坂本龍一初期作品「フォト・ムジーク」楽曲冒頭の微分音
2022年1月21日にEP盤としては珍しい再発の報せがありましたが、それが坂本龍一の『コンピューターおばあちゃん』の再発というものです。

古きYMOファンの間では知れ渡っている事実でありますが、YMOファンの多くは「コンピューターおばあちゃん」よりもNHK-FMでの坂本龍一がDJを務める『サウンド・ストリート』の初期オープニングテーマ曲「フォト・ムジーク」という曲がB面収録となっている事を目当てにしており、81年当初リリースの盤は希少価値の高さも手伝ってクローズアップされているという物です。
坂本龍一がDJを務めるNHK-FM『サウンド・ストリート』は1981年4月7日から放送が開始され、番組開始当初から使われていたオープニング・テーマ曲が『フォト・ムジーク』であったという訳です。そのほんの2週間程前にはYMOのアルバム『BGM』が発売となっていた時期であります。
私自身、坂本龍一の発言には非常に注目しておりましたので不定期乍らも「サウンド・ストリート」は度々エアチェックして聴いていたもので、番組後期では坂本自身が
《もう何度目ですかね!? 「フォト・ムジーク」のリクエストは。コレが最後ですよ!!》
という言葉を耳にしたくらいで、たぶん3回位「フォト・ムジーク」は放送されたのではないかと思います。
その後のオープニング曲は『両眼微笑』の方が放送期間が長かったと思いますし、YMOファンには低年齢の人々も多かった事もあって、オーディオ周辺機器の所有や知識に脆弱な人が或る一定以上の録音環境を整備した時には番組のオープニング曲が変わってしまっていたという状況が齎した要望の声であったろうと推察します。
私の周囲でも、知人の甥っ子が高校入学祝いでプロフェット5やARPオデッセイを買ってもらっていた話とか舞い込んで来ておりましたからね……。
幼い(いとけない)ファンの醸成を俟つ頃にはYMOの活動自体が乏しくなっていったというのが悲哀なる現実だった事でしょう。YMOへの過剰なまでの過熱が収まりつつある頃に坂本龍一がラジオでの活動を繰り広げるという姿勢は、YMOとは異なる姿勢をアピールしたかった狙いがあっての事だったろうと思います。それでも大半のファンはYMOに準則する姿勢を期待していたとは思うのですが。
そうした時期にポツンと存在していた「フォト・ムジーク」という物は収録音源そのものが希少で、ややもすればシングル盤のみで発売されていた「War Head / Lexington Queen」(1980年7月21日発売)や「Front Line / Happy End」(1981年4月21日発売)にも似た存在として受け止められていたかもしれません。
そうして何度か「フォト・ムジーク」は番組内で流され、それ以前の放送でもエア・チェックする機会を逸した人達に向けてのサービスだったのであろうと思いますが、坂本龍一の作品としては曲調はかなり卑近(ベタ)な出来ではあろうとは思います。
フラット・メディアント(=短調の自然六度=♭Ⅵ度)がやけに耳に付くのが卑近に聴こえてしまう最大の要因なのではありますが、その後Aテーマはブリッジ部からBテーマにかけて奇を衒う様な部分転調が坂本龍一「らしさ」を垣間見せる物であり、ベタな響きに甘受していたら予想を覆す美味しいハーモニーを味わえるかとばかりの転調感に心酔している人が多いのであろうと思います。
ご存知の通り、短調の自然六度というのは属音に対して下行導音という重力が働く音ですので、属音への喚起および属和音への導引という、音楽的見通しの判りやすさを示唆しやすい振る舞いとなる物です。それでも坂本龍一らしい進行を忍ばせているのは言わずもがなでありましょう。
また「フォト・ムジーク」がYMOの変遷期に位置する楽曲という事も手伝って、YMOファンは自身の隷従と思い出を投影し乍らより一層自身の郷愁を増幅させているのであろうと思います。
私がこの作品を感得するに当たって「遉、坂本龍一だ」と思わせる音が冒頭のホワイトノイズ混じりの3音の音です。これらの音は楽曲全編に亘って用いられておりますが、3音の何れもが微分音だという実際です。
本曲は山下邦彦編著『坂本龍一の音楽』の341〜343頁にて原譜と共に語られてはおりますが原譜とオリジナル作品と比べても、16分音符のシークエンス・フレーズは二声で想起されていたのだなという状況があらためて判るもので、実際の作品はだいぶ削ぎ落としてアレンジしたのだという事を実感します。
とはいえ楽曲冒頭の微分音というのは原譜にも書かれておらず、ホワイトノイズの配合も書き込まれておりません。加えて山下邦彦は「フォト・ムジーク」を ‘Photo Musik’ と書いてしまっておりますが、これは ‘Foto Musik’ が正しい表記となります。
まあ私などバロム1を存分に堪能した世代でもあってドイツ語など意識の外にある様な存在でしたので、「フォト・ムジーク」という言葉をラジオで聴いても「フォトム・ジーク」だとばかり思っていた様な浅学野郎でしたので、聴き慣れぬ横文字には《まあ、バロム1の造語みたいなモンなのかもしれない》とばかりに全く拘泥していなかった莫迦野郎であったワケです。
’Foto’ を ‘Photo’ と間違えている程度なら許容できる瑣末事であろうとも思えるのですが、拘る方も居られるでしょうから一応話のネタついでに語っておきました。
扨て、話を微分音に戻しますが、微分音を実際に使用しているというこの事実を私の周囲のYMOファンに言った時は大層驚かれた物でした。まあ、こう言ってしまうのは何ですが、坂本ファンの多くは坂本龍一を隅々まで好んでいるクセして微分音には全く無頓着という者があまりに多過ぎるという点はついつい嘆息してしまう所。微分音の話題を出しても、私の方が懐疑的に思われてしまう事多数です(笑)。
先の冒頭のSEを、よもや微分音とも思ってはいなかったというのも驚きなのでありますが、私個人としては《嗟哉、みんなベタな曲想に騙されているんだな》と思ったものでした。
そうした状況を言い換えるとすれば《卑近な状況が難しい音に親近感を持たせている》とも考えられるので、あらためて坂本龍一の狙いというものが朧げ乍らもお判りになるかと思います。
坂本龍一は初期作品『千のナイフ』の頃から顕著に微分音を使用(「Das Neue Japanische Elektronische Volkslied」のイントロなど)していたので「フォト・ムジーク」でそうした試みがあっても何ら驚くべき事ではないのですが、十二等分平均律(=12EDO)から逸れた音ならば余計に目立つであろうという様な楽曲で用いる所もあらためて凄さを感じる事が出来るかと思います。
