ベースもその後のクロマティシズムの骨頂を見る事になる為の示唆でもあるのでしょう。
また、27小節目3拍目弱勢で現れるコード「C△7」の時のベースの動きは或る意味で「罠」ですね(笑)。3拍目弱勢→4拍目拍頭こそベースは [c] 音を奏していますが、4拍目弱勢でまた [h] へ下行するのです。これは結構採譜泣かせの箇所であろうかと思います。次の和音ではベースが増二度進行になる事は明らかなのにこれをやるのは凄い事だと思います。
28小節目のコードは「A♭△7」へと進みます。これは、Aテーマで現れていた「Fm7」のコードを全音階的な三度上にあるコード(=カウンター・パラレルと呼ぶ)ですから、「Fm7」が陰を担っていたとするならば「A♭△7」は陽の側である事を指し示す状況でもある訳ですね。
29小節目ではプラガル進行で「E♭△7」へ進んで新たなるトニック・メジャー感の様な感じすら思わせますが、30小節目ではスケール・ワイズ・ステップ進行となっているにも拘らず、それが「♮Ⅶm7(♭5)」ではなく、しかも「マイナー9th」という型での「Dm9」が唐突な程に現れるのですが、この進行には目が覚めるかの様にハッとさせられる物で、素晴らしい進行だと思います。
29小節目3拍目弱勢では「Dm7(on G)」という風に経過和音を挟みますが、この「Dm7」というのはとても曲者で、和音構成音自体は「F6」と同義和音であるという事。同義和音というのは和音構成音は同じであるにも拘らず別のコードとしても呼ばれる和音の総称なのでありますが、私の解釈としてはコード表記こそ「Dm7(on G)」を充ててはいるものの実質的には「G11」に相応しいのではないかと感じております。
坂本龍一の分数コードおよびオンコード(下部付加音)の解釈というのは、表記こそはジャズ/ポピュラー音楽に倣う形で表していても実質的にそれは属和音の断片だと感じられる物として、活動初期あたりの原譜に使われている事があるもので、渡辺香津美のアルバム『KYLYN』収録の「I’ll Be There」の原譜となるコード表記からはそれを犇々と感じる事が出来ます。
属和音以外の和音は総じて副和音である訳ですが、副和音にも和音堆積を連ね、軈ては「副十三の和音」(13thコード)まで積み上げた時の副和音の状態というのは実質的に同一の調域で全音階的に生じている属十三の和音の構成音と全く同じであり、単に両者は根音の採り方が違うだけに過ぎません。
例を挙げれば、[レ・ファ・ラ・ド・ミ・ソ・シ] と [ソ・シ・レ・ファ・ラ・ド・ミ] の両者は和音構成音そのものは同一であり、根音の採り方が違うだけという解釈にもなり、分数コードで生じるそれらは調的因果関係を鑑みれば《重畳しい属和音の断片》に過ぎないという風にも考えられるという訳です。
こうした解釈は、遡ればアルフレッド・デイ ‘Treatise on Harmony’ でのラモーの提唱した「Ⅳ6→Ⅰ」の整合性というのは単に属十一の断片(=属音省略)に過ぎないという事に言及(リンク先PDFの90ページ)するという200年前の解釈に帰着するものでもあり、あらためて分数コードという「調性の希釈化」が齎している作用を先人は早々と気付いていた事に畏怖の念を抱かざるを得ない訳ですが、坂本龍一には、それがコード譜であろうとも音楽的に看過できない和声的に重要な側面を感じる事が出来るものです。
余談ではありますが、「I’ll Be There」でのコード進行は属十一などの原譜での表記を、現在の通俗的な表記にあらためて解釈した物を私なりにアレンジした物が次の譜例動画なのであり、各コードに付与して注釈を付けた音名は「三全音」の包含の分布が判る様に示してあります。
そうして31小節目に於て、本曲に於ける実に特徴的なコード「G♭△7(on A♭)」が生じるという訳です。
※このコード表記「G♭△7(on A♭)」は楽譜の方を見れば明白でありますが、あくまで私のアレンジのキーボード・パート単体で見た両手のヴォイシングがそうであるだけで、オリジナルのコード表記は「G♭△7」で済むものなのでご注意下さい。とりあえず同一箇所も2度ベース前提で語らせていただいております。
この2つ前の和音「Dm9」というものは、或る意味では [d] を根音にして上声部に「F△7」があるとも見立てる事ができます。その根音 [d] が《遊離的》に次の和音では [g] へ進んで、更に [as] へと進んでいるという [d - g - as] という完全四度上行の先にある三全音が存在しているという物であり、この遊離的なベースが結果的に、経過的にあるだけの完全四度上行の後にトリトヌス対斜を目指している訳です。
トリトヌス対斜ではあるものの半音階的社会を見越しており、遊離的なベース音を除けば「F△7」という構成音が「Dm7(on G)」という経過和音の後には結果的に短二度上行を採って「G♭△7」へと短二度(半音)上行をしているという物で、「三全音と半音」という2つの半音階の骨頂ともいえる流れが潜んでいるという訳です。
また、「G♭△7(on A♭)」コードも坂本龍一からすれば「A♭13」の断片として解釈しているであろうと念頭に置く必要があるでしょう。
すると、32小節目1拍目で生じる「A♭6」というのは先行和音の「A♭13」から和音構成音を削ぎ落とした体として見做す事も可能なのです。無論、実際には「G♭△7(on A♭) -> A♭6」というコード進行であるので、弾かれている音に変化が生じている以上は「別の和音」なのでありますが、概念的には「A♭13」であるという事です。
