フーガに見る変応──ジャズ/ブルースの6度
ジャズ/ブルースでの平行四度/五度のオルガヌムで生ずるオルタレーションを今一度確認する時、それを西洋音楽界隈にて対照すると、対位法におけるフーガの書法の一つである「変応」という技法が、西洋音楽界隈では線の動きが原調の三全音の箇所で変位を起こすのは対斜を避けるが故の巧妙な変化である訳ですが、その変応というのは、ジャズ/ポピュラー界隈でのモード奏法に置き換える事は到底できぬ物です。リディア調かと思いきやまた原調を用いた線が出て来たり、ミクソリディアの線も生まれたりなど、こうした局面というのは、ジャズ/ポピュラー界隈に於てはジェントル・ジャイアントのアルバム『Interview』収録の「Design」を聴けば直ぐにそれがお判りいただける事でしょう。
当該部は2:47〜3:39。詳細記事はこちら
微小音程の知覚
扨て、多彩な「オルタレーション」という変化というのは、それそのものが半音階的に変化するばかりでなく、微小音程的変化も含んだ上での「変位」を表わしている物です。
そうした微小音程には無自覚に、我々は調性体系を甘受している訳ですが、例えば五度圏に於て属調方面の転調を際限なく繰返していった場合、転調の際に純正音程ばかりで採ってしまうと、属調への転調1回毎に2セント弱ズレてしまう訳ですが、この手の微小音程に無頓着であるが為に、累積していった時にやっと大きなズレに気が付くというのは単なる詭弁でしかありません。微小音程に気付かないのであれば調弦すら出来ませんし、シントニック・コンマもズレた世界でもきっと許容していた事でしょう(笑)。
アロイス・ハーバの四分音律(=24EDO)の特徴的な側面のひとつに、24EDOでの「五度圏」というのは完全五度の累積ではなく中立五度で調域が変わるのであるのが興味深い所です。12等分平均律の五度圏というのは700セントずつ変わっていく訳ですが、ハーバの四分音律というのは650セントずつ採って24個の調性を一周するのです。
先行の和音の根音を後続和音の上音へ取り込む、という和音進行の大原則を、24EDOにて体現してみましょうか。その際アンサンブルに附与する和音は原始的な普遍和音ではなく、勿論不協和音での進行なので機能和声的な進行感を演出する程でもありませんが、次の様なサンプルを聴いてみる事にしましょう。これについては後ほどあらためて解説するので、音そのものに多少の違和感はあれど、それほど強い忌避を覚える程の物でもなく受け入れる事が可能な感じには聴こえてくれていると信じて已みません(笑)。
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
この様に話を進めて行く上で、主音と完全五度関係にある「属音」という位置を少しずつ暈したり、叛いたりという風にも或る意味では捉える事が出来るかもしれません。
調性感という物は基本的には主音に対する属音が鎮座しており、それらの二つをどのような角度から見るかによって音楽の情感が変わる物でありますが、主音が絶対なのではなく属音が絶対であるという風に捉えると良いと思います。何故なら先にも述べた様に、倍音を含んだ音であるならば、単音をハ長調で奏した時の「ド」にも上方倍音列には調性から大きく外れた第7倍音やらも実際には倍音として含んでいる訳です(ピアノは意図的にフェルトがピアノ線に当る位置を調整していて第7〜第9次倍音が如実に出ない様にしています)。
「レ」を鳴らせば純正長三度の音を含んでいる訳で、ダイアトニック・コードから見ればD音を根音とするコードはマイナー種であって然るべきですが、倍音構造上としてはメジャーに相当する稍低めのF♯を含んでいる訳です。ですが、調性というのはそうした属音以外にも一様にして同様の倍音列が均されようとも瑣末な現象として脳が棄却している様なもので、「属音を属音として聴く」つまり、主音から完全五度隔てた音は自然倍音列と合致する時に「属音」の権威を与えられるという事であり、属音にそうした因果関係があるのです。
予見を避ける音楽の例証
とはいえ、非機能的と言える和声の社会では、予見の容易い属音が「見え見え」の状態を忌避する事もあります。その「水臭さ」とも形容し得る世界感を暈したりする事で生硬な響きを求められる様にもなったというのも先述の通り。
五度を叛く事で五度を微小音程的に叛く事もあれば、五度ではなく「四度」を使う事もある訳です。アフリカの特定の民族が上方に平行四度のオルガヌムを唄った事の何が凄いのか!?という事を今一度詳しく語ってみると、これまで示した物の含意をあらためて深く吟味出来る事でしょう。