思えば、YMOの1stアルバム『Yellow Magic Orchestra』の頃でも特に顕著な微分音の使用例となるのが「Bridge Over Troubled Music」で用いられる八分音と四分音でありますから、こうした初期作品からCV/GATE値を駆使していた事が判ります。
氏の微分音使用に於ては私のブログの過去記事で何度か取り上げているので、ブログ内検索をかけていただければ当該ブログ記事を多数引いて来れると思いますのであらためて参考にしていただければ幸いなのでありますが、扨て「コンピューターおばあちゃん」というのが何故YMOファンに注目されるのかという所にスポットを当ててみようと思います。
品番ETP-17271「コンピューターおばあちゃん」の発売日は1981年12月1日であります(※本記事冒頭の画像はPROT-7157のもの)。
以降、CD化されたのはテクノ歌謡と8枚組CD『J-ROCK 80’s』のみという事ですから、希少性の高さがあらためて窺えます。私自身は『J-ROCK 80’s』の方しか所有してはいないので画像は『J-ROCK 80’s』のVol.8のみ紹介する事に。

YMOのアルバム『テクノデリック』の発売日(1981年11月21日)と同時期である事に加え、ビートニクス(高橋幸宏&鈴木慶一)の『出口主義』が同年12月5日と立て続けに発売されており、これらのアルバムは何れもハードなテクノ路線であります。
高橋幸宏に関しては同年6月5日に自身のソロ・アルバム『ニウロマンティック』をリリースしており、TBS系列のドラマ『2年B組仙八先生』の第15話にて高橋幸宏「Drip Dry Eyes」が番組内のBGMとして使われていた事が今となっては40年前の事となるのですから隔世の感があります。
同年3月に発売されたアルバム『BGM』以降、YMOはかなり路線を変更してマニアックなアルバム作りを企図していた流れに逆行するかの様なコミカルなシングル盤は、当時のYMOファンからも遠ざけられていたのではなかろうかと思います。
同年2月21日には『スネークマンショー 急いで口で吸え』がリリースされており、モノラル版である「磁性紀─開け心」が収録されていた物でした。大方の期待を裏切り、アルバム『BGM』収録とはならず、そうした状況をあざ笑うかの様にTV-CMではフジカセットのCMとしてYMOのCMがバンバン流れていたという皮肉な状況でもありました。

私個人は、YMOオタクと形容するまでのスタンスではありませんでしたが、坂本龍一の『サウンド・ストリート』は非常に注目していたので、YMO関連のレコードの類はソコソコ情報を掴んではいたものの、総じて収集するという程ではありませんでした。
私の様な人が収集し損ね、後に《B面に「フォト・ムジーク」が収録されている》事が広く知られる様になった頃には時既に遅しという風にして、盤そのものを入手する事すら難しくなったのであろうと思います。
私の周囲には、私よりも遥かにYMOをこよなく愛する人間が数十人は存在しておりましたが、「コンピューターおばあちゃん」も手堅く収集していたのはほんの数人しか居なかった程でした。まさか後に、「コンピューターおばあちゃん」の発売日が私の長女の誕生日になるとは当時は思いにもよりませんでしたが(笑)。
扨て、本曲「フォト・ムジーク」の微分音について語って行こうと思いますが、この曲は結構厄介です。二重付点四分音符のメロディー部をAパターンと仮定し、その後のモールス信号の様なホワイトノイズ混じりのパターン4小節をBパターン、直後のエンハーモニック転調で「G♭△7」へ進行する箇所をCパターン、「B♭」のピカルディー終止部分を Dパターンとすると、Dパターンでのモールス信号の様な音は1単位十分音ほどピッチが落ちます。
十分音の単位音程の理論値は20セントです。Dパターンでのモールス信号の様な [b・d] の2音は何れも19セント下げというのが実際です。
私はB〜Cパターンでのアンサンブルのピッチ変化は微分音として捉えてはいません。四分音符で奏される主旋律は高めに採られておりますが、私はこの高めのピッチはEventideのH949に似る音色変化と捉えております。
微分音を語る時に「n分音」という呼ばれ方をする事がありますが、これは全音音程の分割数を指しております。つまり、上述の十分音は全音を10等分しているという状況を指している訳ですが、十分音は五分音を更に細分化された体系であり、五分音の原点は31等分平均律から生じている物です。
全音音程を語る際、今でこそ十二等分平均律(12EDO)という音楽的状況がある事に依りそうした多くの状況下に於ける全音音程のサイズは200セントであるのですが、微分音や古典調律を前提とした時の全音音程のサイズは場合に依っては「大全音=204セント」という状況を視野に入れる必要がある事を忘れてはなりません。
尚「EDO」という単位は ‘Equal-Division of - Octave’ の略称であり、意味としては《オクターヴを等分割》となる物なので、12EDOはオクターヴを12等分している物として示されているのです。
場合に依ってはオクターヴばかりではない等分割という音律体系もあり、特に「1オクターヴ+純正完全五度=Tritave」は音程比として [1:3] を意味している物なので「13ED3」などと示されている時は ’13 equal division of 3’ という事を示しており、’division of 3’ は ‘division of tritave’ とも置き換えられるので「13EDT」とも示される事があります。勿論、この場合は《トリターヴを13等分》という意味になる訳です。
他の例として、204セントという大全音が6つある状況としての6全音を想定した時、この場合はオクターヴである1200セントを超えた1224セントという状況を想定してしまう事となります。
トルコの九分音は大全音を9等分しているのですが、この九分音は53平均律として知られます。6全音×9=54の筈ですが、オクターヴからの余剰分=コンマが九分音の1単位音程として考えられている事により、その余剰分を差し引いた「53」が音律体系の等分を指し示すという事になる訳です。
五分音という音程はディエシスという音程に近似する物で、この音程に近似する音律が31等分平均律です。音律体系の詳述は避けますが、31等分平均律は純正長三度を慮った音律であり、純正完全五度をやや犠牲にしている物です。