そうして32小節目の「A♭6」という事をデイの言葉を思い出せば、これは《「B♭11」の断片である》という風に「Fメジャー・トライアドとしてのⅠ度」へ行こうとする「B♭11」の断片としても解釈する事が可能となるマジックが現れるという事にもなります。
つまり「A♭6」は、先行和音である「G♭△7(on A♭)」の概念的な「A♭13」という和音から削ぎ落とされた和音の姿であると同時に、付加六の和音が実は属十一の断片(=「B♭11」)というふたつの側面を持ったコードに位置付けられる事となり、概念的な世界の側から和音選択を弄ぶかの様にしてコードが使われている訳です。
概念的な世界から見ればそれほど大胆な変化を起こしてはおらずとも、実際に用いる和音の体はシンプルな姿として形を変えている訳です。無論、全音階の機能和声的世界観のそれを総じて属十三と副十三の和音にしてしまえば、そこでの和音進行というのは実質的に根音を変えただけの「静的」な進行を成しているに過ぎず、新たな「牽引力」が副次ドミナントに伴う半音階的変化というノンダイアトニックな力が新たな世界観として作用している訳でもありますが。
そうして32小節目3拍目弱勢ではコードが更に「Fm/B♭」という風に4度ベースの型になっているものの、これまでの「概念的」な世界観を適用すれば、実質的に和音はそれほど大胆に転じてはいないという事が判るでしょうし、「B♭」音を基軸にしたコードがまだ支配を続けているという事もあらためて理解いただける事でしょう。
実質的に「Fm/B♭」は「B♭9」として概念的に想起する事が可能でしょう。しかもこの概念的な「B♭9」は後続和音へのトライトーン・サブスティテューション(=三全音代理)として《しつこく》ドミナントを2回重ねた物となっているのです。
33小節目。茲から2小節は短いブリッジとして私は解釈しており、Bテーマが10小節という解釈をしてはおりません。Bテーマが8+2小節として感ずるかもしれませんが、私自身は2小節の短いブリッジとして解釈しているので楽譜の方では小節線に二重線を振っているのです。
そこで33小節目拍頭ですが「E7(♯9)」へ進んでいるので、先行和音の「概念的」な姿を「B♭9」と想起した事を踏まえると、三全音代理として「B♭9 -> E7(♯9)」と進行している状況として解釈する事も可能であり、ドミナントを2回しつこく続けていると述べたのはこういう事です。
同小節2拍目からは更にオルタード・テンションが加わり、原曲ではギターのカッティングが「♭13th」を明示的に奏する為この様に表したという訳です。
Bテーマでは坂本龍一の特徴が能く現れている箇所であろうとも言えますが、ドミナントがトニックへ解決せずに保留したまま他調へと転調するというのはYMOの「東風」のサビに顕著な点なのであります。つまり「ツーファイヴ」進行である「Ⅱm7→Ⅴ7」という2つのコード進行を1組のペアとして見立てた場合、このペアが更なる後続となるトニックへ解決する事なく新たなる調域でのツーファイヴを更に重ねればトニックへ解決する前に転調して新たなツーファイブ進行を重ねるというドミナントのしつこさの一端を垣間見る事がお判りになろうかと思います。これは元々がベートーヴェンに着想のヒントを得ているという事にも繋がる技法のひとつを垣間見る事になり、奥深さを感じ取る事が出来るかと思います。
此処までテーマA・Bを取り上げて来ましたが、矢張り坂本龍一の分数コードの捉え方というのは属和音の断片からの拡大解釈が根柢にあると考えて差し支えなかろうと思います。
然るに芸大和声(島岡)と知られる『総合和声 実技・分析・原理』p.154での「第6章 さまざまなS和音」では、山下邦彦著『坂本龍一の音楽』p.334でも取り上げている様に坂本龍一とのインタビューでの「sus♯4」という和音の取扱いに於て援用しております。『総合和声』での「付加6・付加4・5省」などを見ればお判りになる様に和声の歴史として今でこそ「S」はサブドミナントと称されるものの、和声学としては機能和声を優先的に、且つサブドミナントではなく「プレドミナント」という事を実際にはこっぴどく教えている訳でして、「S和音」というのも実質的には副和音でしかない属和音の断片である事が判ればそう難しい物ではないのです。
とはいえ、ジャズ/ポピュラー音楽が先にある人間からすれば突拍子も無いコードとして捉えられかねない訳ですが、実際には属和音の発展と上方倍音列の採り込みに伴った掛留が和声発展に寄与しているのであり、属和音の拡張的な世界観がお判りになれば半音階も視野に入る訳です。なにせ不協和音という立場は属和音の生まれ持った宿命みたいな物ですから。
但し、平均律が不協和音をより協和的にし、協和音をより不協和に変えたというのも和声の歴史から見れば興味深い側面なのでもあり、そうした平均律が跋扈する現今社会に於て「G♭△7(on A♭)」というコードを概念的な音楽観念から対照させれば「属十三」の断片に過ぎないという風にして事態を収斂させる手段は在って当然だろうとあらためて私は思います。
仮に「A♭13」という本位十一度を内含する属十三和音を用意したとして、そこから第3・5音を省略すれば「G♭△7(on A♭)」と同様の和音構成音を得られます。
《基底和音の第3・5音を省略してしまったら基底和音の存在は無いですやんか!?》
