その和音、ホントに実像ですか!? (3)

扨て、下方倍音列とは馴染みが薄いシーンだとは思います。


そもそも「実像」として見せてくれている姿ではないのでなかなか認識しにくい為に、「そんなモン、眉唾モンだぜ!」とばかりに真っ向否定されちゃう向きもあるんですが(笑)、まあ目に見えないモンだからと言ってUFOやお化けの存在を肯定するようなモンではないので、その手の方々でも腑に落ちるように説明していかなければならないかな、と思ってはいるんで普段よりも丁寧に語って行こうと思っております。

下方倍音列について全く無知な人というのは私のブログをお読みになられている方ではまずいらっしゃらないのではないかと思いますが、その前に、ココんトコロの左近治のブログタイトルをあらためて気に留めていただけると有難いのですが、なぜ「実像」とやらにこだわっているのか!?というトコロにギモンを抱いていただけると助かるんですなあ。

そもそも下方倍音列というモノがどうであれ、まず語っておきたい所が「根音バス」というシロモノ。端折って語って行きますが、「根音バス」ってぇのは次のような考えに基づいているコトです。

●本来在るべき最低音のこと
●3度音程を頼りに、想起し得る最も低い確定的な音のこと

という風に捉えていただきたいワケです。


例えば、あるアンサンブルの音を抜粋してみたらハ長調の曲において次のように表記せざるを得ない音だったとします。

E、G、H(英名:B音)、D


上記の音がハ長調のトニックの場面だとすれば、アンサンブル中にC音が無くとも「根音バスはC」という風に説明すれば良いというシーンを例に挙げているのがコレです。言い換えるとこの場合、アンサンブル中にC音はないけれども「意図している音」がCなので、概念的な音を刺し閉めているものの根音バスはC。つまりC音はこの場合存在していないけれども、コードネームとして「CM9」が与えられるようなモノだと思ってもらえればよろしいです。これが根音バスの「低次の世界」でのやり取りです。

※別のシーンにおいて意図するのが「Em7」であり、トニック上で無理やりEm7のままで居るというシーンではなく、トニックとは別の方角からただ単に純粋にEm7を機能させたいシーンにおいての根音バスは!?と問われればその場合は「E」となります。お解りになったでしょうか!?



根音バスを突き進めて行く上で「高次の」世界のやり取りの前にもうひとつ段階がありますが、想起し得る概念的な音(コレが根音バスの正体)は朧げに判っているものの、実体として見えている和声の一部が和声的な構造として非常に親和性のある形であるため3度を下方に追い求めても遠方に根音バスを導いた結果、使用することが稀なタイプの和声として成立してしまったため忌避してしまうというケースも中にはあります。実はこの世界を進めて行くと下方倍音列がすぐに視野に入ってくるのであります。そしてこの下方倍音列とやらをきちんと理解していくと、根音バスはさらに拡張的にさらに遠方の3度を探るように、結果的にエドモン・コステールの属二十三の和音を最終形とするような方向に行く、というのが「高次な」例としてご理解いただければな、と思います。


まあ、その根音バスを追究して行く上で例えば、ハ長調でトニック・メジャーつまるところ「C△」があったとします。この和声は調的にも和声的にもとても安定して協和している構造であるため、ここから無闇に3度を頼りに探らなくても別に構わないんじゃないの!?みたいな、まあ、平行短調側の姿としてAm9を想起することも可能ですが、私の語りたいのはハ長調の世界から少々逸脱するカタチとしての和声の発展ですね。そういう発展の方を今から語るワケです。

ハ長調から逸脱したカタチでC△を包含するコードを下方の3度を頼りに探ると(ノン・ダイアトニックという意味ですね)、Aは平行短調としての音程的な位置関係ですので自ずと「Ab△7 (+5)」を示唆するようになります。ところがこの増三和音に長七度というカタチは一般的にはそれほど使われる「型」でもなく、ノン・ダイアトニックな世界においてもあらゆる調を視野に入れようがチャーチ・モードの世界では発生しないタイプ。こうなると縁遠いので、コチラをイメージしてまで遠方の三度を頼りに根音バス探しの旅ってぇはそう長く続きはしない、というコトなんでしょうな(笑)。まあ「根音バス」という概念的に生じる三度への追究みたいな例をこうしてお判りいただけると助かります。