31EDOに限らず古典音律は《五度と三度のどちらに重きを置くか!?》という風にして大別させる事ができます。純正完全五度を4回累積させれば、その音程を単音程に転回還元すればピタゴラス長三度を生ずるのであり、純正長三度とは行かない訳です。
和音の重畳しい堆積と純正長三度音程との関係は相反する関係と言っても差し支えないでしょう。なぜなら、四和音の基本形の状態で五度音程は執拗に2組以上累積させる事になります。[ドミソシ] の和音ならば [ド─ソ] [ミ─シ] と生む様に、重畳しい和音では五度音程を多く累積する事となる訳ですから、これらの連鎖から生じる長三度音程の脈絡は純正長三度とは異なる経路を辿る事となります。
純正長三度の響きは、あくまでも長三度が「和声的に」純正に響く為に必要なものであるにしても [ドミソシ] のコード内での [ソ─シ] の長三度音程でも純正長三度音程を求められているのではありません。それは響かせ方が異なる訳であり、純正長三度の響かせ方というのはこうした状況とは丸っ切り異なる物です。
そうした状況に於てはピタゴラス長三度の方が遥かにマシなのでありますが、十把一絡げにはできない問題である事に加え、茲で全てを語る訳にも行かぬ穿鑿事でもあるのがもどかしい所ではあります。
微小音程のひとつであるディエシスは純正長三度×3の音程とオクターヴとの部分超過比としての差異で得られる物であり、エンハーモニックの差異にも用いられる指標としても用いられるもので、それは大ディエシス、小ディエシスとも区別されます。
純正長三度を5等分した物が6組あり、オクターヴとの部分超過比である余剰分が単位音程として加わって31個の単位音程を形成していると思えば判りやすいかと思います。単に12EDOを基準を前提として《なんで五分音は31EDOに括られるのだろう!? 30等分で済むだろ》という風に考えてしまうと陥穽に嵌まるという訳です。
こうして、五分音と31EDOのすり合わせはお判りいただけたかと思いますが、西洋音楽にはもうひとつの難所があり、それが「幹音」の存在です。
幹音というヘプタトニックを想定すると、そこには5つの全音と2つの半音を生じている事が判りますが、2つの半音という存在が五分音にとってはキモなのであり、12EDOを基準とした場合だと2単位五分音と3単位五分音の間に「半音」があるという状況なので、どちらを採って良いのか!? という事になってしまいます。
純然たる五分音(=31EDO)では、2単位五分音を優勢に採るのでありますが、2単位五分音=半音階的半音であり、3単位五分音=全音階的半音であるという重要な差異については、坂本龍一の「participation mystique」について語った記事でも述べた通りです。
例えばIRCAMのOpenMusicに於ける三分音や五分音および十分音などの、半音を不等分に跨ってしまう変化記号の表記対応については上述の記事でも述べているので参考にしていただきたいのですが、「フォト・ムジーク」では十分音(※五分音の分化)も使われているので茲まで執拗に語っているという訳です。
では、「フォト・ムジーク」の楽曲冒頭の3音の微分音はどういう風になっているのかという状況をIRCAMのthe Snail上で確認してみる事にしましょう。下記の動画埋め込み当該箇所でお判りになろうかと思います。
上述の動画サンプル音は正弦波にホワイトノイズを加えた音を用いており、原曲のほぼ1/4のテンポで再生した物をthe Snailで表示させている物です。その後譜例が現れ原テンポで再生されます。
譜例に付記しているセント数の増減値からもお判りになる通り、冒頭3音の1つ目の音が [g] より67セント高となっております。この音は、[gis] から数えて1単位六分音低という風にも捉える事ができますが、私が譜例で微分音を表記する時の大半は幹音から数えて表記しているので、[gis] は幹音ではなく変化音である為、その辺りはあらためてご注意願いたいと思います。
同様に2音目は [g] より41セント高となる音でして、1単位五分音と捉えていただいて構いません。最初の音と2音目の音程差は決してオクターヴではなく「1174セント」セントという差であり、オクターヴよりもコンマ超の音程分低い音となる訳です。
ですので、1174セントという音程を「ほぼ1オクターヴ」という音程と称するには少々大きい差なのであり増七度に近しい「不完全八度」であるという訳です。
同様に3音目は、1音目とも僅かに異なる物で [g] よりも74セント高となっています。これは [gis] よりも26セント低という音でもあるので、[gis] より1単位八分音低という音であり、[g] からは3単位八分音高という風に捉える事が可能な音なのですが、アリストクセノスのハルモニア原論を無視する訳には行かないので、この音程は「ヘーミリオンのクロマティック」と称するのが最も適切であろうかと思います。
2021年10月を基準とする最近の例と比較すればDIALOGUE+1の楽曲「アイガッテ♡ランテ」で用いられた75セント幅の下行進行が矢張りヘーミリオンのクロマティックと称するに相応しい音程であった様に、音痴には聴こえない独特の世界観のある音程だと思っていただければ好いでしょう。
尚、上述の微分音変化記号はOpenMusicに使われる微分音記号であるomicronフォントを用いております。通常の嬰変の変化記号も今回は後述する自然七度を除いてomicronを採用しているのであらためてご容赦下さい。
そうして今回の譜例動画を進めると、AパターンのブリッジからBパターンにかけての譜例を確認する事ができますが、本デモ動画では原譜での「F♯7/E -> E△7」というコード進行を強調した和声付けにしているので、原曲の様にシンセ・ストリングスだけが付点二分音符と四分音符で [cis - dis] とした後に全音符の [cis] という進行だけではないアンサンブルに仕立て上げているので、原曲のみで比較すると違和感を抱かれるでしょうが、その辺りはご容赦願いたいと思います。
譜例動画を更に進めるとBパターンの4小節が現れますが、パート名 ‘Sine + White noise2’ としているそれが、モールス信号の様な微分音のパートであります。これが「自然七度(しぜんしちど)」であるという訳です。
自然七度という音程は [e] 音を基準としている音程であり、「F♯7/E」と表記している上声部側の [fis] を基準としている物ではありません。
抑も茲の「F♯7/E」は「F♯△/E」と形容しても問題はないのであり、ドミナント7thコード系統の響きは希薄であって問題はないのです。