と憂い及び腰になる人は少なく無いかと思います。然し乍ら属和音の特権として上方倍音列の随伴があります。属和音を「Ⅴ度の位置の和音」として耳にした時に強化される心理状況です。この特権が属和音にあるからこそ、属十三は臆する事なく第3・5音を省略する事が出来ると言えるでしょう。何故なら、第3・5音は低次の倍音として随伴するからです。
無論、2度ベースのメジャー7thコードを「属和音」と同様の使い方をする人は少ないですし、何れにしても一般的な属七の響きよりは幾らか機能が中和して聴こえる。それゆえに「下部付加音」とも認知される訳ですから、響きこそ同じであろうとも「G♭△7(on A♭)」に見られる2度ベースのメジャー7thの型には、属十三の断片としての響きと下部付加音としての響きのどちらにも感じ取れる様に二義的な解釈を常に持っている方が後々役に立つ事が多かろうと思います。
34〜48小節目はリフレインですので割愛します。49小節目からはCテーマとなる部分で、4小節の循環コードが用いられます。この循環コードは平行長調(Key=C)の姿が露わになっていると思われますが、経過的にノンダイアトニックの対斜をも包含しているのはAテーマで現れたノンダイアトニック・コードの「余薫」=残り香および記憶として対応させているが故の導入でありましょう。
まず49小節目は「C△9」が現れ、50小節目で「F△7」と進みます。51小節目ではノンダイアトニックで対斜となる「Bm7(11)」が現れ、これが余薫を紡ぐ重要なコードでもあるという訳です。「紡ぐ」という理由は、全音階社会には無い半音階的情緒を呼び込む為の物なので、その為に「重要な役割」を担っているという訳です。
51小節目でも「F△7」に進むので、4小節循環の内3小節は対斜を成立させているという所に、《目覚めたけれどもなかなか起き上がれない》という様な逡巡する感じがコード進行に能く現れていると思います。
この4小節循環はもう一度繰り返され、最後の2小節で [h -c] の2音に依る漸強(クレッシェンド)のストリングスが現れますが、私は今回このストリングスにメロトロンを用いました。因みに楽譜での「coll’ 8va」はオクターヴ下のユニゾンを意味する表記です。
57小節目からはマンザネラと思しきギター・ソロが開始されます。コード進行はAメロのそれを踏襲している物でありますが、このギター・ソロは24フレットを備えていないとオリジナル通りに弾く事はできません。1弦の最高音として24フレットの [e] が使われるからですね。57〜60小節の4小節に関しては他に語る事は特にありません。
61小節目。ハンマリング・オンから入って長二度下にぶつけて来る重音のセンスがその後の凄さを暗示させているのですが、62小節目4拍目で後打音的に入って来る ‘let ring’ 表記は、そのまま音を延ばしてくれという表記です。つまりアルペジオ「琶音」である訳です。小さいタイが付与されているのはレット・リングを示している表記です。
63小節目4拍目から64小節目にかけても同様のレット・リングで奏する必要があるのですが、64小節目1拍目で奏される最高音および直後のプリング・オフについてはレット・リング表記は避けました。但し、先行のレット・リングはこれらの音の時にも生きている、という事なのでご理解願いたいと思います。
64小節目1拍目拍頭の [e] 音が24フレットを示す最高音です。当時のマンザネラが何のギターを使用していたのかまでは判然としませんが、この音を聴く限り24フレットで間違いないのではないかと思います。
65小節目と66小節目は本曲で最も重要な箇所です。1小節ずつ語る事にしますが、65小節目1拍目拍頭では自然ハーモニクスの重音として、ギターの2弦開放の4フレットおよび3弦開放の3フレット上で得られるナチュラル・ハーモニクスをそのまま掛留に、1拍目弱勢では1弦の1フレットを押弦して2全音上にある第5フレット上の節に現れる第4倍音をアーティフィシャル・ハーモニクスで出しているであろうと推察します。
3弦3フレット近傍(概ね2.9フレット相当)で得られる [g] 音の第8次倍音としてのナチュラル・ハーモニクスを奏して来るというのが凄いプレイです。これらのハーモニクスは単音程で長二度と短二度で犇めき合う事になりますが、ハーモニクスが故の甘美な音響的な作用にも貢献しております。
このプレイは恐らく、誰もが認めるであろうデレク・ベイリーにインスパイアされたプレイであるのは疑いのない所でありましょう。
然し乍ら、そのナチュラル・ハーモニクスのプレイの凄い点はデレク・ベイリーを思わせるプレイにあるのではなく、「Dm7」というコード上で [fis] が拍頭で鳴らされている事に加え、直後の弱勢でadd 4thとしての [g] を弾いているのが凄いのです。
このアプローチについては直後の66小節目で明らかになりますが、結論としてマンザネラは「複調」としての同主調の世界観を想起していると思われます。つまり「Dm7」上では「Dメジャー」も見据えている、と。そこに「add4」も加えている訳ですね。《全音階!? ヘッ、なめんなよ》と言わんばかりです(笑)。この時代、「なめ猫」が流行っておりました。
とはいえマンザネラはなにゆえ同主調の世界観を導引しようと企図するのでしょう!? それはおそらく次の小節である66小節目で生ずる「Fm7」というコードが全てを物語ると思います。
66小節目でのマンザネラは臆する事なく [a] 音を弾き、スライドで [as] を弾いた後に [a] に《戻り》ます。背景の「Fm7」というコードを考えれば、帰着すべきは [as] であるにも拘らず。涯扨て、この [a] は減四度としての [bes] なのか!?