で、下方倍音列というのをそんなに難しく考えていただいて断罪されちゃうのはコチラとしてもそうそう捨て置けないワケでして、色んな例を挙げようと思いますが、あらゆる音世界においてそれが協和音程だろうが不協和音程だろうが耳に届いたコトは事実であります(笑)。

音というのはそもそも大気を伝わって来ているのですが、空気がなければ伝わるワケもないのであります。大気というのは好き嫌いなくあらゆる音を伝播するのであります。仮に大気が好き嫌いをしているとするならば、それは伝播する過程である音波が逆相となって打ち消し合ったりして「消失」するコトだと私は思います。少なくとも「耳に届いた」という事実は、その間において消失する音が無かった(あったとしても残存した事実)という事実をキッチリ届けているのが「音波」の振る舞いなワケです。


三和音(トライアド)において長三和音と短三和音があったとします。これらのトライアドの構造は、それぞれの和音を構成する構成音の各音程幅は、基本形のヴォイシングの場合、完全五度音程を長三度と短三度で区切っただけでありまして、その区切り方が違うだけなんですね。しかし短三和音となってしまうとなぜか澱みがあるように扱われるワケです。

結果的に、そこにある音が長三和音だろうが短三和音だろうが下方倍音列というのはいずれにおいても発生している、と考えてください。

下方倍音列というのは、太陽から照らされて作られる「影」だと思ってください。音としては実体ではないのでありますが影が存在するかのような。さらに例えると下方倍音列というのはシンクロナイズド・スイミングの様に水面から出た時の体が「実像」であって、水に隠れている方が「下方倍音列」だと思ってもらっても結構です。


耳で聴こえる世界の澱み具合など大気には無関係でありまして、長三和音だろうが短三和音だろうが大気レベルの方からすると同様には扱ってくれるワケですが、「大気の安定」という側面から見ると安定して短三和音の響きを伝えた、というプロセスを見ると実は「影」があるからこそ、より安定できたのではないか!?と考えていただくと判りやすいでしょうか。


つまり、長三和音が富士山の姿だったとします、末広がり具合が下にあって、この上と下を「天地」と表現しましょうか。短三和音の構造ってこれが逆なんです。つまり富士山が逆さまで頂上が「地」を向いているかのような世界なんです。

大気レベルからすると富士山の姿はどうでもいいんですが、短三和音の場合の「富士山が逆さま」状態であるには何らかの理由があってのコトでああいう風に「調和」しようとしているワケなのは確かなんですな。


純正律の世界が天頂から降り注ぐ太陽から照らされている世界だとすると、平均律の世界は真上からではなく太陽の仰角はそれよりも低くなったトコロから映し出す世界だと思っていただければよろしいでしょう。少なくとも影の存在は気にはなるぞ、と(笑)。人間様にとっての協和具合は扨置き、長三和音であろうと短三和音であろうとキチンと届ける大気の「組成」として、短三和音を届ける時って実は結構難しいコトして運んでんじゃないのぉ!?みたいに考えてくれると助かるんですな。我々の目の見えない所でさりげなく短三和音を安定したカタチそのままに届けるには大気にとって「楽な」組成の仕方がある、と。

「大気」というモノを例えば大気の腰から下はカウンターで我々には見えない世界だとしましょうか。長三和音を運んでくる時は大気さんの腰から下はきちっとユニフォーム着用しているんですが、短三和音を運んで来る時は、運んで来ているんですが暑がりなのか腰から下はユニフォーム脱いでた!みたいな(笑)。でもそれ、我々からは見えないし、見えたとしても「影」だから恥ずかしい姿を見たワケじゃないし、どうせ我々は腰から下は見えないし(笑)。


とまあ、こういう世界が下方倍音列の世界だと思ってもらえればよろしいかと。短三和音とて特別扱いではないんだけど、それをキッチリ届けるには大気の側からすれば実際の音には関係ないけどラクに運搬出来る事を大気は味わっている、という風にご理解いただければな、と(笑)。そうすると下方倍音列というのがお判りになったと思うんですが、実像の世界が長三和音であろうと短三和音であろうと下方倍音列は存在します。短三和音の振る舞いの時をよくよく調べてみると、「大気は結構気ィ使こてんねんで!」というコトが判ったと思います(笑)。結果的に「実はそうだったんだ」というコトに気が付くと、下方倍音列というのは長三和音の時であろうがいかなる時でも発生しているのだな、というコトが判ったワケです。これが世間で根音バスから下方倍音列に至る音楽理論の難しい部分をこうして形容してみせたのが今回の左近治であります(笑)。