完全四度音程は、ヒンデミットも音程根音に於て上方の音が優位にあるとしてしています。マックス・ヴェーバーも同様に上方の音を優位としている訳ですが、例えば完全四度音程と完全五度音程ではどちらに優位性があるか!?という事は次の譜例にて直ぐにお判りいただけるでしょう。
譜例左は下声部に対して上方に完全四度を採っており、各声部は夫々自然倍音列の基音〜第6次倍音までを表わしています。
然し乍ら完全四度音程側を下声部と同列の整数比で表わす事が出来ない為、上方にある完全四度の側の基音を「4」と見做した時、下声部は「3」から開始されるという風に見做して対照させる事にしましょう。すると、リップス/マイヤーの法則を茲であらためて確認する事が可能となるのですが、音程的に優位なのは「2のn乗」が生ずる音列側に「調的な重力」を生ずる事でもあるので、自ずと完全四度の側は上方音列が優位にある事がこれにてお判りになるかと思います。
詳述ブログ記事はこちら
他方、譜例右の完全五度で採る音列の側の上声部というのは、その基音は、下声部が1である時、3から整数倍させた物でしかないので、上声部の倍音列の数字を見てみると「2のn乗」という整列された数字は現われる事はなく、優位的になるのは下声部になるという事があらためてお判りになるかと思います。
平行五度/四度オルガヌムの真髄
これらを踏まえると、アフリカの一部の民族が上方に完全四度平行オルガヌムで採るという事が、基にある声部を如何にして高次な物として捉えているのか、という事が良く判ります。
単純に倍音列を列べても基の音列を3倍に見立てなければ現われない音脈なのですから。極言すれば、ハ長調の音組織を聴き乍ら完全四度平行オルガヌムにてヘ長調を強行させる複調を何食わぬ顔をして平然と唄い上げている事に変りないのですから。
こうした事実を受け止め、あらためて完全四度の音脈を作り上げるという事が、単に上方に備わる倍音の因果関係ではなく、自身の音(=任意の音から完全四度離れたターゲット・ノート)の振る舞いの正当性の為に、基の音の「比率」という基準を変える(変えざるを得ない)という見方こそが、音程に対して感覚を鋭敏にしている表れであると言えるのであります。
音程を鋭敏に捉えるという事に加え、協和感として強く伴わせる完全音程/不完全協和音程に対する「暈滃」という側面も、協和音を暈して聴いて、不協和音を鋭敏に聴くという風に人間の思考が先鋭化するからこそ生ずる世界観なのであります。
処が、和声的感覚が未習熟であるにも拘らず、音の体得の経験が浅い(または無い)ままにして本だけを読み漁って響きを得ようとするのは無理難題である事でしょう。また、紙に書いただけの音を脳裡に描ける能力を持つ人は、和声的感覚の体得など疾っくに備えている筈であり、和音体得云々で苦悩していたりはしない事でしょう。
そこで西洋音楽にて重視される協和/不協和という物をざっくりとジャズ/ポピュラー界隈と対照させる場合、ジャズでのセクショナル・ハーモニーを対位法と対照させると如実に露になります。
セクショナル・ハーモニーの醍醐味は並進行に依る重畳しいハーモニーです。モード・スケールに準えた音組織でハーモニーを形成しますが、一つ一つの音に対して和音状態となってはいても、それらは細かなコード進行となっているのではなく、一定の拍または一定の小節区間内で俯瞰した場合、最高音度として13度の和音を分解して形成している様な物になるのです。
他方、対位法の場合は3度のハーモニーを形成しての並進行というのは避けられます。なぜなら三度で積まれる二声部にて長三度音程が連続する際(この時点で長三度音程=二全音)、次に全音音程で順次進行すれば自ずと次の音度で三全音を形成する為、前後の音にて対斜が起こります。
これを避ける様にして巧みに変応させる手段もありますが、ヘクサコルドで留めたりという風にも形成されたりするのです。そういう意味ではジャズのセクショナルのそれは非常に柔軟に、過程の不協和/協和を扱っている訳ですが、大抵のケースはジャズでは不協和であり、「協和」が齎す物は、調性感を強く感じるドミナントまたはトニック感の要素が強いシーンの時であり、それらのシーンですら実際には和音としてはかなり粉飾して重畳しいコードに仕立てているので、響きは生硬なのです。基本的に対位法の場合、最小の二声で如何にして発展させるかという事が基本にあるのですが、先のジャズの原始的なそれの平行四度オルガヌムにも音脈としては相通ずる所もあるのですが、音脈として共通する部分と、両者の異なる部分という物がどういう物かを朧げ乍らに読んでいた人はこうしてお判りになったかと思います。