原譜から新たにコード解釈した山下邦彦のコード表記は「F♯7/E -> E△」という風に記されており、その和音構成音そのものがドミナント7thコードの♭Ⅶ度ベースという風に解釈するのは特段間違っている訳ではありません。
コードとしてはドミナント7thコードの第3転回形に等しい状況ともいえる七度音のベースですが、本来持ち来してしまう属和音の響きを暈滃しようとする狙いがあるのは明白であり、最近ではサッフォーの「メティレーヌ」を例に、トニックへ解決しようとするドミナントが執拗に「Ⅴ7/Ⅳ」を墨守してトニック解決直前に「Ⅴ7」の型へと姿を変えるというコード進行を説明しましたが、最も知られている顕著な例はフランキー・ヴァリ(ボーイズ・タウン・ギャングのカヴァーが有名)の「Can't Take My Eyes of You(邦題:君の瞳に恋してる)」のイントロ冒頭の「Ⅴ/Ⅳ」のコードが最もポピュラーな例であろうかと思います。
加えてBパターンでは原調「イ短調」を基準に見立てた時のⅡ度調に転調を経ているのでありますが、実質ロ短調の下属音を掛留させた「Ⅴ7/Ⅳ -> Ⅳ△7」という偽終止を4回繰り返すコード進行であり、原曲オリジナルの方では「Ⅳ△7」の響きを希薄にしてシンセ・ストリングスが補っているという状況が特徴的となっているのです。
そういう状況をあらためて俯瞰すると、ロ短調での下属音 [e] の自然七度が過程のコード進行とは埒外の音脈となる「自然七度」として執拗に鳴らされるというのも特徴的なのであります。
とはいえ、[fis] 音からの基準として見た場合は [fis] からの第21次倍音の鏡像音程と見立てる事が可能な音脈でもあり、[fis] の上方約471セントに現れるのが第21次倍音なのですから、その鏡像としての471セント下方に採った音の近傍と見立てる事が可能なのであります。
加えて [fis] を基とした時の [29/19] の音程比= [d] よりも約67.9セント低く現れる純正音程の近傍でもあるのです。

こうしてロ短調のⅤ度 [fis] はエンハーモニック転調として変ロ短調の♭Ⅵ度 [ges] として転義してCパターンに移行して、変ロ短調はピカルディー終止として「B♭△」として、原調のナポリ調(♭Ⅱ度調)で終止するという訳です。
この終止部の「♭Ⅱ」は、原調=イ短調(Key=Am)がAフリジアンに移旋した時のフリジアン・スーパートニックなのであり、Aフリジアンの♭Ⅱ度=「B♭」という風にも機能しているという訳です。それが「フォト・ムジーク」オリジナルの姿なのです。
縷々語って参りましたが、12EDOとしての半音階を俯瞰しつつ微分音という音脈まで取り込んだ世界観を包摂するという状況を「倍音列」に準則する形であらためて照らし合わせて見る事にしましょう。
まずは半音階という社会を俯瞰する為に、ニコラス・スロニムスキーの 'minor 23rd' コードで対照させる事にしますが、これは芥川也寸志をはじめとする日本の刊行物では「属二十三の和音」という呼称で知られている半音階の総合という総和音の形であります。
本曲Bパターンでの微分音が混ざり合う状況は [e] 音を基準にするのが適切と解釈したので、[e] 音を基準とした属二十三の和音を以下に示してみます。

上述の各構成音に付記された数字は「上方倍音列」の数字を充てております。つまり、低次に「E7」を生じ、[d] をコモン・トーン(=共通音)とした「D7」を形成されている状況に近しくなり、更に上方には「E♭9」を生ずるという風にして解釈する事が可能なのでありまして、「フォト・ムジーク」のBパターンでは、この和音の断片として解釈する事も可能なのであります。
加えて、「E7」を想起するもその七度音は自然七度の体として考えると、「F♯7/E」というコードは、この属二十三の和音の拔萃の姿に過ぎないとも解釈が可能なのであり、こうした因果関係に伴って更に微分音を付加させた状況として解釈可能なのです。
つまり、微分音を付加する世界観は別の音楽的状況のスーパーインポーズなのだという風に解釈すると、付加される3つの微分音は以下の通りの因果関係を伴う事が判ります。
楽曲冒頭で生ずる六分音系列の [g] より67セント高の音は、第26次倍音を「下方倍音列」としての鏡像音程として形成される音脈であります。
同様に、五分音系列の [g] より41セント高の音は、第39次倍音の「上方倍音列」で生ずる音脈となります。
最後に、八分音系列である [g] より74セント高の音は、純正音程「29/18」の鏡像音程という事になるのです。これらの3音は何れも [e] 音を基準に上方/下方倍音列を見出しているものであり、八分音系列のみ、第64次倍音までは生じない単なる純正音程である事を意味しているのです。単に「F♯7/E」という風に、コードの有り体を信頼しきってしまってドミナント7thコードの七度音をベースにした音という風に捉えてしまうと陥穽に嵌まってしまいます。
何故なら、Bパターンでは原調(Key=Am)を基準とした場合のⅡ度調に転調をしているのであり、[e] は新たな調の「下属音」なのです。ところが、その下属音は機能和声的に「下属和音」を形成するのではなく [e] を基準に半音階の「総和音」を標榜する不協和音の断片と考える事が可能なのです。
コード表記の側から「F♯7/E」という状況を愚直なまでに捉えてしまえば、それは単に和音の七度音を根音にしただけの「F♯7」というコードの第3転回形に等しいものとして映ってしまいかねませんが、属和音というものを半音階の総和音の断片として解釈した場合(※不協和音は更なる不協和の断片に過ぎない)、結果的に属二十三の和音は3種類の属和音を包含している状況になる訳です。
即ち、[e] 音を基準とした属二十三の和音を想定するのは、その七度音相当に [d] より31セント低となる自然七度としての音の脈絡を見出す為の基準であり、その [e] 音もまた、属二十三の和音の基本形の根音なのではなく、他の属二十三の和音の断片の連鎖という風に見立てる事が可能なのであります。
つまり、コード表記は [fis] 音を根音とする「F♯7」という状況を示してはいるものの、音響状態を俯瞰して見た場合、[e] 音を基にして倍音および純正音程の因果関係を見出す事が可能であり、コードが「F♯7/E」という七度音を持ち来しているのはこうした状況を見据えて色々な音の脈絡として利用する為の基準になるからであろうというのが今回の解釈なのであります。
そうした属二十三の和音の断片という不協和音上で更なる付加音を呼び込むという状況なのでもあり、付加音は偶々微分音であったという風に捉えると、下属音上での「自由な」音脈形成の示唆がお判りになろうと思います。