ですから、平均律の世界というとそれがとても露になったのは、12という長さのものを7という高さしかない窓から景観を眺めるコトしかできなかった我々が12の高さを持つ窓を手にしてみたら色んな姿を見ることができるようになった、と思ってもらえれば結構です。ただ12という高さの窓をそのまま使っているとなんか落ち着かないので、やっぱり7つの大きさにしたテントから見るとラクにくつろいで見るコト出来ますやん!みたいなモンが通常の世界だと思っていただければよろしいんです。

ある定規を作ったとします。長三和音とやらをその定規で測った時に0から基準に測ったとすると、短三和音の場合12からあてがって逆のスケールで測ったようなモノと考えていただければイイのです。いずれにしても、大気が調和しながら音を届けたのは事実であり、大気にしてみれば短三和音だろうが長三和音だろうが無関係なワケですが、大気としては自身が「安定して」伝播するコトだけが重要だったワケです。すると短三和音の場合、構造的に上下ひっくり返ったように伝わって来るのは、その構造というのはもはや「影の部分」を朧げに見せてくれたモノなのではないかと疑うコトもできるんですな。


で、先述のようにダイアトニックな音ではない方向にも3度を頼りに更に下方へ「根音バス」を求めるシーンが出て来ます。

1.ダイアトニックとしてのカタチを求めない
2.根音バスを含めた和声の最終的なカタチがそれまでの一般的な和声の型から逸脱していても無関係

我々は概ねこのように音の欲求は高まっていきます。


例えばAm(=A moll)という短三和音があったとします。根音バスを「F」と定義した場合、この場合「F△7」となります。

Amという和声のカタチの根音バスが「A」というのはごく普通のコトです。よくあるポピュラーな方の言い方で3度ベースっていうのは根音バスではないのはお判りですね!?(笑)。だからといってこの場合F△7の3度ベースなのか否か!?というコトを言わんとするコトではないんです。

Amという短三和音という「最終形」があったとしても、長三和音のようには安定的なカタチではないのに音は届いているワケです。

「そのAmっていう姿、ホントに実像なの?」

という穿った見方をすると、ダイアトニックな方に音を求めると「F△7」を導くコトができますし、ノン・ダイアトニックに目を向けると「F#m7 (-5)」というハーフ・ディミニッシュを導くコトも可能となります。


ひとえに二重導音が生まれようとする前から人々が8つ目の階名を与えようとしていたのは、長調側の「オプション的な」遊びとしてリディア旋法、短調側のオプション的な遊びとしてドリア旋法ってぇのがありまして、どちらもFis音を生じるので、いっそのこと8つ目の音としての地位を与えたらどう!?という議論があったのが1000年も前のコトです。これは「さわらぬ神に祟り無し」ってことで中世までお座なりになっていた事実です。


で、二重導音がポピュラーになった後の時代というのは、属和音の機能が重っ苦しい機能をするモンだから属七の和音の3度と7度に変化を与えて「オプション的な」使い方をするようになるんですな。さらにそこへ拡張的な根音バスを追究するコトでトリスタン和音が発生したりして、ブームになったワケですな。で、色んな方角からも根音バスを与えたりしてコードの種類や機能は多様化していくと共に体系化されていったワケですな。

でもこれだって300~400年前くらいのコトでしょうね、おそらく(笑)。でも、今でも大概の人はこの辺の世界観だけで十分お腹一杯かもしれません(笑)。

voyeur.jpg


まあフュージョン界隈でアレなんですが、今回の根音バスやらAマイナーという世界におけるノン・ダイアトニックな方角やら判りやすい曲がデヴィッド・サンボーンのアルバム「Voyeur」(邦題:夢魔)収録の1曲目「Let's Just Say Goodbye」の「Am7 -> F#m7 (b5) -> F△7 -> E7」という循環コードに一連のヒントがあると思いますのでご存知ない方はお聴きになって下さいね。和声的には全然高次なモンではないですので、物凄い特異な響きを求めている人は面食らうかもしれませんのでご容赦を(笑)。


で、調性音楽というふるまいがどんどん狭いモノに感じられるようになった作曲者は、どんどん高次な音を求めていくワケです。