不協和の知覚
例えば、SDのメンバーの一人ドナルド・フェイゲンのソロ・アルバム『The Nightfly』収録の「Maxine」のAメロ冒頭のコードは《C♯m7(♭5)》というハーフ・ディミニッシュですから、この和音自体が既に三全音を包含している事は明々白々である訳でして、その上コーラスのラインはセクショナルで組まれている(徹頭徹尾セクショナルで組んでいる訳ではない)のでありまして、よもや予見の楽な協和感の世界からすればその取扱いこそが異端でしょうが、ジャズ・ハーモニーとは得てしてこういう物です。不協和の次には必ず協和があるという風に、直ぐに息切れを起こして羽を休めたいかの様に音楽を聴いてしまっている事こそが習熟に甘いと謂わざるを得ません。
原曲はこちら
また、ハーフ・ディミニッシュが不協和音で有り乍らも後続和音が「協和の標榜」と為すべく物でもないのがジャズ系統のハーモニーの醍醐味であり、「Maxine」の後続和音はC9(♯11)という風に、ジャズのコード進行というのはなかなか協和音という物が現われないのも特徴の一つです。勿論、そうした響きの中に協和感を示す「線」となる音は存在しているのですけれどもね。単にコード種を覚えるだけで手一杯で肝心の響きを体得していない人の場合、いざこうした生硬なハーモニーが形成されると、耳の能力も形成されていないでしょうから、音楽の線と音を読み取れぬまま、単に響きが生硬で混濁しただけの音と捉えてしまいがちで、況してや己の未習熟な能力を棚上げして音楽の方面を断罪するというのは能く見掛ける物でもあります。
トリスタン和音の多義的解釈
ハーフ・ディミニッシュにしても、それを単にハーフ・ディミニッシュという型という和音としてだけで見立ててしまうと、世俗音楽界隈しか知らぬ者が皮相的にトリスタン和音と見做しかねないとんでもない近視眼的理解であるのですが、実はトリスタン和音というのはジャン゠ジャック・ナティエ著『音楽記号学』でも取り上げられる訳ですが、希代の大家33人に依る33様の和音解釈を取り上げている大変貴重な資料でもあります。
3度音程の堆積として単音程に転回してしまえばそれこそ世俗音楽界隈の体系であるハーフ・ディミニッシュに過ぎないそれが何故それほどの解釈があるのか!?というと、それは「不協和」に対しての解釈ひとつを採っても同じ様に捉えていないからであります。
こういう側面を鑑みても音楽とは協和/不協和という二義的な構造に別ける事は難しい物である訳です。誰もが思い浮かべる共通認識としての標榜(=概ねそれは調性にある主音と属音)を直視するという世界観で作品を構築しているならば、音楽的な答が一義的に見えてしまうような世界感でも充分というシーンはあるでしょうが、音楽というのは決して一義的ではないという事が、不協和音という物を巧緻に活用する事であらためて能く判る物でもあるのです。
付加六ふたたび
次の話題は属音を暈滃する策としての付加六度です。以前に6thコードの取扱い方を取り上げた時、その上行限定進行音に関してみっちりと指摘しましたが、西洋音楽にて付加六度が出来た背景というのを茲で少しだけ補足して語っておきますが、嘗てジャン=フィリップ・ラモーがⅣ→Ⅰへの進行に対して整合性を持たせる為でもあったのです。
シャイエはその後(この時点で20世紀後半です)ラモーは何故附加四度を体系化しなかったのだろうと歎息するのでありますが、西洋音楽界隈ではその後ラモーの門下にあったダランベールがラモーと袂別し反旗を翻してルソー等に寄り添った独自の和声論(ラモーの解釈を棄却する様に)を唱えたりもしていますが、その後時代はどちらを選んだかと謂えば言うに及ばず。ラモーの体系にもひと手間加えたい方法論は西洋音楽の側でも醸成されていたのです。
マルセル・ビッチュ著『調性和声概要』に掲載される下属和音上の《長三和音+長七+増九》という和音が平然と紹介されていたりしますし、A・イーグルフィールド・ハル著『近代和声の説明と応用』に於て、短和音を基底に持ち乍ら11th音が♯11thという(もちろん完全五度音を「普遍和音」として包含している)和音は、根音と増11度にて単音程に転回すれば三全音を形成する物の、これが示唆しているのは三全音を包含しつつもそれを属和音として聴かない事を読み取らねばいけない訳です。
属和音に属するタイプではない型の和音にて三全音を包含するタイプの和音種はヒンデミット著『作曲の手引』の和音規定表にて紹介されています。この和音規定表の中でとても目を瞠るべき物は「短二度と長七度を含む和音」という物が平然と載せられている事です。