この [a] は同主調として生ずる「Fメジャー」を想起する上での [a] です。つまり、マンザネラは先行小節でも「Dメジャー」を想起し、調域がセスクイトーン(=1全音半)上行進行していると捉えていると思われ、「Fメジャー」を想起しているというのは原調の♭Ⅵ度である世界観を強い余薫=残り香として使って来ているのは明らかなのです。
それほど強く原調の残り香を感じさせるのは、この曲のメランコリックな世界観を勘案しての事であろうというのは判りますが、《Fm7上で [a] って、フツーはアウトでしょ》というのが凡庸な人々の見解であろうかと思います。無論、普通の場所ではやってはいけません。本曲での、本来なら「Ⅴ7」であるべき箇所で「Fm7」を用いたからこそ看過できるアウトな世界なのです。
冒頭でも述べた様に、この「Fm7」が内含する [as] は本来なら属和音上の相当上に聳える「減十五度」であると解釈しております。
仮にこの箇所で、スロニムスキー流の ‘minor 23rd’ 和音=国内では「属二十三の和音」を想起する事にしてみましょう。本曲のキーはAマイナー(イ短調)であるので、この曲の属和音は「E7」を想起するのも良いのですが、短調の諸機能は結果的に平行長調での和音諸機能に隷属しているので、調域として「ハ長調での属和音」を援用するのが相応しいので、まずは [g] 音を根音とする属二十三の和音を見てみる事にします。
上掲の図版に書かれている様に、[g] を根音とする属二十三での「最果て」となる短23度音は [as] です。調的因果関係を勘案すれば二度音程は長二度が優勢になるのは明白でもあり、単音程転回位置に還元した際の「短二度」が最も不協和の位置に置かれる事で、斯様に「最果て」の位置に置かれる所もあらためて深く首肯させられる堆積の姿であります。
長属九と比較して短属九という「Ⅴ7(♭9)」という構造は、属二十三で本来存在しうる9〜21度音を端折った形であるという風にも捉える事が出来ます。そういう意味で短属九というのは、半音階的情緒を喚起し易い和音であろうとも言えます。とはいえ長属九でもメロディック・マイナーのⅣ度上の和音として見る事も可能であり、こちらもまた半音階を別の形で喚起する状況でもあるのです。
属二十三の和音は、調的因果関係を優勢に見乍ら「半音階的情緒」を離れた所に置くので、西洋音楽での属和音上の十一度の取扱いが、本位十一度が優先されるのもあらためて理解におよぶ物です。即ち、ジャズ/ポピュラー音楽で用いられる「♯11th」というのは、基底和音への協和間の阻碍を回避した策であり、実質的に属二十三の側から俯瞰すれば「♭19th」の異名同音なのであるに過ぎない事が判ります。
そもそも属二十三の和音の組成での根音から第13度音までは「全音階」社会の音組織であり、第15〜23度音が「半音階」社会の音組織と成っている訳です。主和音以外の副和音は属十三の断片であるに過ぎないという見方も、先人たちは非常に深く全音階を捉えつつ半音階へ行き着いた事が判ります。
そうした状況を踏まえると、属二十三の和音上で「最果て」の位置に協和から最も縁遠い脈絡となる音が置かれるという事はあらためて腑に落ちる物であり、第15音より高位にある音度こそが半音階の脈絡だと思えば非常に解釈は楽になる事でしょう。
和音という、基底に備わる和音を阻碍する事を避けて「恣意的」に変化された音が、特に「♯11th」音というのは非常に多用されている訳ですが、こうした使用事例の多さを根拠に「♯11th」の脈絡こそ近縁だと盲信してしまうのは愚の骨頂です。全音階組織を無視せずに呼び込むべき脈絡なのであります。
そこで、先の [g] を根音に採った属二十三を再度確認する事にしますが、最果てとなる第23音は自ずと [as] になる訳ですが、これは本曲Aテーマの2小節目で作られた「Fm7」の和音構成音である [as] の根拠として見做しうる事が可能となる訳です。
そもそも私は「Fm7」の [es] は [e] を属音とするドミナントの属音省略での減十五度であると述べてきました。つまり半音階組織の脈絡である以上、この第15音は最果ての第23音とも結び付けるのは容易なのであります。念頭に置くべきは、調域としての「ハ長調」が優勢にあり、そこでの属音 [g] を第一に想起した上で、平行短調としての属音 [e] を二次的に捉えるという所です。
平行長調側での脈絡(=属音 [g] からの属二十三和音形成)では図示した様に、第15・17・19音が「G♭△7」の基底部である「G♭△」を形成した上で、最果ての音 [as] を「最低音」として利用する訳です。上下が逆転するという事で和声的に「倒置」となり、それら4音を元の属和音の7th音に応答させつつ、その7th音も加えて「G♭△7(on A♭)」という、全音階的な見渡しでイ短調からはとても脈絡が思い付きそうもない遠隔的な和音も、属二十三から見れば然程遠くには見えないという訳です。
そこで次は [e] 音を根音に採る属二十三で脈絡を分析してみましょう。
上掲の属二十三の最果てとなる第23音は [f] となります。つまりはこの音が「Fm7」を形成する為の一因でもあるという事なのですが、イ短調から唐突な感じを避けるにはコモン・トーン=共通音が必要となります。
その上で、減十五度となる [es] は自ずと「Fm7」の7th音として採り込まれます。コモン・トーンとして「全音階」側の第13音 [c] が「Fm7」の5th音になります。更に、属二十三の第3音である [gis] を異名同音の [as] にして「Fm7」という脈絡の形成が生ずるという事になるのです。
これらの状況は、半音階を全音階側に呼び込んだ「手招き」として解釈すると判りやすいかもしれません。つまり、イ短調という音組織で同主調のイ長調という音組織を見立てようとするならばイ長調の主和音を呼び込むには [des] を異名同音として [cis] へ読み替える事で実現するという訳でもあるのです。