いずれにせよ、平易に聴こえる音楽でもこれだけの謎めいた音を鏤める坂本龍一の凄さをあらためて思い知るという訳です。

古きYMOファンの間では知れ渡っている事実でありますが、YMOファンの多くは「コンピューターおばあちゃん」よりもNHK-FMでの坂本龍一がDJを務める『サウンド・ストリート』の初期オープニングテーマ曲「フォト・ムジーク」という曲がB面収録となっている事を目当てにしており、81年当初リリースの盤は希少価値の高さも手伝ってクローズアップされているという物です。
坂本龍一がDJを務めるNHK-FM『サウンド・ストリート』は1981年4月7日から放送が開始され、番組開始当初から使われていたオープニング・テーマ曲が『フォト・ムジーク』であったという訳です。そのほんの2週間程前にはYMOのアルバム『BGM』が発売となっていた時期であります。
私自身、坂本龍一の発言には非常に注目しておりましたので不定期乍らも「サウンド・ストリート」は度々エアチェックして聴いていたもので、番組後期では坂本自身が
《もう何度目ですかね!? 「フォト・ムジーク」のリクエストは。コレが最後ですよ!!》
という言葉を耳にしたくらいで、たぶん3回位「フォト・ムジーク」は放送されたのではないかと思います。
その後のオープニング曲は『両眼微笑』の方が放送期間が長かったと思いますし、YMOファンには低年齢の人々も多かった事もあって、オーディオ周辺機器の所有や知識に脆弱な人が或る一定以上の録音環境を整備した時には番組のオープニング曲が変わってしまっていたという状況が齎した要望の声であったろうと推察します。
私の周囲でも、知人の甥っ子が高校入学祝いでプロフェット5やARPオデッセイを買ってもらっていた話とか舞い込んで来ておりましたからね……。
幼い(いとけない)ファンの醸成を俟つ頃にはYMOの活動自体が乏しくなっていったというのが悲哀なる現実だった事でしょう。YMOへの過剰なまでの過熱が収まりつつある頃に坂本龍一がラジオでの活動を繰り広げるという姿勢は、YMOとは異なる姿勢をアピールしたかった狙いがあっての事だったろうと思います。それでも大半のファンはYMOに準則する姿勢を期待していたとは思うのですが。
そうした時期にポツンと存在していた「フォト・ムジーク」という物は収録音源そのものが希少で、ややもすればシングル盤のみで発売されていた「War Head / Lexington Queen」(1980年7月21日発売)や「Front Line / Happy End」(1981年4月21日発売)にも似た存在として受け止められていたかもしれません。
そうして何度か「フォト・ムジーク」は番組内で流され、それ以前の放送でもエア・チェックする機会を逸した人達に向けてのサービスだったのであろうと思いますが、坂本龍一の作品としては曲調はかなり卑近(ベタ)な出来ではあろうとは思います。
フラット・メディアント(=短調の自然六度=♭Ⅵ度)がやけに耳に付くのが卑近に聴こえてしまう最大の要因なのではありますが、その後Aテーマはブリッジ部からBテーマにかけて奇を衒う様な部分転調が坂本龍一「らしさ」を垣間見せる物であり、ベタな響きに甘受していたら予想を覆す美味しいハーモニーを味わえるかとばかりの転調感に心酔している人が多いのであろうと思います。
ご存知の通り、短調の自然六度というのは属音に対して下行導音という重力が働く音ですので、属音への喚起および属和音への導引という、音楽的見通しの判りやすさを示唆しやすい振る舞いとなる物です。それでも坂本龍一らしい進行を忍ばせているのは言わずもがなでありましょう。
また「フォト・ムジーク」がYMOの変遷期に位置する楽曲という事も手伝って、YMOファンは自身の隷従と思い出を投影し乍らより一層自身の郷愁を増幅させているのであろうと思います。
私がこの作品を感得するに当たって「遉、坂本龍一だ」と思わせる音が冒頭のホワイトノイズ混じりの3音の音です。これらの音は楽曲全編に亘って用いられておりますが、3音の何れもが微分音だという実際です。
本曲は山下邦彦編著『坂本龍一の音楽』の341〜343頁にて原譜と共に語られてはおりますが原譜とオリジナル作品と比べても、16分音符のシークエンス・フレーズは二声で想起されていたのだなという状況があらためて判るもので、実際の作品はだいぶ削ぎ落としてアレンジしたのだという事を実感します。
とはいえ楽曲冒頭の微分音というのは原譜にも書かれておらず、ホワイトノイズの配合も書き込まれておりません。加えて山下邦彦は「フォト・ムジーク」を ‘Photo Musik’ と書いてしまっておりますが、これは ‘Foto Musik’ が正しい表記となります。
まあ私などバロム1を存分に堪能した世代でもあってドイツ語など意識の外にある様な存在でしたので、「フォト・ムジーク」という言葉をラジオで聴いても「フォトム・ジーク」だとばかり思っていた様な浅学野郎でしたので、聴き慣れぬ横文字には《まあ、バロム1の造語みたいなモンなのかもしれない》とばかりに全く拘泥していなかった莫迦野郎であったワケです。
’Foto’ を ‘Photo’ と間違えている程度なら許容できる瑣末事であろうとも思えるのですが、拘る方も居られるでしょうから一応話のネタついでに語っておきました。
扨て、話を微分音に戻しますが、微分音を実際に使用しているというこの事実を私の周囲のYMOファンに言った時は大層驚かれた物でした。まあ、こう言ってしまうのは何ですが、坂本ファンの多くは坂本龍一を隅々まで好んでいるクセして微分音には全く無頓着という者があまりに多過ぎるという点はついつい嘆息してしまう所。微分音の話題を出しても、私の方が懐疑的に思われてしまう事多数です(笑)。
先の冒頭のSEを、よもや微分音とも思ってはいなかったというのも驚きなのでありますが、私個人としては《嗟哉、みんなベタな曲想に騙されているんだな》と思ったものでした。
そうした状況を言い換えるとすれば《卑近な状況が難しい音に親近感を持たせている》とも考えられるので、あらためて坂本龍一の狙いというものが朧げ乍らもお判りになるかと思います。
坂本龍一は初期作品『千のナイフ』の頃から顕著に微分音を使用(「Das Neue Japanische Elektronische Volkslied」のイントロなど)していたので「フォト・ムジーク」でそうした試みがあっても何ら驚くべき事ではないのですが、十二等分平均律(=12EDO)から逸れた音ならば余計に目立つであろうという様な楽曲で用いる所もあらためて凄さを感じる事が出来るかと思います。