これは短二度という強い不協和を示すそれを世俗音楽流に見れば「アヴォイド・ノート」を含有する和音と言っても差支えないのです。アヴォイドという物が「不協和」である事のそれを理解していれば(普遍和音の構成音に対して上方に短二度を形成する)、アヴォイドというそれその物の取扱いに尻込みしなくなったり、或いはきっちりと踏まえた上で協和/不協和をきっちりと扱う事が出来る様になる訳です。
こうした事を鑑みれば、ドリアンの6度は何故アヴォイドなのか!?という疑問を抱く人がいるかと思います。
一部の界隈では律儀にマイナーコード上にて生ずる副十三和音としてのナチュラル13thをアヴォイドとする所があるのは、結果的にそれが「トライトーン」を含む事になるという事で、「副和音のクセして属和音含んでどーすんだ!」というスタンスの為に排除される訳です。無論、ドリアンの6度がアヴォイドというのもそれと同様で、ツーファイブを示唆し易い状況を生むからなのですね。愚直に機能和声としての下方五度進行感を演出したいのならば、副和音にて早々と属和音の薫りを醸し出すのは避けるべきですが、非機能的な旋法的な和声や、ドミナント・コードが出て来たにも拘らず下方五度進行はおろか三全音代理も起こさず六度進行したりするケースも珍しくない中でドリアンの6thを莫迦の一つ覚えの様に和声的に避けるというのは愚の骨頂でもある訳です。
また、そうした「差異」が判らない人ならば、アヴォイドを愚直に扱って実際にはツーファイブ感が露になってしまっている事すらもフレーズから自覚できない者の音とか、習熟に甘い者が多くの体系だけを机上で思弁的に知ってしまって尻込みしている様な類のいずれかなのであって、その手の連中が、下方五度進行を薫らせずにアヴォイド・ノートを聴かせるなど到底出来やしないのです(笑)。
ですから私は、オルタード・テンションを纏ったドミナント7thコード上にて自身が臆面もなく本位十一度(ナチュラル11th)音を奏するウェイン・ショーターの「The Last Silk Hat」を読み手の皆さんにおすすめする訳です。サブドミナントのコード上でドミナントの薫りを出してしまったり(なぜならアヴォイド・ノートを使ったから)、ドミナントのコード上でトニックの薫りを出してしまったから(なぜならこれもアヴォイド・ノートを使ったから)薫って来る和音というのは、進行感が稀薄な状態になる訳です。
十三度の和音の果てに
ハ長調域のDm7(on G)なんていうのは最たる物でしょう。ドミナントをドミナントらしく聴こえさせない。すると、13度の和音を用いた時、それは属和音だけの特権だったのが副和音でも副十三として使われる事が普通にあるのです。
そうすると、セクショナル・ハーモニーを形成させる時、仮に先行するフレーズに偶々和音状に「1・3・5・7」(←お判りとは思いますがこれらの数字は度数です)が四声で積まれていたとしましょう。これが次のフレーズとして順次進行すれば四声は「2・4・6・1(=9・11・13・15)」と進むのですから、四声が順次進行している時点で「十三度の和音を解体」している状況でもある訳です。それが平行進行しているとも見做す事も出来る状況でもある訳です。ですからセクショナル・ハーモニーを語った所で私が13度の和音を取り上げていたのはこうした示唆を後に示すが故の意図であった訳なのです。
そういう意味では13度の和音は「Ⅱ→Ⅴ→Ⅰ」を一即多にしている姿であるとも言えます。しかし13度の和音という仰々しい和音を使わずとも、例えばワンコードで延々と繰り広げている時のアンサンブルというのは、背景の和声がシンプルだとしても、それらのフレーズの過程で生じているのは13度の和音の解体と同じ事でもあるのです。それを和音進行として聴かせず、進行感を「堪えて」一発感を維持している訳です。
ただし、ワン・コードとは雖も、リフが極めて明瞭かつ唄い上げている様なフレーズの時、そのリフの過程には「和音進行感」を与えても良さそうなフレージングなど、ロック、ファンク、ソウル、ジャズ、フュージョン、プログレなど凡ゆるシーンでそうした感じを聴いた事があるかと思います。
これは謂わば、「線の強さは和音を逸脱する」という状況と見做す事も可能なのです。和音外音を複雑に取扱っている状況です。仮にワン・コードで背景の和音が「トライアド」だったとしましょうか(笑)。