扨て、マンザネラは「Dm7」というコード上で「Dメジャー」を呼び込んでおりました。これは結果的に、イ短調という強い残り香を常に感じ取っているが故の情緒なのであり、それはサブドミナント・コードである「Dm7」でも強烈に余薫を忘れないという事を意味します。そこで活用するのが [e] を根音とする属二十三和音での見渡しです。
前掲の様に [e] を根音に採る属二十三では長九度として [fis] を包含しており、第7・9・11音で「D△」を形成しているという事がお判りになろうかと思います。add 4としても使われていたナチュラル・ハーモニクスの [g] 音は、半音階社会側としての第17音がそうした脈絡となる状況を満たしているのです。
特筆すべきマンザネラのプレイである66小節目でのプレイは、背景のコードが「Fm7」であるにも拘らず [a] 音を忌憚無く奏している事であり、私はそれに対して「Fメジャー」を想起していると語っていた事を思い出していただければ自ずとお判りいだけるかと思います。
先の [e] を根音に採った属二十三では「Fm7」の脈絡を見ておりましたが、同時に「Fメジャー」を想起するには [a] を見付ければ済むのです。第11音の本位十一度音にありますね。
属二十三という和音が半音階の総合である以上、同主調の脈絡を包摂するという状況も取り込まれている事となります。それに加えて、坂本龍一が作り出していた非凡なコード進行。これらが原調の余薫と半音階の喚起という事となって、マンザネラの同主調を見越したアプローチという根拠が解決するという訳です。
仮にマンザネラが、楽理的側面は一切無視した上で感性だけで手繰り寄せたアプローチだとしても、茲で生まれた《心地良い溷濁》は楽理的には手繰り寄せる事が可能な脈絡であり、凡庸な連中が《Fマイナーで [a] 弾くってナメてんのか!?》という事を言い出しかねない状況ではあっても、それが妙に説得力ある音で棄却する訳には行かない程の心地良さがある訳です。
その心地良さの源泉を探るには、楽理的に分析する必要がある訳です。マンザネラが楽理的に無知であるプレイヤーだとは到底思っておりません。然し乍ら斯様なアプローチを忌憚無く行える格好良さというのは、矢張りデレク・ベイリーに相当倣っているのであろうなという事が窺い知れるのであります。
そうと割り切らない限り説明しようの無い脈絡ですからね。でも、能くOKを出したと思います。加えて、これを「謬り」と指摘するのは早計でありましょう。天才と莫迦の紙一重に等しい音ですから恐懼の念に堪えません。
こうした状況をあらためて念頭に置いた上で、66小節目でのギター・ソロの採譜で [a] から [as] として表記しているのは、その [as] が決してイ短調での導音 [gis] ではないという解釈であるからなのです。[a] に戻っているので、原調に基づけば [gis] が相応しいのではなかろうか!? と思われる方も居られるかもしれませんが、もう一度思い返して下さい。この箇所のコードは「Fm7」なのです(笑)。
ですので、原調をどれほど鑑みようとも [a] というのは通常ならばこの場合 [bes] =「B♭♭」として見立てた方が《まだマシ》なのですが、それでも解答としては「△」なのですね。茲は複調なのです。「Fm7」というコード上ではありますが [a] で良いのです。
複調であろうが、楽理無関係に奏していようともスーパーインポーズには変わりありません。複調の示唆というものが楽曲のコード進行には潜んではいようとも、複調が併存されるという状況は、マンザネラの当該部分2小節のアプローチ以外には現れる事の無い脈絡なのですから。
マンザネラのそうした「強行」が、思わぬ方向で良い結果が得られているという事を深掘りすると、複調が潜んでいるという事に行き当たるという、そういうお話なんです。
音作りの方の話題を少し挙げますと、今回の譜例動画デモに於てマンザネラのパートではWavesのMondo ModとMeldaProductionのMTremoloは大活躍しました。シンセの方ではEventideのH949のディレイおよびハーモナイザーを多用しているので、音像がエンボス加工の様に浮き立っている類の音はH949が齎している効果です。
尚、マンザネラはカンタベリー系でも知られるクワイエット・サンに参加しており、アルバム冒頭の「Sol Caliente」はマンザネラの『801 Live』冒頭でも聴かれる曲ですので、マンザネラのディストーションや調性の見渡し(スケール感)やリング・モジュレーションを好むギター音色はあらためてお判りいただけるかと思います。
私個人としては、801というマンザネラのプロジェクトは、その後のKYLYNも影響を受けているのではなかろうかと思っております。YMO自体はソフト・マシーンっぽい所がありますが。
そういう訳で、譜例動画の方はリフレインとなるので他の部分と同様の解説となるので、これにて終える事にしますが、まあそれにしてもマンザネラのデレク・ベイリー風のプレイからの複調アプローチは実に見事な物です。坂本龍一のコード進行である調性プランが実に巧く作用したという好例ではなかろうかと思います。
2021年12月14日追記
Aパターンで生ずるオリジナルのコード「Fm7」の私の解釈は、《属音 [e] 音を省略する減属15の和音》と説明していましたが、それを実際どういう音になって聴こえるのか!? という事を体現していただく為に、今回あらためてジャズ・フレージングのアプローチで試してみる事にし、新たな譜例動画をYouTubeにアップをしました。
このジャズ・アプローチとしてアレンジする際、オリジナルAパターンで使われるコードの「Dm7 -> Fm7」というコード進行を「Dm9 -> Fm9」という風に、より重畳しい和音の響きに変えました。
このコード変更の意図は、背景の和声が乏しくならない備えでもありますが、仮にインプロヴァイジングの側が原調(想起されうるモード)から大きく逸脱しても、伴奏部分は原曲を毀損する事なく且つ和声的な重々しさが添加される様に配慮したものであります。
譜例1小節目1番は下属音 [d] 音の近傍を微分音的イントネーションで揺さぶりをかけているものです。尚、こちらの譜例画像は譜例動画とは異なり実音表記にしておりますので、各人確認しやすい譜例の方で追っていただければと思います。