思えば、YMOの1stアルバム『Yellow Magic Orchestra』の頃でも特に顕著な微分音の使用例となるのが「Bridge Over Troubled Music」で用いられる八分音と四分音でありますから、こうした初期作品からCV/GATE値を駆使していた事が判ります。
氏の微分音使用に於ては私のブログの過去記事で何度か取り上げているので、ブログ内検索をかけていただければ当該ブログ記事を多数引いて来れると思いますのであらためて参考にしていただければ幸いなのでありますが、扨て「コンピューターおばあちゃん」というのが何故YMOファンに注目されるのかという所にスポットを当ててみようと思います。
品番ETP-17271「コンピューターおばあちゃん」の発売日は1981年12月1日であります(※本記事冒頭の画像はPROT-7157のもの)。
以降、CD化されたのはテクノ歌謡と8枚組CD『J-ROCK 80’s』のみという事ですから、希少性の高さがあらためて窺えます。私自身は『J-ROCK 80’s』の方しか所有してはいないので画像は『J-ROCK 80’s』のVol.8のみ紹介する事に。

YMOのアルバム『テクノデリック』の発売日(1981年11月21日)と同時期である事に加え、ビートニクス(高橋幸宏&鈴木慶一)の『出口主義』が同年12月5日と立て続けに発売されており、これらのアルバムは何れもハードなテクノ路線であります。
高橋幸宏に関しては同年6月5日に自身のソロ・アルバム『ニウロマンティック』をリリースしており、TBS系列のドラマ『2年B組仙八先生』の第15話にて高橋幸宏「Drip Dry Eyes」が番組内のBGMとして使われていた事が今となっては40年前の事となるのですから隔世の感があります。
同年3月に発売されたアルバム『BGM』以降、YMOはかなり路線を変更してマニアックなアルバム作りを企図していた流れに逆行するかの様なコミカルなシングル盤は、当時のYMOファンからも遠ざけられていたのではなかろうかと思います。
同年2月21日には『スネークマンショー 急いで口で吸え』がリリースされており、モノラル版である「磁性紀─開け心」が収録されていた物でした。大方の期待を裏切り、アルバム『BGM』収録とはならず、そうした状況をあざ笑うかの様にTV-CMではフジカセットのCMとしてYMOのCMがバンバン流れていたという皮肉な状況でもありました。

私個人は、YMOオタクと形容するまでのスタンスではありませんでしたが、坂本龍一の『サウンド・ストリート』は非常に注目していたので、YMO関連のレコードの類はソコソコ情報を掴んではいたものの、総じて収集するという程ではありませんでした。
私の様な人が収集し損ね、後に《B面に「フォト・ムジーク」が収録されている》事が広く知られる様になった頃には時既に遅しという風にして、盤そのものを入手する事すら難しくなったのであろうと思います。
私の周囲には、私よりも遥かにYMOをこよなく愛する人間が数十人は存在しておりましたが、「コンピューターおばあちゃん」も手堅く収集していたのはほんの数人しか居なかった程でした。まさか後に、「コンピューターおばあちゃん」の発売日が私の長女の誕生日になるとは当時は思いにもよりませんでしたが(笑)。
扨て、本曲「フォト・ムジーク」の微分音について語って行こうと思いますが、この曲は結構厄介です。二重付点四分音符のメロディー部をAパターンと仮定し、その後のモールス信号の様なホワイトノイズ混じりのパターン4小節をBパターン、直後のエンハーモニック転調で「G♭△7」へ進行する箇所をCパターン、「B♭」のピカルディー終止部分を Dパターンとすると、Dパターンでのモールス信号の様な音は1単位十分音ほどピッチが落ちます。
十分音の単位音程の理論値は20セントです。Dパターンでのモールス信号の様な [b・d] の2音は何れも19セント下げというのが実際です。
私はB〜Cパターンでのアンサンブルのピッチ変化は微分音として捉えてはいません。四分音符で奏される主旋律は高めに採られておりますが、私はこの高めのピッチはEventideのH949に似る音色変化と捉えております。
微分音を語る時に「n分音」という呼ばれ方をする事がありますが、これは全音音程の分割数を指しております。つまり、上述の十分音は全音を10等分しているという状況を指している訳ですが、十分音は五分音を更に細分化された体系であり、五分音の原点は31等分平均律から生じている物です。
全音音程を語る際、今でこそ十二等分平均律(12EDO)という音楽的状況がある事に依りそうした多くの状況下に於ける全音音程のサイズは200セントであるのですが、微分音や古典調律を前提とした時の全音音程のサイズは場合に依っては「大全音=204セント」という状況を視野に入れる必要がある事を忘れてはなりません。
尚「EDO」という単位は ‘Equal-Division of - Octave’ の略称であり、意味としては《オクターヴを等分割》となる物なので、12EDOはオクターヴを12等分している物として示されているのです。
場合に依ってはオクターヴばかりではない等分割という音律体系もあり、特に「1オクターヴ+純正完全五度=Tritave」は音程比として [1:3] を意味している物なので「13ED3」などと示されている時は ’13 equal division of 3’ という事を示しており、’division of 3’ は ‘division of tritave’ とも置き換えられるので「13EDT」とも示される事があります。勿論、この場合は《トリターヴを13等分》という意味になる訳です。
他の例として、204セントという大全音が6つある状況としての6全音を想定した時、この場合はオクターヴである1200セントを超えた1224セントという状況を想定してしまう事となります。
トルコの九分音は大全音を9等分しているのですが、この九分音は53平均律として知られます。6全音×9=54の筈ですが、オクターヴからの余剰分=コンマが九分音の1単位音程として考えられている事により、その余剰分を差し引いた「53」が音律体系の等分を指し示すという事になる訳です。
五分音という音程はディエシスという音程に近似する物で、この音程に近似する音律が31等分平均律です。音律体系の詳述は避けますが、31等分平均律は純正長三度を慮った音律であり、純正完全五度をやや犠牲にしている物です。
31EDOに限らず古典音律は《五度と三度のどちらに重きを置くか!?》という風にして大別させる事ができます。純正完全五度を4回累積させれば、その音程を単音程に転回還元すればピタゴラス長三度を生ずるのであり、純正長三度とは行かない訳です。