その際、和音外音としてフレーズ的に11度に相当する音をオルタレーションさせて「♯11th」にした。併し他のフレージングで同じワン・コードであり乍ら次は本位11度音を使ってみせたりなど、そうした複雑な変位というのは楽理的な説明は難しくとも経験した人は多いのではないかと思いますけれどもね。こうした使い分けは、和音外音を複雑に取扱っている事の実際でもある訳です。
当該部は2:47〜3:39。詳細記事はこちら
微小音程の知覚
扨て、多彩な「オルタレーション」という変化というのは、それそのものが半音階的に変化するばかりでなく、微小音程的変化も含んだ上での「変位」を表わしている物です。
そうした微小音程には無自覚に、我々は調性体系を甘受している訳ですが、例えば五度圏に於て属調方面の転調を際限なく繰返していった場合、転調の際に純正音程ばかりで採ってしまうと、属調への転調1回毎に2セント弱ズレてしまう訳ですが、この手の微小音程に無頓着であるが為に、累積していった時にやっと大きなズレに気が付くというのは単なる詭弁でしかありません。微小音程に気付かないのであれば調弦すら出来ませんし、シントニック・コンマもズレた世界でもきっと許容していた事でしょう(笑)。
アロイス・ハーバの四分音律(=24EDO)の特徴的な側面のひとつに、24EDOでの「五度圏」というのは完全五度の累積ではなく中立五度で調域が変わるのであるのが興味深い所です。12等分平均律の五度圏というのは700セントずつ変わっていく訳ですが、ハーバの四分音律というのは650セントずつ採って24個の調性を一周するのです。
先行の和音の根音を後続和音の上音へ取り込む、という和音進行の大原則を、24EDOにて体現してみましょうか。その際アンサンブルに附与する和音は原始的な普遍和音ではなく、勿論不協和音での進行なので機能和声的な進行感を演出する程でもありませんが、次の様なサンプルを聴いてみる事にしましょう。これについては後ほどあらためて解説するので、音そのものに多少の違和感はあれど、それほど強い忌避を覚える程の物でもなく受け入れる事が可能な感じには聴こえてくれていると信じて已みません(笑)。
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この様に話を進めて行く上で、主音と完全五度関係にある「属音」という位置を少しずつ暈したり、叛いたりという風にも或る意味では捉える事が出来るかもしれません。
調性感という物は基本的には主音に対する属音が鎮座しており、それらの二つをどのような角度から見るかによって音楽の情感が変わる物でありますが、主音が絶対なのではなく属音が絶対であるという風に捉えると良いと思います。何故なら先にも述べた様に、倍音を含んだ音であるならば、単音をハ長調で奏した時の「ド」にも上方倍音列には調性から大きく外れた第7倍音やらも実際には倍音として含んでいる訳です(ピアノは意図的にフェルトがピアノ線に当る位置を調整していて第7〜第9次倍音が如実に出ない様にしています)。
「レ」を鳴らせば純正長三度の音を含んでいる訳で、ダイアトニック・コードから見ればD音を根音とするコードはマイナー種であって然るべきですが、倍音構造上としてはメジャーに相当する稍低めのF♯を含んでいる訳です。ですが、調性というのはそうした属音以外にも一様にして同様の倍音列が均されようとも瑣末な現象として脳が棄却している様なもので、「属音を属音として聴く」つまり、主音から完全五度隔てた音は自然倍音列と合致する時に「属音」の権威を与えられるという事であり、属音にそうした因果関係があるのです。
予見を避ける音楽の例証
とはいえ、非機能的と言える和声の社会では、予見の容易い属音が「見え見え」の状態を忌避する事もあります。その「水臭さ」とも形容し得る世界感を暈したりする事で生硬な響きを求められる様にもなったというのも先述の通り。
五度を叛く事で五度を微小音程的に叛く事もあれば、五度ではなく「四度」を使う事もある訳です。アフリカの特定の民族が上方に平行四度のオルガヌムを唄った事の何が凄いのか!?という事を今一度詳しく語ってみると、これまで示した物の含意をあらためて深く吟味出来る事でしょう。
完全四度音程は、ヒンデミットも音程根音に於て上方の音が優位にあるとしてしています。マックス・ヴェーバーも同様に上方の音を優位としている訳ですが、例えば完全四度音程と完全五度音程ではどちらに優位性があるか!?という事は次の譜例にて直ぐにお判りいただけるでしょう。
譜例左は下声部に対して上方に完全四度を採っており、各声部は夫々自然倍音列の基音〜第6次倍音までを表わしています。