2小節目は「減属15」すなわち「E7(♭15)」を想起すべき箇所となる小節です。dim15thまでを充填する [9・11・13] 度のテンション群は適宜オルタレーションを採る扱いとなります。2拍目拍頭で現れる [e] は「Fm9」からすればアヴォイドなのですが、想起しうる「E7何某」としては充分な脈絡なのであり前後との整合性も相俟って存在感が際立つ様になります。
同小節4拍目拍頭 [des] は「E7何某」から見た「♭13th」というオルタレーションであり、4拍目最後の微分音 [eit] は先行音 [f] からイントネーション的に下がった微分音です。
扨て「Fm9」の箇所を「E7何某(※減15度を具備)」を見立てつつも、減15度を見渡した途端その世界は半音階の世界観を見る事になるのですので、コード本体「E7何某」は常に半音階の音組織を随伴しているとみなしうる事も可能となります。なぜならば、ドミナント7thコードの [1・3・5・7・9・11・13] 度という世界は全音階の音組織であり、半音階は [15・17・19・21・23] 度に現れるからです。
ジャズのオルタード・テンションというのは、半音階側にある音組織を全音階にある音がオルタレーションされたという風に解釈して呼び込んでいるだけに過ぎず、実質的には [15・17・19・21・23] 度に存在する音を呼び込んでいると解釈した方が、アウトサイド・フレーズなども視野に入って来た時にはこうした解釈を念頭に置いた方が役に立つ事もあるでしょう。
即ち、ドミナント・コードでなかろうとも副和音が半音階を随伴させるという状況が念頭に置かれていると、マイナー・コード上で「♯11th」を随伴させるという世界観が非常に重要になって来るのです。
ところが、「♯11th」は「♭5th」の異名同音とばかりに誤って理解してしまう愚者が多いのはおろか、ジャズの世界であろうともマイナー・コードで《♮5thと♯11thの併存》というコードを見る機会が極めて少ない事もあって、こうした世界観は等閑になってしまう事が非常に多く、取り上げる側もあまりにレアケースである為、及び腰になりかねない事も多々あるものです。
マイナー・コード上の「♯11th」は、アーサー・イーグルフィールド・ハル著『近代和声の説明と応用』やヒンデミット著『作曲の手引』には、副和音に内在する三全音として体系化されている物でして、次の動画の埋め込み当該箇所ではジェフ・バーリンが「Cm△7(♯11)」とレコメンドしている物です。
マイナー・コードの七度音は短七度のみならず長七度があり、その他の付加音として長六度が使われたりする物です。加えて、ジェフ・バーリンのレコメンドするマイナー・コードでの「♯11th」はマイナー・メジャー7thコード限定なのでは決してなく、マイナー7thコードでも本来ならば使われるコードであります。一般的にまだまだ使用例が少ないだけであり、非常に耳の鋭い方はジャズ/ポピュラー音楽でも使用者は既におります。
副和音が三全音を包含しているという事は、コード自身が半音階の世界観を既に視野に入れているという姿なのでもあるので、こうしたコードの場合常に半音階が随伴していると考える事が可能なのです。それが時代を経てポリコードの発想まで解釈を拡大する様になると、中心軸システムも既に体系に入る事となり、三全音同士のポリコードが生じたりするという訳です。こうした呼び込みが結果的に半音階的フレーズを強化するという事になるのです。
先のジェフ・バーリンの動画の0:15〜では早々と ‘major 7, dominant 7, minor 7, minor 7 ♭5, and diminish 7’ という風に紹介しており、特に「ディミニッシュ7」と態々明言している所に、「dim表記はdim7と同等」と古い仕来りに固執している連中が如何に雁字搦めになっているかが判るという物です。《dimをdim7として》使って来たであろうという世代の人が現今社会ではそれを直して「dim7」と言っているのですから、あらためて柔軟な姿勢の重要さがお判りになるのではないかと思います。
まあ、覚える側からすれば覚える事が少ない方がラクではありますが、多義的であるにも拘らず一義的な理解に固執したくなる理由など所詮その程度の物でしょう。《多義的ならばどんな言葉を使っても良いじゃないか!》と強弁する輩も居りますが、ある一方の呼称を使うと方々で語弊を生じてしまう状況になっているので各所で改めているという状況でも固執する愚者が居るとすればどうでしょう!? 新たに覚える事がそこまで労劬を伴うものでしかないのであれば覚える事などやめちまえ! と言いたい所ですが(笑)。
3番はAリディアン・ディミニッシュト・スケールをスーパーインポーズしております。[dis] 音が明示的に使用しているのは先述にある通り、三全音の随伴=半音階の誘引であるからです。この [dis] 音は正当な解釈では下接刺繍音という和音外音となります。ただ、下接刺繍音という括りはジャズ・フィールドからすれば旨味の少ない判断かと思います。
刺繍音に限らず西洋音楽界での和音外音というのは、線的牽引力の材料としての反発材として好意的に用いられます。リニア・モーター・カーでの磁力の反発力の様な物と思っていただければ解りやすいでしょう。
実は旋律とは、和音構成音ばかりで構成させた場合(=分散和音)は線的な力というのは弱くなる物です。そこで、和声的には侵食しない音価の短い和音外音が姿を表し、それが次に現れうるであろう和音構成音に取り込まれる為の牽引力になっているという訳です。
ジャズ・インプロヴァイズを分析する場合、殆どのケースではアヴェイラブル・モード・スケールとコードの側からアナライズしますが、それらを用いても説明が付かないケースに遭遇した事があろうかと思います。説明のつきやすい和音外音は概して先行音(アンティシペーション)や経過音(パッシング・ノート)であるのですが、それらでも説明のつかない音となると刺繍音やその他の和音外音(逸行音など)になる訳ですね。