和音の重畳しい堆積と純正長三度音程との関係は相反する関係と言っても差し支えないでしょう。なぜなら、四和音の基本形の状態で五度音程は執拗に2組以上累積させる事になります。[ドミソシ] の和音ならば [ド─ソ] [ミ─シ] と生む様に、重畳しい和音では五度音程を多く累積する事となる訳ですから、これらの連鎖から生じる長三度音程の脈絡は純正長三度とは異なる経路を辿る事となります。
純正長三度の響きは、あくまでも長三度が「和声的に」純正に響く為に必要なものであるにしても [ドミソシ] のコード内での [ソ─シ] の長三度音程でも純正長三度音程を求められているのではありません。それは響かせ方が異なる訳であり、純正長三度の響かせ方というのはこうした状況とは丸っ切り異なる物です。
そうした状況に於てはピタゴラス長三度の方が遥かにマシなのでありますが、十把一絡げにはできない問題である事に加え、茲で全てを語る訳にも行かぬ穿鑿事でもあるのがもどかしい所ではあります。
微小音程のひとつであるディエシスは純正長三度×3の音程とオクターヴとの部分超過比としての差異で得られる物であり、エンハーモニックの差異にも用いられる指標としても用いられるもので、それは大ディエシス、小ディエシスとも区別されます。
純正長三度を5等分した物が6組あり、オクターヴとの部分超過比である余剰分が単位音程として加わって31個の単位音程を形成していると思えば判りやすいかと思います。単に12EDOを基準を前提として《なんで五分音は31EDOに括られるのだろう!? 30等分で済むだろ》という風に考えてしまうと陥穽に嵌まるという訳です。
こうして、五分音と31EDOのすり合わせはお判りいただけたかと思いますが、西洋音楽にはもうひとつの難所があり、それが「幹音」の存在です。
幹音というヘプタトニックを想定すると、そこには5つの全音と2つの半音を生じている事が判りますが、2つの半音という存在が五分音にとってはキモなのであり、12EDOを基準とした場合だと2単位五分音と3単位五分音の間に「半音」があるという状況なので、どちらを採って良いのか!? という事になってしまいます。
純然たる五分音(=31EDO)では、2単位五分音を優勢に採るのでありますが、2単位五分音=半音階的半音であり、3単位五分音=全音階的半音であるという重要な差異については、坂本龍一の「participation mystique」について語った記事でも述べた通りです。
例えばIRCAMのOpenMusicに於ける三分音や五分音および十分音などの、半音を不等分に跨ってしまう変化記号の表記対応については上述の記事でも述べているので参考にしていただきたいのですが、「フォト・ムジーク」では十分音(※五分音の分化)も使われているので茲まで執拗に語っているという訳です。
では、「フォト・ムジーク」の楽曲冒頭の3音の微分音はどういう風になっているのかという状況をIRCAMのthe Snail上で確認してみる事にしましょう。下記の動画埋め込み当該箇所でお判りになろうかと思います。
上述の動画サンプル音は正弦波にホワイトノイズを加えた音を用いており、原曲のほぼ1/4のテンポで再生した物をthe Snailで表示させている物です。その後譜例が現れ原テンポで再生されます。
譜例に付記しているセント数の増減値からもお判りになる通り、冒頭3音の1つ目の音が [g] より67セント高となっております。この音は、[gis] から数えて1単位六分音低という風にも捉える事ができますが、私が譜例で微分音を表記する時の大半は幹音から数えて表記しているので、[gis] は幹音ではなく変化音である為、その辺りはあらためてご注意願いたいと思います。
同様に2音目は [g] より41セント高となる音でして、1単位五分音と捉えていただいて構いません。最初の音と2音目の音程差は決してオクターヴではなく「1174セント」セントという差であり、オクターヴよりもコンマ超の音程分低い音となる訳です。
ですので、1174セントという音程を「ほぼ1オクターヴ」という音程と称するには少々大きい差なのであり増七度に近しい「不完全八度」であるという訳です。
同様に3音目は、1音目とも僅かに異なる物で [g] よりも74セント高となっています。これは [gis] よりも26セント低という音でもあるので、[gis] より1単位八分音低という音であり、[g] からは3単位八分音高という風に捉える事が可能な音なのですが、アリストクセノスのハルモニア原論を無視する訳には行かないので、この音程は「ヘーミリオンのクロマティック」と称するのが最も適切であろうかと思います。
2021年10月を基準とする最近の例と比較すればDIALOGUE+1の楽曲「アイガッテ♡ランテ」で用いられた75セント幅の下行進行が矢張りヘーミリオンのクロマティックと称するに相応しい音程であった様に、音痴には聴こえない独特の世界観のある音程だと思っていただければ好いでしょう。
尚、上述の微分音変化記号はOpenMusicに使われる微分音記号であるomicronフォントを用いております。通常の嬰変の変化記号も今回は後述する自然七度を除いてomicronを採用しているのであらためてご容赦下さい。
そうして今回の譜例動画を進めると、AパターンのブリッジからBパターンにかけての譜例を確認する事ができますが、本デモ動画では原譜での「F♯7/E -> E△7」というコード進行を強調した和声付けにしているので、原曲の様にシンセ・ストリングスだけが付点二分音符と四分音符で [cis - dis] とした後に全音符の [cis] という進行だけではないアンサンブルに仕立て上げているので、原曲のみで比較すると違和感を抱かれるでしょうが、その辺りはご容赦願いたいと思います。
譜例動画を更に進めるとBパターンの4小節が現れますが、パート名 ‘Sine + White noise2’ としているそれが、モールス信号の様な微分音のパートであります。これが「自然七度(しぜんしちど)」であるという訳です。
自然七度という音程は [e] 音を基準としている音程であり、「F♯7/E」と表記している上声部側の [fis] を基準としている物ではありません。
抑も茲の「F♯7/E」は「F♯△/E」と形容しても問題はないのであり、ドミナント7thコード系統の響きは希薄であって問題はないのです。
原譜から新たにコード解釈した山下邦彦のコード表記は「F♯7/E -> E△」という風に記されており、その和音構成音そのものがドミナント7thコードの♭Ⅶ度ベースという風に解釈するのは特段間違っている訳ではありません。