然し乍ら完全四度音程側を下声部と同列の整数比で表わす事が出来ない為、上方にある完全四度の側の基音を「4」と見做した時、下声部は「3」から開始されるという風に見做して対照させる事にしましょう。すると、リップス/マイヤーの法則を茲であらためて確認する事が可能となるのですが、音程的に優位なのは「2のn乗」が生ずる音列側に「調的な重力」を生ずる事でもあるので、自ずと完全四度の側は上方音列が優位にある事がこれにてお判りになるかと思います。
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他方、譜例右の完全五度で採る音列の側の上声部というのは、その基音は、下声部が1である時、3から整数倍させた物でしかないので、上声部の倍音列の数字を見てみると「2のn乗」という整列された数字は現われる事はなく、優位的になるのは下声部になるという事があらためてお判りになるかと思います。
平行五度/四度オルガヌムの真髄
これらを踏まえると、アフリカの一部の民族が上方に完全四度平行オルガヌムで採るという事が、基にある声部を如何にして高次な物として捉えているのか、という事が良く判ります。
単純に倍音列を列べても基の音列を3倍に見立てなければ現われない音脈なのですから。極言すれば、ハ長調の音組織を聴き乍ら完全四度平行オルガヌムにてヘ長調を強行させる複調を何食わぬ顔をして平然と唄い上げている事に変りないのですから。
こうした事実を受け止め、あらためて完全四度の音脈を作り上げるという事が、単に上方に備わる倍音の因果関係ではなく、自身の音(=任意の音から完全四度離れたターゲット・ノート)の振る舞いの正当性の為に、基の音の「比率」という基準を変える(変えざるを得ない)という見方こそが、音程に対して感覚を鋭敏にしている表れであると言えるのであります。
音程を鋭敏に捉えるという事に加え、協和感として強く伴わせる完全音程/不完全協和音程に対する「暈滃」という側面も、協和音を暈して聴いて、不協和音を鋭敏に聴くという風に人間の思考が先鋭化するからこそ生ずる世界観なのであります。
処が、和声的感覚が未習熟であるにも拘らず、音の体得の経験が浅い(または無い)ままにして本だけを読み漁って響きを得ようとするのは無理難題である事でしょう。また、紙に書いただけの音を脳裡に描ける能力を持つ人は、和声的感覚の体得など疾っくに備えている筈であり、和音体得云々で苦悩していたりはしない事でしょう。
そこで西洋音楽にて重視される協和/不協和という物をざっくりとジャズ/ポピュラー界隈と対照させる場合、ジャズでのセクショナル・ハーモニーを対位法と対照させると如実に露になります。
セクショナル・ハーモニーの醍醐味は並進行に依る重畳しいハーモニーです。モード・スケールに準えた音組織でハーモニーを形成しますが、一つ一つの音に対して和音状態となってはいても、それらは細かなコード進行となっているのではなく、一定の拍または一定の小節区間内で俯瞰した場合、最高音度として13度の和音を分解して形成している様な物になるのです。
他方、対位法の場合は3度のハーモニーを形成しての並進行というのは避けられます。なぜなら三度で積まれる二声部にて長三度音程が連続する際(この時点で長三度音程=二全音)、次に全音音程で順次進行すれば自ずと次の音度で三全音を形成する為、前後の音にて対斜が起こります。
これを避ける様にして巧みに変応させる手段もありますが、ヘクサコルドで留めたりという風にも形成されたりするのです。そういう意味ではジャズのセクショナルのそれは非常に柔軟に、過程の不協和/協和を扱っている訳ですが、大抵のケースはジャズでは不協和であり、「協和」が齎す物は、調性感を強く感じるドミナントまたはトニック感の要素が強いシーンの時であり、それらのシーンですら実際には和音としてはかなり粉飾して重畳しいコードに仕立てているので、響きは生硬なのです。基本的に対位法の場合、最小の二声で如何にして発展させるかという事が基本にあるのですが、先のジャズの原始的なそれの平行四度オルガヌムにも音脈としては相通ずる所もあるのですが、音脈として共通する部分と、両者の異なる部分という物がどういう物かを朧げ乍らに読んでいた人はこうしてお判りになったかと思います。
不協和の知覚