楽聖ベートーヴェンの「エリーゼのために」の冒頭に現れる属音の半音下の [dis] 音はドミナントの箇所で現れるⅤ度の半音下の音です。涯扨てジャズはその音をどう説明しますかね!? それがお判りになれば、私が今回用いた下接刺繍音が刺繍音だけではなくクロマティシズムを呼び込む為の起因材料としているのはお判りいただけるかと思います。
4小節目の4番はコードこそ3小節目と同様ですが、アプローチとしては「Am7+E♭m7」という減五度調域でのマイナー・コードを複調的にスーパーインポーズしています。こうしたアプローチが活きるのは、先行小節での「下接刺繍音」を異名同音での誘引材料としているのであり、そうした調域を使うのであれば [gis] ではなく [as] を使ってもよかろうにと思われる箇所では、リディアン・ディミニッシュト或いは「Am」に対する導音(※最初は主音に解決しない)として表しています。
4小節目の1拍目で生ずる [fis] は前小節からの流れを引き継いでドリアンの風味を誘っているのですが1拍目最後では [f] に戻り、茲が減五度調域のスーパーインポーズのスイッチとなっているのです。そうして [b] まで下行し、[b] が恰も [a] に対してのフリジアン・スーパートニック(♭Ⅱ度)の様に聴かせた瞬間が移旋でもあり複調の終わりでもある訳です。
5小節目の5番で括った音形は [d・e・f] という [全音・半音] という音程構造となっているトライコルドであり、このトライコルドをダイトーン(ditone=二全音)上行させる訳ですね。ジャズ/ポピュラー系ならスロニムスキー流なのですが、こうした音形の移置はトルコ音楽やイスラム圏でも能く知られる物です。
※「移置」という語句はGoogle検索の世界では非常に稀であるのか「死体遺棄」やらの「遺棄」の用法ばかりをヒットさせますが、音楽用語としては頻出する程ではないもののきちんと使用されます。私が最初に触れたのはプリーベルク著『電気技術時代の音楽』での入野義朗の訳で、「移動」および「移高」というトランスポーズも含めた意味が音楽的な意味での使用となるでしょう。
そもそも「Dm何某」というコード上で、マイナーを示唆する音形を二全音上行させれば、自ずとDメジャーを喚起してしまう音は生じます。とはいえ、副和音(=属和音以外の和音の総称)でも半音階を標榜するという世界観であるならば、こうした逸脱した音の使用は是認される物です。それをおかしくしない為には先行して提示する音形と、後に続く同形のフレーズの音程構造がノンダイアトニックであろうと同一である事が重要となります。こうしたトライコルドの移置のアプローチでジャズ/ポピュラー音楽界隈で顕著なのが故アラン・ホールズワースですね。
ギターであれば、ある音形の音程構造が移高するだけの状況こそがこうした移置として現れるのであり、それはアラブ地域でのウードでも同様でありましょう。或る一定の運指の流れをそのままにフレットを移動して行き乍らもそこではアヴェイラブル・モード・スケールを逸脱する様なフレージングなど、遊び心のあるギタリストならばジャズを知らなくもやった事のある人は多いのではないでしょうか。そうした状況を楽理的に説明する場合こうした側面に収斂しているアプローチだという事が判るのです。
加えて、トライコルドの移置に依って結果的に「Dm9」の三全音調域である「G♯m何某」をも誘引している事にもなっているのです。同小節3拍目から生ずる7番もセスクイトーン(=一全音半)の移置である為、[d・h] -> [cis・b] -> [c・a] として移置されているアプローチである訳です。
畢竟するに、[d・e・f] という [全音・半音] という音程構造のトライコルドの移置は、異なるトライコルド同士が半音ディスジャンクトという連結で新たなるトライコルド [fis・gis・a] に連結している姿である為、そこで《線の在り方》の側を強行する事に依り和音体系の中に括られるべきアヴェイラブル・モード・スケールを容易に跳越するアウトサイドのアプローチに転化するという事なのです。《線を強行する》という語句は過去の私のブログ記事でも数多く見受けられると思いますが、こういう意味を持っている言葉ですのであらためてご理解いただければと思います。
そうして同小節4拍目では、帰着する [a] 音から半音階的下行で [gis - g] と剥離して行き、後続の小節の音脈に繋げるというアプローチとなっているのです。
6小節目の「Fm9」もアプローチとしては「E7何某」という風に減十五度を具備するドミナント・コードを想定しているという前提になっております。8番の箇所である [h・gis] を見てもらえれば、それらが「E7何某」からの和音構成音=第5・3音という順に現れている事があらためてお判りになる事でしょう。
同小節2拍目拍頭での [as] は、コードの「Fm9」に阿る現れ方であり、[es] を極点にした以降の音は「E7何某」という想起する側の音が顔を出すという事になっているのです。
チャーリー・パーカー風のアプローチであれば [h・gis] と続いた音形の後に [e] に帰着しても良さそうですが、増二度を利用して一旦「Fm9」の側の [f] に帰着します。こうする事に依り、「Fm9」が喚起するクロマティシズム≒三全音調域として「Bm9」という仮想的な世界の側のコードが中心軸システムの援用により誘引材料ともなっており、「Bm9」から想定されるアヴェイラブル・モード・スケールとしての [h・gis] でもあるのです。
同小節3拍目の9番の [ges] は、元のコード「Fm9」への「♭Ⅱ度」である事を明示した音であり、この音を「E7何某」からみた長九度という風にはしませんでした。但し、同小節4拍目での10番は「E7何某」からの音脈である [h・g] を明示し乍ら複調的に「Fm9」での [es] をも織り交ぜて使っているという訳です。
扨て8小節目のコードはノン・ダイアトニックである「Bm7(11)」というコードになりまして、曲想も唐突感が顕著になる箇所ではありますが、今回私はこのコードを素直に見る事はせずにクォータル・ハーモニー=四度和音という風に想起してアプローチを採る事にしました。