コードとしてはドミナント7thコードの第3転回形に等しい状況ともいえる七度音のベースですが、本来持ち来してしまう属和音の響きを暈滃しようとする狙いがあるのは明白であり、最近ではサッフォーの「メティレーヌ」を例に、トニックへ解決しようとするドミナントが執拗に「Ⅴ7/Ⅳ」を墨守してトニック解決直前に「Ⅴ7」の型へと姿を変えるというコード進行を説明しましたが、最も知られている顕著な例はフランキー・ヴァリ(ボーイズ・タウン・ギャングのカヴァーが有名)の「Can't Take My Eyes of You(邦題:君の瞳に恋してる)」のイントロ冒頭の「Ⅴ/Ⅳ」のコードが最もポピュラーな例であろうかと思います。
加えてBパターンでは原調「イ短調」を基準に見立てた時のⅡ度調に転調を経ているのでありますが、実質ロ短調の下属音を掛留させた「Ⅴ7/Ⅳ -> Ⅳ△7」という偽終止を4回繰り返すコード進行であり、原曲オリジナルの方では「Ⅳ△7」の響きを希薄にしてシンセ・ストリングスが補っているという状況が特徴的となっているのです。
そういう状況をあらためて俯瞰すると、ロ短調での下属音 [e] の自然七度が過程のコード進行とは埒外の音脈となる「自然七度」として執拗に鳴らされるというのも特徴的なのであります。
とはいえ、[fis] 音からの基準として見た場合は [fis] からの第21次倍音の鏡像音程と見立てる事が可能な音脈でもあり、[fis] の上方約471セントに現れるのが第21次倍音なのですから、その鏡像としての471セント下方に採った音の近傍と見立てる事が可能なのであります。
加えて [fis] を基とした時の [29/19] の音程比= [d] よりも約67.9セント低く現れる純正音程の近傍でもあるのです。

こうしてロ短調のⅤ度 [fis] はエンハーモニック転調として変ロ短調の♭Ⅵ度 [ges] として転義してCパターンに移行して、変ロ短調はピカルディー終止として「B♭△」として、原調のナポリ調(♭Ⅱ度調)で終止するという訳です。
この終止部の「♭Ⅱ」は、原調=イ短調(Key=Am)がAフリジアンに移旋した時のフリジアン・スーパートニックなのであり、Aフリジアンの♭Ⅱ度=「B♭」という風にも機能しているという訳です。それが「フォト・ムジーク」オリジナルの姿なのです。
縷々語って参りましたが、12EDOとしての半音階を俯瞰しつつ微分音という音脈まで取り込んだ世界観を包摂するという状況を「倍音列」に準則する形であらためて照らし合わせて見る事にしましょう。
まずは半音階という社会を俯瞰する為に、ニコラス・スロニムスキーの 'minor 23rd' コードで対照させる事にしますが、これは芥川也寸志をはじめとする日本の刊行物では「属二十三の和音」という呼称で知られている半音階の総合という総和音の形であります。
本曲Bパターンでの微分音が混ざり合う状況は [e] 音を基準にするのが適切と解釈したので、[e] 音を基準とした属二十三の和音を以下に示してみます。

上述の各構成音に付記された数字は「上方倍音列」の数字を充てております。つまり、低次に「E7」を生じ、[d] をコモン・トーン(=共通音)とした「D7」を形成されている状況に近しくなり、更に上方には「E♭9」を生ずるという風にして解釈する事が可能なのでありまして、「フォト・ムジーク」のBパターンでは、この和音の断片として解釈する事も可能なのであります。
加えて、「E7」を想起するもその七度音は自然七度の体として考えると、「F♯7/E」というコードは、この属二十三の和音の拔萃の姿に過ぎないとも解釈が可能なのであり、こうした因果関係に伴って更に微分音を付加させた状況として解釈可能なのです。
つまり、微分音を付加する世界観は別の音楽的状況のスーパーインポーズなのだという風に解釈すると、付加される3つの微分音は以下の通りの因果関係を伴う事が判ります。
楽曲冒頭で生ずる六分音系列の [g] より67セント高の音は、第26次倍音を「下方倍音列」としての鏡像音程として形成される音脈であります。
同様に、五分音系列の [g] より41セント高の音は、第39次倍音の「上方倍音列」で生ずる音脈となります。
最後に、八分音系列である [g] より74セント高の音は、純正音程「29/18」の鏡像音程という事になるのです。これらの3音は何れも [e] 音を基準に上方/下方倍音列を見出しているものであり、八分音系列のみ、第64次倍音までは生じない単なる純正音程である事を意味しているのです。単に「F♯7/E」という風に、コードの有り体を信頼しきってしまってドミナント7thコードの七度音をベースにした音という風に捉えてしまうと陥穽に嵌まってしまいます。
何故なら、Bパターンでは原調(Key=Am)を基準とした場合のⅡ度調に転調をしているのであり、[e] は新たな調の「下属音」なのです。ところが、その下属音は機能和声的に「下属和音」を形成するのではなく [e] を基準に半音階の「総和音」を標榜する不協和音の断片と考える事が可能なのです。
コード表記の側から「F♯7/E」という状況を愚直なまでに捉えてしまえば、それは単に和音の七度音を根音にしただけの「F♯7」というコードの第3転回形に等しいものとして映ってしまいかねませんが、属和音というものを半音階の総和音の断片として解釈した場合(※不協和音は更なる不協和の断片に過ぎない)、結果的に属二十三の和音は3種類の属和音を包含している状況になる訳です。
即ち、[e] 音を基準とした属二十三の和音を想定するのは、その七度音相当に [d] より31セント低となる自然七度としての音の脈絡を見出す為の基準であり、その [e] 音もまた、属二十三の和音の基本形の根音なのではなく、他の属二十三の和音の断片の連鎖という風に見立てる事が可能なのであります。
つまり、コード表記は [fis] 音を根音とする「F♯7」という状況を示してはいるものの、音響状態を俯瞰して見た場合、[e] 音を基にして倍音および純正音程の因果関係を見出す事が可能であり、コードが「F♯7/E」という七度音を持ち来しているのはこうした状況を見据えて色々な音の脈絡として利用する為の基準になるからであろうというのが今回の解釈なのであります。
そうした属二十三の和音の断片という不協和音上で更なる付加音を呼び込むという状況なのでもあり、付加音は偶々微分音であったという風に捉えると、下属音上での「自由な」音脈形成の示唆がお判りになろうと思います。
いずれにせよ、平易に聴こえる音楽でもこれだけの謎めいた音を鏤める坂本龍一の凄さをあらためて思い知るという訳です。