例えば、SDのメンバーの一人ドナルド・フェイゲンのソロ・アルバム『The Nightfly』収録の「Maxine」のAメロ冒頭のコードは《C♯m7(♭5)》というハーフ・ディミニッシュですから、この和音自体が既に三全音を包含している事は明々白々である訳でして、その上コーラスのラインはセクショナルで組まれている(徹頭徹尾セクショナルで組んでいる訳ではない)のでありまして、よもや予見の楽な協和感の世界からすればその取扱いこそが異端でしょうが、ジャズ・ハーモニーとは得てしてこういう物です。不協和の次には必ず協和があるという風に、直ぐに息切れを起こして羽を休めたいかの様に音楽を聴いてしまっている事こそが習熟に甘いと謂わざるを得ません。
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また、ハーフ・ディミニッシュが不協和音で有り乍らも後続和音が「協和の標榜」と為すべく物でもないのがジャズ系統のハーモニーの醍醐味であり、「Maxine」の後続和音はC9(♯11)という風に、ジャズのコード進行というのはなかなか協和音という物が現われないのも特徴の一つです。勿論、そうした響きの中に協和感を示す「線」となる音は存在しているのですけれどもね。単にコード種を覚えるだけで手一杯で肝心の響きを体得していない人の場合、いざこうした生硬なハーモニーが形成されると、耳の能力も形成されていないでしょうから、音楽の線と音を読み取れぬまま、単に響きが生硬で混濁しただけの音と捉えてしまいがちで、況してや己の未習熟な能力を棚上げして音楽の方面を断罪するというのは能く見掛ける物でもあります。
トリスタン和音の多義的解釈
ハーフ・ディミニッシュにしても、それを単にハーフ・ディミニッシュという型という和音としてだけで見立ててしまうと、世俗音楽界隈しか知らぬ者が皮相的にトリスタン和音と見做しかねないとんでもない近視眼的理解であるのですが、実はトリスタン和音というのはジャン゠ジャック・ナティエ著『音楽記号学』でも取り上げられる訳ですが、希代の大家33人に依る33様の和音解釈を取り上げている大変貴重な資料でもあります。
3度音程の堆積として単音程に転回してしまえばそれこそ世俗音楽界隈の体系であるハーフ・ディミニッシュに過ぎないそれが何故それほどの解釈があるのか!?というと、それは「不協和」に対しての解釈ひとつを採っても同じ様に捉えていないからであります。
こういう側面を鑑みても音楽とは協和/不協和という二義的な構造に別ける事は難しい物である訳です。誰もが思い浮かべる共通認識としての標榜(=概ねそれは調性にある主音と属音)を直視するという世界観で作品を構築しているならば、音楽的な答が一義的に見えてしまうような世界感でも充分というシーンはあるでしょうが、音楽というのは決して一義的ではないという事が、不協和音という物を巧緻に活用する事であらためて能く判る物でもあるのです。
付加六ふたたび
次の話題は属音を暈滃する策としての付加六度です。以前に6thコードの取扱い方を取り上げた時、その上行限定進行音に関してみっちりと指摘しましたが、西洋音楽にて付加六度が出来た背景というのを茲で少しだけ補足して語っておきますが、嘗てジャン=フィリップ・ラモーがⅣ→Ⅰへの進行に対して整合性を持たせる為でもあったのです。
シャイエはその後(この時点で20世紀後半です)ラモーは何故附加四度を体系化しなかったのだろうと歎息するのでありますが、西洋音楽界隈ではその後ラモーの門下にあったダランベールがラモーと袂別し反旗を翻してルソー等に寄り添った独自の和声論(ラモーの解釈を棄却する様に)を唱えたりもしていますが、その後時代はどちらを選んだかと謂えば言うに及ばず。ラモーの体系にもひと手間加えたい方法論は西洋音楽の側でも醸成されていたのです。
マルセル・ビッチュ著『調性和声概要』に掲載される下属和音上の《長三和音+長七+増九》という和音が平然と紹介されていたりしますし、A・イーグルフィールド・ハル著『近代和声の説明と応用』に於て、短和音を基底に持ち乍ら11th音が♯11thという(もちろん完全五度音を「普遍和音」として包含している)和音は、根音と増11度にて単音程に転回すれば三全音を形成する物の、これが示唆しているのは三全音を包含しつつもそれを属和音として聴かない事を読み取らねばいけない訳です。
属和音に属するタイプではない型の和音にて三全音を包含するタイプの和音種はヒンデミット著『作曲の手引』の和音規定表にて紹介されています。この和音規定表の中でとても目を瞠るべき物は「短二度と長七度を含む和音」という物が平然と載せられている事です。