例えば「Bm7(11)」の和音構成音を [fis・h・e・a・d] という完全四度堆積構造として見れば、あらためてそれが四度和音の構造であると理解に及びますが、通常の三度堆積と四度堆積では何が違うのか!? という事を先ずは説明しておかなくてはならないでしょう。
通常の三度堆積型の和音というのは、実際には五度の連鎖からの誘引となって三度堆積の形成へと発展した物です。旋法的な和声としての「五度和音」というのもあるのですが、こちらの「五度和音」は軈て転回して「四度和音」の方で語られる物となります。
五度の連鎖から三度堆積へと進化したのは上方倍音列に従属したからであります。倍音列の低次の音程比の中には [3・5] という音程比があります。[3] は純正完全五度、[5] は純正長三度へ転回位置(単音程)へと還元され、基音= [1] とそれらが組み合わさって [1・3・5] は長三和音=メジャー・トライアドを得るという事に収斂するシステム。茲から和音体系は発展して三度堆積が主になっているという訳です。
加えて、旋律論も「協和」という観念に従属している為、何某かの音は脳裡に映ずる和声感に依って、その和声の「五度音」を一旦の極点と位置づけます。極点という山の頂上を目指したら矢張り家に帰ろうとする物です。家=主音、極点=属音という風に考えれば、旋律論としては和声が持って居る第五音を一旦の極点とし乍ら「家」に帰れば良いというのが調性に於ける「終止」=カデンツというシステムとなり、これが機能和声な訳です。
機能和声はトニック、サブドミナント(※厳密にはプレドミナント)、ドミナントという機能に括られまして、各機能は先行する機能の和音の主音を自身の「上音」に取り込みます。上音とは和音の根音以外の音ですから、トライアドを基礎とした場合上音は自ずと和音の第3 or 5音という事になります。
先行和音がトニックで、これが「C」であったとしましょう。この根音 [c] は次のサブドミナント和音「F」では上音に取り込まれているのがお判りでしょう。「Dm7」に於ても同様です。
次に、先行和音が「F」の根音 [f] というのは次に現れるドミナント和音「G7」の上音に取り込まれているのがあらためてお判りになる事でしょう。斯くして「G7」の根音 [g] は次の解決先のトニック [c] の上音に取り込まれるという訳です。
つまり、主和音以降の和音に付随する上音としての「第五音」は自ずと、その都度の一旦の極点としても存在している事になり、この極点の連鎖を「動かす」事でメロディーは多彩になり、終止感も随伴するという事です。
童謡「蝶々」は、和音諸機能から見るとそのメロディーは一切コードの根音がありません。所が、線的形成に根音を映ずる様に工夫されている為、[ソミミ] という節を耳にすると脳裡には根音 [ド] が聴こえ、[ファレレ] では根音 [ソ] を脳裡に映ずるのであります。Ⅰ -> Ⅴ7 という流れが冒頭で現れるという訳です。先行する [ソ] が残像になっている事のお陰なのです。この残像の原因は差音(※厳密にはミッシング・ファンダメンタル)も因果関係になっております。
という訳で「三度堆積」のメカニズムがお判りになっていただけたでしょうが、五度の連鎖が三度へと収斂した事と同様に、四度堆積は二度へ収斂して行きます。
四度堆積を進めて、それらを単音程に転回位置に還元すれば軈ては「二度の房」を作る様になります。これは十二等分平均律であれば四度和音の連鎖は11個の連鎖で終わりますが、微小音程=微分音が視野に入る不等四度などの組織では、四度堆積は二度音程はもっと狭い二度へ収斂する事も意味するのです。
そういう意味に於ても四度堆積は可能性を秘めた構造である訳ですが、そうした特性を好意的に用いるからこそ7小節目冒頭では四分音をあからさまに呈示しているのです。
尚、7小節目冒頭の [dist] はヴィシネグラツキー流に言う所の「短四度」であり、[e] の後に現れる [eit] が「長四度」と呼ばれる音となり、直後の [fit] は「短五度」という事です。微分音的に元のコードの四度と五度を蹂躙する様に揺さぶりをかけているのです。
そうして同小節3拍目からは原コードを念頭に置きつつセスクイトーン(=一全音半)上にある「Dm7(11)」を想起したアプローチを採っています。半音階の喚起であると共に中心軸システムでのセスクイトーン域でもあります。この想起によって「Dm7(11)」か導かれる [c] が呼び込まれ、「Bm7(11)」ではアヴェイラブル・ノートである [cis] を揺さぶるのであります。
8小節目では私の解釈として、ひとりだけ「Em9(♭5)-> A7」というアプローチを採っています。同小節2拍目の [f] 音が現れる所で「A7」を想起し、[f] は「A7」上の「♭13th」という事になり、[b] は「♭9th」という事になります。半音階的に揺さぶりをかけた上でツーファイブを強行する事で、更なる後続の「Dm何某」に繋げる為のアプローチであります。元々「Bm7(11)」は佇立した感があるので、進行感を加えて次の「Dm何某」に弾みを付けようと企図しているのです。
こうして今回のジャズ・アプローチがお判りになっていただけたかと思いますが、ジャズ・フレージングに慣れた人であればこの手のフレーズなど瞬時に真砂の数程脳裡に映ずる事ができます。私自身、今回のフレーズは頭を振り絞って漸く絞り出して周到に用意したという物ではなく、インプロヴァイズを執行するイメージで湧き出たフレーズを採譜した物をこうして詳らかに説明しているに過ぎません。
半音階や微分音に慣れた場合、こうした音脈は常に脳裡に映ずる事が可能なのでありまして、このフレーズが浮かんだら後は頭ん中空っぽになる、という訳ではありません(笑)。
原曲としてノン・ダイアトニック・コードが顕著な箇所はあるものの、調性感は強い薫りを持っていると思います。それを払拭してこそのジャズ・フレーズであるのでトコトン調性に刃向かう方が功を奏すると思います。
何れにしても、原曲がこうまで変貌するのだという事を実感していただければと思います。