これは短二度という強い不協和を示すそれを世俗音楽流に見れば「アヴォイド・ノート」を含有する和音と言っても差支えないのです。アヴォイドという物が「不協和」である事のそれを理解していれば(普遍和音の構成音に対して上方に短二度を形成する)、アヴォイドというそれその物の取扱いに尻込みしなくなったり、或いはきっちりと踏まえた上で協和/不協和をきっちりと扱う事が出来る様になる訳です。
こうした事を鑑みれば、ドリアンの6度は何故アヴォイドなのか!?という疑問を抱く人がいるかと思います。
一部の界隈では律儀にマイナーコード上にて生ずる副十三和音としてのナチュラル13thをアヴォイドとする所があるのは、結果的にそれが「トライトーン」を含む事になるという事で、「副和音のクセして属和音含んでどーすんだ!」というスタンスの為に排除される訳です。無論、ドリアンの6度がアヴォイドというのもそれと同様で、ツーファイブを示唆し易い状況を生むからなのですね。愚直に機能和声としての下方五度進行感を演出したいのならば、副和音にて早々と属和音の薫りを醸し出すのは避けるべきですが、非機能的な旋法的な和声や、ドミナント・コードが出て来たにも拘らず下方五度進行はおろか三全音代理も起こさず六度進行したりするケースも珍しくない中でドリアンの6thを莫迦の一つ覚えの様に和声的に避けるというのは愚の骨頂でもある訳です。
また、そうした「差異」が判らない人ならば、アヴォイドを愚直に扱って実際にはツーファイブ感が露になってしまっている事すらもフレーズから自覚できない者の音とか、習熟に甘い者が多くの体系だけを机上で思弁的に知ってしまって尻込みしている様な類のいずれかなのであって、その手の連中が、下方五度進行を薫らせずにアヴォイド・ノートを聴かせるなど到底出来やしないのです(笑)。
ですから私は、オルタード・テンションを纏ったドミナント7thコード上にて自身が臆面もなく本位十一度(ナチュラル11th)音を奏するウェイン・ショーターの「The Last Silk Hat」を読み手の皆さんにおすすめする訳です。サブドミナントのコード上でドミナントの薫りを出してしまったり(なぜならアヴォイド・ノートを使ったから)、ドミナントのコード上でトニックの薫りを出してしまったから(なぜならこれもアヴォイド・ノートを使ったから)薫って来る和音というのは、進行感が稀薄な状態になる訳です。
十三度の和音の果てに
ハ長調域のDm7(on G)なんていうのは最たる物でしょう。ドミナントをドミナントらしく聴こえさせない。すると、13度の和音を用いた時、それは属和音だけの特権だったのが副和音でも副十三として使われる事が普通にあるのです。
そうすると、セクショナル・ハーモニーを形成させる時、仮に先行するフレーズに偶々和音状に「1・3・5・7」(←お判りとは思いますがこれらの数字は度数です)が四声で積まれていたとしましょう。これが次のフレーズとして順次進行すれば四声は「2・4・6・1(=9・11・13・15)」と進むのですから、四声が順次進行している時点で「十三度の和音を解体」している状況でもある訳です。それが平行進行しているとも見做す事も出来る状況でもある訳です。ですからセクショナル・ハーモニーを語った所で私が13度の和音を取り上げていたのはこうした示唆を後に示すが故の意図であった訳なのです。
そういう意味では13度の和音は「Ⅱ→Ⅴ→Ⅰ」を一即多にしている姿であるとも言えます。しかし13度の和音という仰々しい和音を使わずとも、例えばワンコードで延々と繰り広げている時のアンサンブルというのは、背景の和声がシンプルだとしても、それらのフレーズの過程で生じているのは13度の和音の解体と同じ事でもあるのです。それを和音進行として聴かせず、進行感を「堪えて」一発感を維持している訳です。
ただし、ワン・コードとは雖も、リフが極めて明瞭かつ唄い上げている様なフレーズの時、そのリフの過程には「和音進行感」を与えても良さそうなフレージングなど、ロック、ファンク、ソウル、ジャズ、フュージョン、プログレなど凡ゆるシーンでそうした感じを聴いた事があるかと思います。
これは謂わば、「線の強さは和音を逸脱する」という状況と見做す事も可能なのです。和音外音を複雑に取扱っている状況です。仮にワン・コードで背景の和音が「トライアド」だったとしましょうか(笑)。
その際、和音外音としてフレーズ的に11度に相当する音をオルタレーションさせて「♯11th」にした。併し他のフレージングで同じワン・コードであり乍ら次は本位11度音を使ってみせたりなど、そうした複雑な変位というのは楽理的な説明は難しくとも経験した人は多いのではないかと思いますけれどもね。こうした使い分けは、和音外音を複雑に取扱っている事の実際でもある訳です。